3手目 困ったときの・・・
にぎやかな喫茶店の片隅――私は大人っぽくなった先輩を前に、緊張していた。
「裏見さん、松平くん、ご入学、おめでとうございます」
眼鏡をかけた、いかにも賢そうな女性が、ぺこりと頭を下げる。
私たちも、あらたまって一礼した。
「ありがとうございます」
顔をあげて、私は先輩の容姿を、じろじろと観察した。
傍目八千代。H島県将棋界の事務役として、そうとう有名な女性だった。
歩くデータベースとも呼ばれていた。高校在学中は、私もお世話になっている。先輩がいなければ、高校竜王戦での優勝もなかっただろう。間違いなく。
「八千代先輩……すごく大人っぽくなりましたね」
「そうですか? 裏見さんが、ひさしぶりに会ったからでは?」
「いえ、そういうわけじゃないと思います……もしかして、彼氏できました?」
私のうっかりな質問に、八千代先輩は気まずそうな顔をした。
「未だに、彼氏いない歴=年齢です」
裏見香子、上京早々の失言。
どぎまぎする私をまえに、先輩のほうからフォローしてくれた。
「今年で20歳ですから、すこしは大人になったということでしょう」
先輩はコーヒーを飲んで、眼鏡の位置をなおした。
あいかわらずのカフェイン中毒っぽい。
「再会したばかりだと言うのに、とんでもない事件を持ち込んでくれましたね」
「はあ……」
私と松平は、なんとも答えようがなかった。
私たちのせいじゃないんだもの。
とりあえず、状況を説明する。
「なるほど……私が内偵した情報と、ほぼ一致していますね」
傍目八千代、全知全能説。怖い。
「内偵って、どういうことですか?」
松平の質問に、八千代先輩はコーヒーカップを持ち上げつつ、
「実は私、利害関係人なのですよ」
と答えた。私と松平は、顔を見合わせた。
「私は今、明大将棋部の幹事なのです」
「治明の幹事なんですか? ……あいかわらず、やり手ですね」
松平は感心して、テーブルに肘をついた。こらこら、お行儀が悪い。
「事務方の経験が長いだけです。話をもどしますが、今回の都ノ大の不祥事は、関東大学将棋連合のなかでも、非常に問題視されています」
詳細は話せない、と断ったうえで、先輩は次のように説明した。各校の将棋部は、1年間の会費を、部費から払っている。その部費の横領があったとなれば、関東大学将棋連合も、間接的には不祥事に加担していることになる、と。
「それって、犯罪なんですか? 連合は、知らなかったんでしょう?」
松平は、疑わしげにたずねた。
「日セン法学部の辻さんに確認したところ、法的には問題ないそうです。あくまでも、横領先の金庫から年会費が支払われていたというだけで、年会費の支払自体は、横領ではありませんから……しかし、全体の雰囲気として、予断を許さない状況です」
ようするに、疑わしきは罰す、じゃないの、まったく。
松平もあきれて、
「辻姉は、司法試験も合格したんでしょう? なんで信用されないんです?」
とたずねた。
「辻さん自身もおっしゃっていましたが、『将棋連合は警察ではない』からですね。将棋連合の規約には、素行不良での出場停止もあります。今回のケースでアウトにするのは、簡単だと思います」
うむむ、意外と不利なのか。ショック。
「ってことは……このままだと棋界追放?」
私の質問に、八千代先輩は、イエスともノーとも答えなかった。
「すべては、今週の土曜日にひらかれる幹事会で決まります」
判決をくだされるみたいな言い方で、もぞもぞする。
「とはいえ、裏見さんたちから情報を仕入れられたのは、大きかったです」
「どういう意味ですか?」
「裏見さんたちがイチから部を立て直すなら、横領と関係ないメンバーということで、お目こぼしされるかもしれません。私が内偵したときは、都ノ大の規約でそのまま廃部になると聞かされていました。事情は異なってきています」
八千代先輩は、幹事会を有利に進めるために、大学から公式の継続許可を得たほうがいいとアドバイスしてくれた。つまり、5人をさっさと集めて、さらに50万円も穴埋めしろということだ。これには、私も松平も悲観的だった。
「まだ、俺と裏見と大谷っていう女子しか集まってません」
「大谷さんがいるなら、大収穫ではありませんか」
八千代先輩は、名義貸しであと2人呼べばいいのではないか、とアドバイスした。
これは、私も松平も拒否した。
「マジメに指すメンバーが3人しかいないなら、廃部でいいですよ。団体戦には出られませんし、個人戦ならアマチュアの大会がいくらでもあります」
「松平くんは松平くんなりに、考えているのですね……分かりました」
八千代先輩はコーヒーカップを置くと、ポケットから一枚のメモを取り出した。
折り畳まれたそれを、テーブルのうえにそっと乗せる。
「三宅くんのメールアドレスです……ほかのひとには教えないでください」
松平はお礼を言って、メモ用紙を受け取った。
「ありがとうございます……あの、三宅先輩は、将棋部に……」
「入っていません」
「!」
一筋の光が、喫茶店のテーブルに射した。
「理由は分かりませんが、三宅くんは別のサークルに入っているそうです」
「ありがとうございます。お世話になりました。あとは、俺たちでなんとかします」
松平は伝票を握りしめて、席を立つ。私もあとに続いた。
「土曜日の幹事会は、14時からです。なにかあったときは、MINEで連絡を」
○
。
.
「おまえたち、捜してたんだぞッ!」
その日の夕方、大学の食堂で待ち合わせをした私たちは、ちょっとちゃらい系の男子学生から、そう叫ばれた。なにを隠そう、三宅先輩本人だった。
「さ、捜してたって、どういうことですか?」
松平は、目を白黒させながらたずねた。捜してたのはこっちだっちゅーねん。
「メンバーが足りないんだ」
「なんのですか?」
「将棋に決まってるだろ」
びっくりする私たちをよそに、三宅先輩は説明を始めた。
「1年のとき、将棋部に入ろうと思ったんだが、どうも雰囲気が悪くてな。仮入部のときに馴染めなくてやめたんだ。そしたら、今年になって例の不祥事だろう。新しい部を作るチャンスだと考えて、学生課と交渉してた」
くぅ、あの事務員のおばさん、ほかに学生が来たなんて言ってなかったじゃない。
でも、よくよく考えてみれば、50万という数字がすらすらと出てきたわけだから、誰かおなじ質問をしたんじゃないかと、疑ってみたほうがよかったかも。
いずれにせよ、三宅先輩と合流できたわけだし、万事塞翁が馬だった。
松平もホッとしたらしく、
「これで4人目ですね。あとひとりです」
と漏らした。
「4人目? ほかに誰かいるのか?」
私たちは、大谷さんの引き入れに成功したことを伝えた。
三宅先輩はガッツポーズして、
「でかしたッ! 戦力的にも申し分なしだッ!」
とよろこんだ。松平は、ここで口を挟む。
「その前に、俺たちと三宅先輩の方針が一致しているかどうか、確認させてください」
「方針? なんのことだ?」
「先輩は、どういうチームを作りたいんですか?」
「強いチームに決まってるだろ。ガチで行くぞ」
この回答に、松平は安堵した。
「よかったです。なんちゃって将棋サークルなら、入るつもりありませんでしたから」
「俺を見くびるな。こう見えても、清心高校将棋部の元主将だ」
そうそう、三宅先輩は、地元の高校で将棋部の主将をしていた。
有力な新人を発掘したりして、結構貢献していた記憶がある。
「俺たちのほうは、まだ5人目が見つかっていません。三宅先輩は、どうですか?」
三宅先輩は、ふと深刻な顔をして、視線を落とした。
心当たりがない――というより、あるけど言い出しにくい雰囲気にみえた。
松平もそれを察したらしく、やや調子を下げて、
「目星がついてるんですか?」
とたずねた。三宅先輩は、5秒ほど口ごもった。
「心当たりは……ある」
「じゃあ、さっそくそのひとに……」
「勧誘できる気がしない」
松平は、理由をたずねた。
「そいつは俺と違って、部のほうから熱心に勧誘されていたんだ。だけど、ちっとも首を縦に振らなくて、そのままになっていたらしい」
「つまり……将棋をやりたくない、ってことですか?」
松平の確認に、三宅先輩はうなずき返した。
どうも歯切れが悪い。松平は、さらに突っ込んだ質問をする。
「わざわざ勧誘されたってことは、強いんですよね?」
「……元奨励会員だ」
「!?」
予想していない事態に、私は思わず口出ししてしまった。
「しょ、奨励会って、プロの養成機関ですよね? どうしてこんなところに?」
「奨励会に入っても、全員がプロになれるわけじゃない。見切りをつけて、進学に切り替えることも多いんだ。風切……そいつの名前だが、風切もそのグループだ」
リタイア組ってことか。そのひとが入ってくれれば、万々歳な気がした。
松平も同じことを思ったらしく、
「とにかく、声をかけてみる価値は、あるんじゃないですか?」
と提案した。同意。
「とっくにかけた」
「……ことわられたとか?」
三宅先輩は悔しそうな顔をして、
「『将棋に勝ったら考えてやる』と言われて、当然負けた」
と吐き捨てた。松平も、急に顔色が暗くなる。
「将棋に勝ったら、ですか……交渉の余地はないんですか?」
「分からん。俺のことが気に入らなかったのかもしれない」
たしかに、三宅先輩はちょっと誤解されるような印象がある。
このファッションで将棋を指してると言っても、だれも信じないだろう。
「だったら、4人で行ってみましょう。大谷にも連絡をつけます。集合場所は……」