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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第8章 2016年度春季個人戦3日目(2016年5月1日日曜)
40/487

39手目 優勢

 4五歩、4二飛――私は30秒ほど読みなおす。

「5九玉」


挿絵(By みてみん)


 たちばなさんは、言葉を発さずに、下くちびるを人差し指で撫でた。

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

 悪いと思ってるんじゃない?

 将棋指しは、形勢ごとにクセがある。例えば、風切かざぎり先輩。ときどき、うしろで束ねた髪を肩にかけて、指でくるくる回している。あれは、優勢を意識している合図だと思う。2週間ほどして、ようやく気付いた。

 橘さんのクセは、まだ分かっていない。でも、くちびるを撫でたのは、なにやらそれっぽい仕草だと感じた。というのも、橘さんは普段、指を噛んだり顔に当てたりこすったりしないからだ。さすがは、元お金持ちの専属メイド、という礼儀正しさがある。それに、局面も私がちょっと押している――と思う。

 結局、橘さんは2分ほど使って、3五歩と取った。

「6四歩」

 同歩、4四歩、同金。

 私は駒音高く、2四歩と楔を打ち込んだ。

 

挿絵(By みてみん)


 手応えを感じる――橘さんを相手にして、初めて優勢になったかも。

「3四金」

 ちょこちょこ時間を使っていた橘さんは、いきなりノータイム指しになった。

 ここまでは読んでたってことかしら。

 イイときが一番危ないから、私は慎重に読みを進める。予定だと、ここで4五桂と逆に跳ねるつもりだった。その方針は変わっていない。以下、4四銀、6四飛までは確定で、次の後手側の対応が問題。

 候補としては、

 

 A 6二歩で飛車先を止める

 B 2四金で歩を払う

 C 4五銀で桂馬を取る


 の3択かなぁ。6二歩は、一目よくない。7四飛、7三歩、8四飛でやぶ蛇だ。6筋に歩を垂らせなくなるのも痛い。というわけで、本格的に考える必要があるのは、2四金とするB案か、4五銀とするC案。前者は守り、後者は攻め。

 2四金の場合は、6一飛成、4五銀、同銀、7七角成、同桂、4五飛……ん? 5六角が王手飛車になってる?


挿絵(By みてみん)


 (※図は香子きょうこちゃんの脳内イメージです。)


 角を打てば、飛車角交換になるけど……でも、さすがに先手が……いや、そうでもないのか。こっちが桂損してる。むしろ、5六角、3四角の打ち返しに、取らないで8一龍もありそう。そこで後手の手が、若干むずかしい。さすがに4九飛成、同玉、5六角、同歩の踏み込みは、成立してないんじゃないかしら……ん? 待ってよ。

 これ、後手から7七角成、同桂なら王手飛車だけど、それを入れずに4五飛といきなり走る手があるわね。


挿絵(By みてみん)


 (※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)

 

 2二角成、同玉、5六角が王手飛車じゃないから、私のほうがマズそう?

 これで私が悪いなら、桂馬を取られるまえに、動かないといけない。例えば、2四金に3三歩と打って、同桂、同桂成、同銀引と清算してから、6一飛成はどうかしら。これなら、先手が一方的に攻めている。3六桂の打ち返しが気になるかな、ってところ。

 私は、残り時間を確認した。こっちが15分、橘さんが17分。

 4五銀(C案)のパターンを考えて、いい案配になりそうね……さて……2四金に代えて4五銀は、直接的に桂得を狙った手。3三歩は許しませんよ、という意味だ。同銀と取るしかなくて……4五同飛? 4五同金は、かたちが悪過ぎるし、2四の歩を払う方法がなくなるから論外だと思う……あれ?

 4五同飛だと、今度こそ2二角成、同玉、5六角がある?

 

挿絵(By みてみん)

 

 (※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)

 

 これ……困ってるわよね。もしかして、思ってた以上に優勢?

 私は、もういちど読み直した。穴があるようにも見えない。

「……4五桂」

 予定の桂跳ねを敢行。橘さんが、どう出るか。

「……」

 橘さんは、無言でくちびるを触った。

 やっぱり、形勢不利のときの癖だ。それどころか、橘さんは前髪に手をあてて、盤面をななめに睨み始めた。いつものメイドらしい態度がなくなってくる。

「4四銀」

 あがった……これは当然の一手。

 私は6四飛と走る。次の応手が気になるところ。

「失礼します」

 橘さんはそう言って、鞄をごそごそやり始めた。ブランドものなんだけど、年季が入り過ぎてて、ぼろぼろ。手洗いのための離席かと思いきや、これまた古い水筒が出てきた。蓋を開けると、紅茶の香りが漂う。

「……」

 橘さんは静かに――盤面をにらんだまま、紅茶を飲んだ。

 真剣に読んでいるのを感じる。気合い負けしないように、私も読みを入れた。

 橘さんは、持ち時間が逆転するまで考えて、水筒の蓋を置いた。

「こうですか」


 パシリ

 

挿絵(By みてみん)


 取った。4五同銀(C案)の選択だ。

 私は30秒ほど確認して、同銀と取り返す。

「同飛」

「2二角成」

「……同玉」

「5六角」

 予定通りの進行――パーフェクトに困ってるでしょ、これは。

 練習試合なら、投了してもおかしくない局面だ。

 橘さんは、もういちど紅茶を飲んだ。それから蓋を閉めて、背筋を伸ばした。プロだと投了の合図……だけど、橘さんは軽くうなずいて、盤面に手を伸ばした。

 私の陣地の深くに。

 

 パシリ

 

挿絵(By みてみん)


 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

 あるかな、とは思ってた。気味の悪い手だ。

 主張自体は単純で、「桂金と飛車の交換だから損してないでしょ?」ということ。

 かたちとしては……同玉が一番安全。同銀は右側にスキマができる。くわえて、なにかあったとき、角の王手をされやすい。例えば、6二飛成なら9五角が王手龍だ。

 4九同玉……2四金と払ってきそう。2八角みたいな手は、6二飛成、1九角成、2三銀で、先手必勝になる。


挿絵(By みてみん)


 (※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)


 2三銀を防止する2四金は、必須。そのあとを考えるのが私の仕事……なんだけど、いくらでも手があるような気がする。飛車を成ってもいいし、あるいは、1筋や2筋を攻めてもいい。

 個人的に好みなのは、端を絡めるパターンかしら。せっかくの藤井システム。1四歩、同歩、同香と即捨てして、同香なら1二飛の一発KO。


挿絵(By みてみん)


 (※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)


 これはさすがに助からない。

 かと言って、1四歩に手抜くこともできない。

 ということは……1四同香のタイミングで、なにかして来そう。

 4六桂? 4六桂、1一香成、3八桂成、同玉……ここで1一玉と取れないから、私の勝ちじゃないかなぁ。全体的に、怖い筋が見当たらない。将棋を指していて、一番楽しい時間になってきた。橘さんには申し訳ないけど。

「4九玉」

 私は龍を取って、チェスクロを押した。

 2四金に1四歩。軽快に端歩を突く。

 同歩、同香――橘さんは、持ち駒の歩を手にした。

 歩? 1三歩か1二歩と受けるつもり?


 パシリ

 

挿絵(By みてみん)


 そっちか……角道を封鎖しに来たわけね。

 同角と1一香成を比較してみる。1一香成は、即座に香車を回収する手だ。同玉、4五角と出る。他方で、先に4五同角、2三金打、1一香成、同玉もありうる。あんまり変わりがないような……できれば、1一の成香を取られたくないのよね。挟撃形にしたい。

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

 あ、なんとなく思いついた。ああして、こうして……うん。

「同角」

 私は4五同角として、2三金打の受けに4二歩と打った。

「そう来ましたか……同金です」

「3一銀」


挿絵(By みてみん)


 あくまでも挟撃を優先する。

「攻め駒が足りるのですか? 同玉」

 橘さんに挑発は無視して、我が道をゆく。

 1一香成、4六桂(反撃)、6一飛成、4一銀打。

「3三歩ッ!」


挿絵(By みてみん)


 ここが急所ッ!

 同銀でも同金上でも、4一に利く駒が1枚減る。

 同金寄は1二角成があるからありえない。

 残る選択肢はひとつ――

「同桂」

 そうこなくっちゃ。私は冷静に、5四角と逃げた。

 4三歩、4四歩、5二銀打、8一龍。


挿絵(By みてみん)


 局面は、明確になった。

 後手は攻め駒がないから、先手の攻めを切らす以外に勝ち筋がない。

 先手は受け駒がないから、後手を攻め切るしか勝ち筋がない。

 先手の攻め、後手の受け――そう判断した瞬間、奇妙な手が飛んできた。

「4五角」

 ……後手から攻めた? いや、これは単に角を消す手のはず。

 私は5六香と置いて、5四角、同香――あッ、そっかッ!

「3六角です」


挿絵(By みてみん)


 しまった……香得を消された……。

 4七銀とすれば、桂馬を取りにいけるんじゃない? 4七銀、5四角……龍に当たってるから、ひとまず9一龍……あ、4五香があるのか……これは痛い……私は背中が熱くなるのを感じて、無意識のうちにペットボトルをつかんでいた。

 優位が消えた? ……いや、私のほうがイイはず。

 後手に金駒かなごまがあれば怖いけど、全部受けに投入させた。いける……はず。

 とりあえず、4七銀は確定だと思う。金取りを受けないといけない。そこで5四角……この龍当たりが、予想以上につらい……9一龍は5八桂成だし、かと言って逃げない手は絶対にないし……受けながら逃げる? どうやって?

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

 8五龍?


挿絵(By みてみん)


 (※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)


 これ、かなりイヤな手だと思う。後手にとって。

 というのも、この歩を払ったら、ほぼ入玉が確定するからだ。

 点数勝負になれば、後手は大駒1枚で負けの可能性が高い。

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

「4七銀」

 私は、とりあえず受けた。

「5四角」

 ふたたび30秒考える。橘さんは、私の小考を不審に思ったのか、チラ見してきた。

 視線を返すヒマもない。私はさらに30秒考えたすえ、次の手を決断した。

「8五龍」

 龍を引き切ると、橘さんの顔色が変わった。

「うッ……それは……」

 入玉してこないと、タカをくくってたっぽい反応。

 これまでの練習将棋で、私は攻めに重点をおいていたから、当然かも。

 だけど、私だって入玉できそうなときはするんですよ。前の対局内容を、晩稲田の部員から聞いていなかったのかしら。今になって思えば、じろじろ見られている気配はなかった。スパイが手抜きしていた可能性もある。っていうか、多分、そう。

 橘さんは、うっすらと口を開けたまま、盤面をみつめた。

 どんどん時間がなくなる――残り5分を切ったところで、ようやく動いた。

「2七角成」


挿絵(By みてみん)


 直接的な王手……3八に合駒は利かないから、私は5九玉と逃げた。

 5八桂成、同玉、6六歩。頓死狙いの垂らしだ。後手に金駒が2枚渡ると、6七に打ち込んで、5九玉、6八銀打(or金打)、4八玉、4九金まで。さらに、3七馬から銀を露骨に取りに行く手も生じる。例えば、6七金、6九玉、3七馬とか。

 そのあいだに後手をどう寄せるか、慎重に選ばないといけない。まず、後手陣の状況を整理しましょう。いきなり詰めろはかから……かかる。1二角が詰めろ(2一飛、同銀、同角成まで)。ただ、これは2二玉と逃げられたとき、2一飛、同銀、同角成、1三玉のかたちが、まったく詰まなくなってると思う。しかも、入玉模様。

 つまり、2二玉〜1三玉〜1四玉〜1五玉の脱出経路をふさぐ必要があるわけね。1五歩とか1四歩が無難かな……いや、1四歩は同金寄でふさがってない。となると、1五歩が本命……でも、この手自体は、詰めろでもないし駒当たりでもないから、ヌルい。もっと厳しく迫る必要がある。例えば……1五桂?

 

挿絵(By みてみん)


 (※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)

 

 同金なら、3四桂と打つ。3四桂に同金は、1二角が王手金取り。かと言って放置は、6七金、6九玉、3七馬、1二角が詰めろ。先手は4七馬とされても、7九玉、5七馬、8八玉、7九銀、9八玉で詰まない。後手は金銀の連結が悪くて、脱出経路を作れないから、先手の勝ち。

 私は、残り時間が5分を切ったことを確認してから、1五桂と打った。

 6七金(いきなり放置)、6九玉、3七馬、2三桂成、同金。

 当初の予定を変更して、最後に金を回収しておいた。こっちのほうがいい。

「3四桂」


挿絵(By みてみん)


 結局、似たようなかたちになった。

 橘さんは、残り1分まで考えて、4七馬、7九玉、6九馬と入る。一瞬ヒヤっとしたけど、これも5七馬のバージョンとおなじで、ぎりぎり寄らない。8八玉、2一香。

 私は最後の持ち時間を投入する。

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

 読み切った。

「1二金」


挿絵(By みてみん)


 これで勝ち。一見詰めろにみえないけど、1三角からの詰めろだ。同金、2一成香、同銀に同金と取るんじゃなくて(それは同玉、2二飛、3一玉で困る)、2二桂成、同銀、2一飛、3二玉、2二飛成まで。1三角に2二合駒は、同桂成、同香、2一飛、同銀、同成香、3二玉、2二角成、同金、同金まで。先手は、7八金、9八玉、7九馬で詰めろにはなるけど、こちらのほうが一手早い。

 私は、お茶を飲んでひと息ついた。読み抜けはないはず。

 橘さんは、歯ぎしりするように、前歯を噛み合わせた。

「序盤の2四歩が、完全に手拍子とは……」

 

 ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!


「負けました」

場所:2016年度 春季個人戦3日目 女流3回戦

先手:裏見 香子

後手:橘 可憐

戦法:先手藤井システム


▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲6六歩 △6二銀

▲6七銀 △4二玉 ▲6八飛 △3二玉 ▲3八銀 △5四歩

▲1六歩 △5二金右 ▲5八金左 △8五歩 ▲7七角 △5三銀

▲4八玉 △4四歩 ▲4六歩 △4三金 ▲3六歩 △3三角

▲3七桂 △7四歩 ▲6五歩 △2二玉 ▲5六銀 △2四歩

▲2六歩 △3二銀 ▲2五歩 △1二玉 ▲1五歩 △2五歩

▲3五歩 △2二角 ▲4五歩 △4二飛 ▲5九玉 △3五歩

▲6四歩 △同 歩 ▲4四歩 △同 金 ▲2四歩 △3四金

▲4五桂 △4四銀 ▲6四飛 △4五銀 ▲同 銀 △同 飛

▲2二角成 △同 玉 ▲5六角 △4九飛成 ▲同 玉 △2四金

▲1四歩 △同 歩 ▲同 香 △4五歩 ▲同 角 △2三金打

▲4二歩 △同 金 ▲3一銀 △同 玉 ▲1一香成 △4六桂

▲6一飛成 △4一銀打 ▲3三歩 △同 桂 ▲5四角 △4三歩

▲4四歩 △5二銀打 ▲8一龍 △4五角 ▲5六香 △5四角

▲同 香 △3六角 ▲4七銀 △5四角 ▲8五龍 △2七角成

▲5九玉 △5八桂成 ▲同 玉 △6六歩 ▲1五桂 △6七金

▲6九玉 △3七馬 ▲2三桂成 △同 金 ▲3四桂 △4七馬

▲7九玉 △6九馬 ▲8八玉 △2一香 ▲1二金


まで107手で裏見の勝ち

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