388手目 前例
私はかるくうなずいて、5八の金に指を添えた。
ぐいッと上がる。
これが、風切先輩の対応だった。
この金上がりで受け止められてしまったのが、私の経験。
橋爪くんは、金髪の頭をかいた。
「なんか研究くさいんだよな……」
研究じゃない。ただ、前例がある。身内で。
一番の不安は、これが奨励会の常識かもしれない、という点だった。
橋爪くんもよく知っている、というパターンだと最悪。
今のようすだと、その懸念は払しょくされたようだ。
橋爪くんは10秒ほど読みなおして、2二玉と入った。
3六歩、4三金、4六歩、同歩、同金。
後手は、過去の私と同じ感じで苦しんでいる。
6四銀と上がったものの、突破口がないのだ。
急戦を挑発されて乗ってみたら、急戦にできないという状態。
ここまでは予定通り。
ただ、楽観はできなかった。
橋爪くんのオーラが、さっきまでとはがらりと変わっている。
右手をひざのうえに立てて、真剣な表情で読んでいた。
ちょっとゾッとするような気迫だ。
私も負けじと読み返す。
残り時間は、先手が23分、後手が20分。
19分を切ったところで、橋爪くんは3二金と上がった。
私は3七桂と跳ねる。
2四角、4五歩。
いったん収める。ただ、これは──
「1二香」
いやあ、さすがの対応力。
当たり前ではあるけれど、前例から大きく離れた。
私のときは、2四角のところで7五歩と、攻めちゃったのよね。
以下、同歩、7二飛、7四歩、8六歩、同歩、8八歩の進行だった。
橋爪くんは、持久戦にもどした。
これがいいのか、悪いのか。
直感的には、穴熊に組めないと思う。
だからこそ、橋爪くんも悩んでいたんだろうし。
私は先手から攻勢に出る順を読んだ。
2分使って、6五歩と突く。
5三銀、7五歩、4四歩、同歩、同銀、4五歩、3三銀。
うむむ、うまい。
4四歩から手順で銀を回転させた。
でもでも、1一玉とするヒマがない、っていう自白になってない?
穴熊に組ませない方法、けっこうあるかも。
私は7六飛で、さらに牽制をかけた。
7五歩、同飛、7三歩、7六飛、1一玉。
んー、さすがに潜らせないのは無理か。
このままだと陣形差がひらくから、立て直さないといけない。
私は5八銀とバックした。
「8六歩」
一本入れてきた。
同歩。
橋爪くんは歩を打った。
マ? 2二銀じゃないんだ。
これは予想していなかった。
うまく逆手に取れないかしら?
なんとなくチャンスな気がする。
2二銀上とされたほうが、絶対困った。
「……7七桂」
8九歩成、6四歩、同歩、8五桂、7二飛。
「6三歩ッ!」
よしッ! うまく絡めた。
橋爪くん、あからさまに動揺。
しまったという顔をしている。
舐めてもらっちゃ困りますよ。学生将棋歴は、こっちのほうが長い。
30分という短時間の使い方。
橋爪くんは、まだ慣れていない感じがした。
もっと時間があれば、8六歩のところで考えたはず。
橋爪くんは、行きがかり上、9九とと取った。
ここで腰を落として考える。
6二歩成、同飛、7三桂成が、第一感。
というか、そういう方針で指している。
ただ…んー……4二飛のあと、手がない?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
6三成桂~7一飛成は、そんなに痛くない。
後手は4四歩、同歩、同金と盛り上がっていけば、逆襲できる。
2四角が、意外と利いてるのか。
私はこの順を、もう少し掘り下げてみた。
4四歩、同歩、同金、5三成桂に4一飛なら、先手がイケそう。
問題は、5三成桂に強く4五歩と打たれる順だった。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
4二成桂、同銀上、7一飛成、4六歩……どう見ても先手がもたない。
私は背筋を伸ばした。
そう簡単に崩れないわけか……ふむ。
とりあえずお茶を飲む。
しばらく考えたあと、橋爪くんの顔色をチェック。
ちらッ──そんなにいい調子じゃ、なさそう。
ということは……先手にいい手があるわけですね、はい。
こういうのも活用していくわよ。
左から攻めるのは、簡単じゃないっぽい。
けど、攻め自体はありそう。でなきゃ、橋爪くんがこんなに困ってるはずがない。
つまり……右からか。なるほど。
ああして、こうして……うん、イケそう。
「1五歩」
端攻め。
よくよく考えてみれば、2二銀が入ってないんだから、端が弱いに決まっている。
橋爪くんの反応からして、図星だったようだ。
元奨のわりに、顔に出やすいのね。風切先輩と対照的。
同歩、6二歩成、同飛、7三桂成、4二飛。
左のほうもある程度決めておく。
1三歩、同香、6三成桂。
「1二香ッ!」
2段ロケット。
てっきり7三歩と謝るかと思った。
私は残り時間を確認。10分。
7一飛成からいければ……っていうか、それくらいしかないか。
私は飛車を成り込んだ。
1六歩、1八歩、4四歩、8一龍、4五歩、同桂、2二銀引。
なんというか、けっきょく固くなってしまった。
4四歩は、5三桂成があるからいいとして、問題は6八の角だ。
これに紐がついていない。
4四歩~4五歩と伸ばされたとき、同金とできなくなっている。
私はいったん5七角。
橋爪くんは、このスキをついて、攻勢に転じた。
5五歩。
同歩とはできない。4六の金が不安定すぎる。
4四金とプレッシャーをかけられるくらいで困る。
私は泣く泣く4七歩と打った。
5六歩、同金、5七角成、同銀、5五歩、4六金、3五歩。
い、いかん、固い、攻めてる、切れてないになってきた。
このままだと一方的になるから、私も反撃する。
5三成桂と寄せる。
同金、同桂成。
「4六飛だッ!」
切るのは予想済み。
っていうか、飛車の逃げ場所がないし。
同銀で3筋をガード。
橋爪くんは、4八歩と打ってきた。
私は反射的に3九金……ん? 待って。
後手は2段ロケット。
……………………
……………………
…………………
………………2五桂が詰めろだッ!
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
しま……った。
さっきまでは左が広かったから、気にしてなかった。
ごちゃごちゃやってるあいだに、王様が狭くなっている。
4八同金は5六桂で、さらに狭くなる。
私は5九金とした。
「4九金」
ぐぅ、むりやり狭くするつもりか。
私は苦悶した。
悪くした感触がある。っていうか、たぶん悪い。
チェスクロを確認する。残り時間は、先手が3分、後手が4分。
寄せを考えると、ここで使い切るわけにはいかない。
「……8二飛」
寄せ合いの可能性を残す。
橋爪くんは3秒で2五桂と置いた。
4九銀、同歩成、同金、3六歩、3八歩、4五歩。
同銀は3七角で即詰み。
これは取れない。
ピッ
ぐッ、1分将棋ッ!?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「3二飛成ッ!」
もう切るしかない。
同銀に3四桂。
これは簡単な詰めろ。2二桂成、同玉、3一銀以下。
橋爪くんは、先手玉を追い回すだけ追い回すルートを選択した。
1七歩成、同歩、同香成、3九玉、2九飛、4八玉。
ここで3三銀打と、手をもどした。
え、なんかない? 後手は、追いかけ方をミスったのでは?
安全になった気がする。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「ご、5四角ッ!」
橋爪くんは頭に手をやり、背筋を曲げた。
片目を細めて、盤を睨む。
ピッ
橋爪くんも1分将棋に。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
うわあ、めんどくさいのきた。
同歩に3一歩だ。
いっそのこと、5七玉から脱出しようかしら。
私は入玉も視野に入れ始めた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
とりま同歩。
橋爪くんはノータイムで3一歩。
うーん、入玉もありなんだけど……入り切れるかどうかは、微妙。
切る……ほうがいいか。
1三歩と2二桂成は、届かない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
3二角成、同歩、3一金。
詰めろがかかった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
えッ……あッ!? 王手龍ッ!?