39手目 優勢
4五歩、4二飛――私は30秒ほど読みなおす。
「5九玉」
橘さんは、言葉を発さずに、下くちびるを人差し指で撫でた。
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悪いと思ってるんじゃない?
将棋指しは、形勢ごとにクセがある。例えば、風切先輩。ときどき、うしろで束ねた髪を肩にかけて、指でくるくる回している。あれは、優勢を意識している合図だと思う。2週間ほどして、ようやく気付いた。
橘さんのクセは、まだ分かっていない。でも、くちびるを撫でたのは、なにやらそれっぽい仕草だと感じた。というのも、橘さんは普段、指を噛んだり顔に当てたりこすったりしないからだ。さすがは、元お金持ちの専属メイド、という礼儀正しさがある。それに、局面も私がちょっと押している――と思う。
結局、橘さんは2分ほど使って、3五歩と取った。
「6四歩」
同歩、4四歩、同金。
私は駒音高く、2四歩と楔を打ち込んだ。
手応えを感じる――橘さんを相手にして、初めて優勢になったかも。
「3四金」
ちょこちょこ時間を使っていた橘さんは、いきなりノータイム指しになった。
ここまでは読んでたってことかしら。
イイときが一番危ないから、私は慎重に読みを進める。予定だと、ここで4五桂と逆に跳ねるつもりだった。その方針は変わっていない。以下、4四銀、6四飛までは確定で、次の後手側の対応が問題。
候補としては、
A 6二歩で飛車先を止める
B 2四金で歩を払う
C 4五銀で桂馬を取る
の3択かなぁ。6二歩は、一目よくない。7四飛、7三歩、8四飛でやぶ蛇だ。6筋に歩を垂らせなくなるのも痛い。というわけで、本格的に考える必要があるのは、2四金とするB案か、4五銀とするC案。前者は守り、後者は攻め。
2四金の場合は、6一飛成、4五銀、同銀、7七角成、同桂、4五飛……ん? 5六角が王手飛車になってる?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
角を打てば、飛車角交換になるけど……でも、さすがに先手が……いや、そうでもないのか。こっちが桂損してる。むしろ、5六角、3四角の打ち返しに、取らないで8一龍もありそう。そこで後手の手が、若干むずかしい。さすがに4九飛成、同玉、5六角、同歩の踏み込みは、成立してないんじゃないかしら……ん? 待ってよ。
これ、後手から7七角成、同桂なら王手飛車だけど、それを入れずに4五飛といきなり走る手があるわね。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
2二角成、同玉、5六角が王手飛車じゃないから、私のほうがマズそう?
これで私が悪いなら、桂馬を取られるまえに、動かないといけない。例えば、2四金に3三歩と打って、同桂、同桂成、同銀引と清算してから、6一飛成はどうかしら。これなら、先手が一方的に攻めている。3六桂の打ち返しが気になるかな、ってところ。
私は、残り時間を確認した。こっちが15分、橘さんが17分。
4五銀(C案)のパターンを考えて、いい案配になりそうね……さて……2四金に代えて4五銀は、直接的に桂得を狙った手。3三歩は許しませんよ、という意味だ。同銀と取るしかなくて……4五同飛? 4五同金は、かたちが悪過ぎるし、2四の歩を払う方法がなくなるから論外だと思う……あれ?
4五同飛だと、今度こそ2二角成、同玉、5六角がある?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これ……困ってるわよね。もしかして、思ってた以上に優勢?
私は、もういちど読み直した。穴があるようにも見えない。
「……4五桂」
予定の桂跳ねを敢行。橘さんが、どう出るか。
「……」
橘さんは、無言でくちびるを触った。
やっぱり、形勢不利のときの癖だ。それどころか、橘さんは前髪に手をあてて、盤面をななめに睨み始めた。いつものメイドらしい態度がなくなってくる。
「4四銀」
あがった……これは当然の一手。
私は6四飛と走る。次の応手が気になるところ。
「失礼します」
橘さんはそう言って、鞄をごそごそやり始めた。ブランドものなんだけど、年季が入り過ぎてて、ぼろぼろ。手洗いのための離席かと思いきや、これまた古い水筒が出てきた。蓋を開けると、紅茶の香りが漂う。
「……」
橘さんは静かに――盤面をにらんだまま、紅茶を飲んだ。
真剣に読んでいるのを感じる。気合い負けしないように、私も読みを入れた。
橘さんは、持ち時間が逆転するまで考えて、水筒の蓋を置いた。
「こうですか」
パシリ
取った。4五同銀(C案)の選択だ。
私は30秒ほど確認して、同銀と取り返す。
「同飛」
「2二角成」
「……同玉」
「5六角」
予定通りの進行――パーフェクトに困ってるでしょ、これは。
練習試合なら、投了してもおかしくない局面だ。
橘さんは、もういちど紅茶を飲んだ。それから蓋を閉めて、背筋を伸ばした。プロだと投了の合図……だけど、橘さんは軽くうなずいて、盤面に手を伸ばした。
私の陣地の深くに。
パシリ
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…………………
………………
あるかな、とは思ってた。気味の悪い手だ。
主張自体は単純で、「桂金と飛車の交換だから損してないでしょ?」ということ。
かたちとしては……同玉が一番安全。同銀は右側にスキマができる。くわえて、なにかあったとき、角の王手をされやすい。例えば、6二飛成なら9五角が王手龍だ。
4九同玉……2四金と払ってきそう。2八角みたいな手は、6二飛成、1九角成、2三銀で、先手必勝になる。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
2三銀を防止する2四金は、必須。そのあとを考えるのが私の仕事……なんだけど、いくらでも手があるような気がする。飛車を成ってもいいし、あるいは、1筋や2筋を攻めてもいい。
個人的に好みなのは、端を絡めるパターンかしら。せっかくの藤井システム。1四歩、同歩、同香と即捨てして、同香なら1二飛の一発KO。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これはさすがに助からない。
かと言って、1四歩に手抜くこともできない。
ということは……1四同香のタイミングで、なにかして来そう。
4六桂? 4六桂、1一香成、3八桂成、同玉……ここで1一玉と取れないから、私の勝ちじゃないかなぁ。全体的に、怖い筋が見当たらない。将棋を指していて、一番楽しい時間になってきた。橘さんには申し訳ないけど。
「4九玉」
私は龍を取って、チェスクロを押した。
2四金に1四歩。軽快に端歩を突く。
同歩、同香――橘さんは、持ち駒の歩を手にした。
歩? 1三歩か1二歩と受けるつもり?
パシリ
そっちか……角道を封鎖しに来たわけね。
同角と1一香成を比較してみる。1一香成は、即座に香車を回収する手だ。同玉、4五角と出る。他方で、先に4五同角、2三金打、1一香成、同玉もありうる。あんまり変わりがないような……できれば、1一の成香を取られたくないのよね。挟撃形にしたい。
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…………………
………………
あ、なんとなく思いついた。ああして、こうして……うん。
「同角」
私は4五同角として、2三金打の受けに4二歩と打った。
「そう来ましたか……同金です」
「3一銀」
あくまでも挟撃を優先する。
「攻め駒が足りるのですか? 同玉」
橘さんに挑発は無視して、我が道をゆく。
1一香成、4六桂(反撃)、6一飛成、4一銀打。
「3三歩ッ!」
ここが急所ッ!
同銀でも同金上でも、4一に利く駒が1枚減る。
同金寄は1二角成があるからありえない。
残る選択肢はひとつ――
「同桂」
そうこなくっちゃ。私は冷静に、5四角と逃げた。
4三歩、4四歩、5二銀打、8一龍。
局面は、明確になった。
後手は攻め駒がないから、先手の攻めを切らす以外に勝ち筋がない。
先手は受け駒がないから、後手を攻め切るしか勝ち筋がない。
先手の攻め、後手の受け――そう判断した瞬間、奇妙な手が飛んできた。
「4五角」
……後手から攻めた? いや、これは単に角を消す手のはず。
私は5六香と置いて、5四角、同香――あッ、そっかッ!
「3六角です」
しまった……香得を消された……。
4七銀とすれば、桂馬を取りにいけるんじゃない? 4七銀、5四角……龍に当たってるから、ひとまず9一龍……あ、4五香があるのか……これは痛い……私は背中が熱くなるのを感じて、無意識のうちにペットボトルをつかんでいた。
優位が消えた? ……いや、私のほうがイイはず。
後手に金駒があれば怖いけど、全部受けに投入させた。いける……はず。
とりあえず、4七銀は確定だと思う。金取りを受けないといけない。そこで5四角……この龍当たりが、予想以上につらい……9一龍は5八桂成だし、かと言って逃げない手は絶対にないし……受けながら逃げる? どうやって?
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………………
8五龍?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これ、かなりイヤな手だと思う。後手にとって。
というのも、この歩を払ったら、ほぼ入玉が確定するからだ。
点数勝負になれば、後手は大駒1枚で負けの可能性が高い。
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「4七銀」
私は、とりあえず受けた。
「5四角」
ふたたび30秒考える。橘さんは、私の小考を不審に思ったのか、チラ見してきた。
視線を返すヒマもない。私はさらに30秒考えたすえ、次の手を決断した。
「8五龍」
龍を引き切ると、橘さんの顔色が変わった。
「うッ……それは……」
入玉してこないと、タカをくくってたっぽい反応。
これまでの練習将棋で、私は攻めに重点をおいていたから、当然かも。
だけど、私だって入玉できそうなときはするんですよ。前の対局内容を、晩稲田の部員から聞いていなかったのかしら。今になって思えば、じろじろ見られている気配はなかった。スパイが手抜きしていた可能性もある。っていうか、多分、そう。
橘さんは、うっすらと口を開けたまま、盤面をみつめた。
どんどん時間がなくなる――残り5分を切ったところで、ようやく動いた。
「2七角成」
直接的な王手……3八に合駒は利かないから、私は5九玉と逃げた。
5八桂成、同玉、6六歩。頓死狙いの垂らしだ。後手に金駒が2枚渡ると、6七に打ち込んで、5九玉、6八銀打(or金打)、4八玉、4九金まで。さらに、3七馬から銀を露骨に取りに行く手も生じる。例えば、6七金、6九玉、3七馬とか。
そのあいだに後手をどう寄せるか、慎重に選ばないといけない。まず、後手陣の状況を整理しましょう。いきなり詰めろはかから……かかる。1二角が詰めろ(2一飛、同銀、同角成まで)。ただ、これは2二玉と逃げられたとき、2一飛、同銀、同角成、1三玉のかたちが、まったく詰まなくなってると思う。しかも、入玉模様。
つまり、2二玉〜1三玉〜1四玉〜1五玉の脱出経路をふさぐ必要があるわけね。1五歩とか1四歩が無難かな……いや、1四歩は同金寄でふさがってない。となると、1五歩が本命……でも、この手自体は、詰めろでもないし駒当たりでもないから、ヌルい。もっと厳しく迫る必要がある。例えば……1五桂?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同金なら、3四桂と打つ。3四桂に同金は、1二角が王手金取り。かと言って放置は、6七金、6九玉、3七馬、1二角が詰めろ。先手は4七馬とされても、7九玉、5七馬、8八玉、7九銀、9八玉で詰まない。後手は金銀の連結が悪くて、脱出経路を作れないから、先手の勝ち。
私は、残り時間が5分を切ったことを確認してから、1五桂と打った。
6七金(いきなり放置)、6九玉、3七馬、2三桂成、同金。
当初の予定を変更して、最後に金を回収しておいた。こっちのほうがいい。
「3四桂」
結局、似たようなかたちになった。
橘さんは、残り1分まで考えて、4七馬、7九玉、6九馬と入る。一瞬ヒヤっとしたけど、これも5七馬のバージョンとおなじで、ぎりぎり寄らない。8八玉、2一香。
私は最後の持ち時間を投入する。
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読み切った。
「1二金」
これで勝ち。一見詰めろにみえないけど、1三角からの詰めろだ。同金、2一成香、同銀に同金と取るんじゃなくて(それは同玉、2二飛、3一玉で困る)、2二桂成、同銀、2一飛、3二玉、2二飛成まで。1三角に2二合駒は、同桂成、同香、2一飛、同銀、同成香、3二玉、2二角成、同金、同金まで。先手は、7八金、9八玉、7九馬で詰めろにはなるけど、こちらのほうが一手早い。
私は、お茶を飲んでひと息ついた。読み抜けはないはず。
橘さんは、歯ぎしりするように、前歯を噛み合わせた。
「序盤の2四歩が、完全に手拍子とは……」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「負けました」
場所:2016年度 春季個人戦3日目 女流3回戦
先手:裏見 香子
後手:橘 可憐
戦法:先手藤井システム
▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲6六歩 △6二銀
▲6七銀 △4二玉 ▲6八飛 △3二玉 ▲3八銀 △5四歩
▲1六歩 △5二金右 ▲5八金左 △8五歩 ▲7七角 △5三銀
▲4八玉 △4四歩 ▲4六歩 △4三金 ▲3六歩 △3三角
▲3七桂 △7四歩 ▲6五歩 △2二玉 ▲5六銀 △2四歩
▲2六歩 △3二銀 ▲2五歩 △1二玉 ▲1五歩 △2五歩
▲3五歩 △2二角 ▲4五歩 △4二飛 ▲5九玉 △3五歩
▲6四歩 △同 歩 ▲4四歩 △同 金 ▲2四歩 △3四金
▲4五桂 △4四銀 ▲6四飛 △4五銀 ▲同 銀 △同 飛
▲2二角成 △同 玉 ▲5六角 △4九飛成 ▲同 玉 △2四金
▲1四歩 △同 歩 ▲同 香 △4五歩 ▲同 角 △2三金打
▲4二歩 △同 金 ▲3一銀 △同 玉 ▲1一香成 △4六桂
▲6一飛成 △4一銀打 ▲3三歩 △同 桂 ▲5四角 △4三歩
▲4四歩 △5二銀打 ▲8一龍 △4五角 ▲5六香 △5四角
▲同 香 △3六角 ▲4七銀 △5四角 ▲8五龍 △2七角成
▲5九玉 △5八桂成 ▲同 玉 △6六歩 ▲1五桂 △6七金
▲6九玉 △3七馬 ▲2三桂成 △同 金 ▲3四桂 △4七馬
▲7九玉 △6九馬 ▲8八玉 △2一香 ▲1二金
まで107手で裏見の勝ち