380手目 北の大地
※ここからは、香子ちゃん視点です。
真夏の草原が、青い空へ向けて、どこまでも続く。
ここはH海道。北の大地。
夏の気配はあるけれど、東京よりもずっと涼しい。
それとも東京が暑すぎるのかな。
右手の彼方に、なだらかな山麓が見えた。
雲はほとんどない。太陽がきれい。
私と大谷さんとララさんは、キャリーケースを引きながら、小径を進む。
私は黄色い半そでのトップスに、白のサマーカーディガン。薄いベージュのズボン。
麦わら帽子をかぶっている。靴はスニーカー。
ララさんは白のTシャツに、紺のデニム。サングラスをかけていた。麦わら帽子にサンダルで、私よりさらにラフなかっこう。
大谷さんは、いつものお遍路姿。
辺鄙なバス停から5分ほど歩いたところで、ララさんは、いったん足を止めた。
麦わら帽子のつばを持ち上げて、
「ほんとにここなの?」
と、あたりを見回した。
刈り取られたラベンダーの名残が、私たちの視界に広がっていた。
ピークは7月なのよね。残念。
だけど今はそれ以上に、べつの懸念が生じていた。
大谷さんは、
「火村さんに教えていただいた道順は、この通りでしたが」
と言った。
ララさんはスマホをさわる。
「だってさー、GooGooMapに出てこないって、おかしくない?」
そうなのよね。
夏合宿が終わったあと、有縁坂の女子会メンバーで、旅行へ出かけることになった。どこも高いなあ、と困っていたとき、火村さんが、格安で泊まれるホテルを紹介してくれた。そのひとつがH海道にあったから、こうしてはるばる来たわけなんだけど──肝心のホテルが、オンライン検索で引っかからない。
ララさんはキャリーケースから手を離して、天をあおいだ。
「ほむほむ、H海道と北方領土を間違えてるんじゃないかなあ」
そういう危険な発言はNG。
私は、
「とりあえず、教えてもらったところまで歩かない?」
と提案した。
穏当だから、他のふたりも、すぐに賛成してくれた。
とはいえ、言い出しっぺながらも、不安が残った。
教えてもらった場所まで、あとちょっとしかないからだ。
このラベンダー畑を突っ切ったところにある、小さな林。
そこにホテルがあるらしい。
たしかに、林は見えている。でも、建物らしきものが、なくない?
ララさんは、またキャリーケースを引きながら、
「え、マジで信じちゃったの? チョ~ウケる、とかいうオチだったりして」
と、ひとりごとを言った。
可能性がゼロとは言い切れないのが、なんとも。
これで壮大なジョークだったら、火村さん、許すまじ。
気を紛らわすように、合宿の思い出話をしながら、どんどん歩く。
林の手前まで来て、周囲がさらに涼しくなった。
なんだかここだけ秋みたい。
道は薄暗くて、ざわざわと風の音が聞こえた。
やっぱり建物は──あったッ!
ララさんは、
「Obrigado, Deus!」
と、歓喜の声を上げた。
ドラマに出てくる洋館みたいな建物で、2階建てだった。
屋根は水色で、壁は白。右手のほうに、豪華な花壇があった。
尖塔のような施設が、左右にふたつくっついていた。
ララさんはキョロキョロして、
「駐車場もなんにもないの?」
と言った。
たしかに、この道以外のアクセス方法がないような。
まあ、そういうホテルなんでしょ。隠れ家的な。
私たちは、ドアノブ式の正面玄関から入った──おっと、内装がすごい。
まるで映画に出てくる洋館みたい。
赤いじゅうたんが敷かれていて、正面に大きな階段があった。
なんだかホテルっぽくない。レセプションも見当たらなかった。
大谷さんは、左右を確認した。私もつられて、視線を走らせる。
どちらにも、静かな廊下が広がっていた。
窓から光が射しこみ、等間隔でじゅうたんを照らしていた。
ララさんは、
「すみませーん、都ノ大学でーす」
と声を張った。
返事はない。
大谷さんは荷物を片手に、
「ここはホテルなのですか? プライベートな建物に見えるのですが」
と、少しばかり声を落とした。
た、たしかに、だれかの邸宅なのでは?
私が動揺していると、ひとの気配がした。
小さな足音が、2階から聞こえてくる。
すらりとした長身の女性が、黒のワンピース姿で登場した。
腰まである、長い黒髪。ウェストが激細。モデルさんみたい。
すごく綺麗なひとで、私たちはますますパニックに。
ララさんは、
「あの~、ここってホテル・トランシルバニアですか?」
と、質問をした。
ちがうかも、という空気がただようなか、女性はそっけなく、
「さようです……どちらさまで?」
と返してきた。
えーッ、ここがほんとにホテルなの?
でもスタッフがいなくない?
まさか、宿泊客に声掛けしているのでは?
その心配も、女性の次のひとことで払拭された。
「都ノ大学のご一行ですか?」
私たちは、ちょっとおどろいたあと、はい、と答えた。
女性は階段から、ゆっくりと降りてきた。
スタッフの動きじゃなくて、貴婦人みたい。
「カミーユ様から、お話はうかがっております。支配人の結城ともうします」
えぇ……支配人さんなんだ。
私は低姿勢になって、
「よろしくお願いします……あの……チェックインとかは……」
と言いかけた。
「鍵をお渡しします」
女性は、いつの間にか鍵束を持っていた。
私たちに背を向けて、また階段をのぼり始めた。
私たちは顔を見合わせる。
大谷さんは、
「2泊3日で1万円……とは思えないのですが」
と、小声で言った。
そ、そこは気になる。
格安で泊まれるって話だったのに。
ゼロが一個足りないのでは。
だけど、ララさんはお気楽な感じで、早く上がろ、と催促した。
仕方がないので、階段を上がる。
案内された部屋に、私たちはびっくりした。
な、なんというか……貴族の館?
いや、貴族の館とか、見たことないけど。
床は、暗めの色をした木張り。
そこに、刺繍の入った絨毯が敷かれていた。
ベッドは、枕もとに棚があるタイプ。
棚は2段で、上段に骨董品のような時計が置かれていた。
天井の明かりは、ミニシャンデリア。
他には、映画に出てくるような、黒い革ソファーと、書き物机、それに椅子。
なんていうんだっけ、マホガニーとか黒檀とか、そういう感じ。
正直なところ、アンティークファンじゃないから、素材はよくわからなかった。
小物もいっぱいで、陶器製の猫、黒い花瓶に薔薇の花、ペン立て、エトセトラ。
「このタイプの部屋を、3つご用意しております」
す、すごい、一人一部屋なんだ。
最初の部屋には、ララさんが泊まることに。
私は2番目、大谷さんは3番目の部屋に入った。
理由はよくわからないけど、それぞれの部屋は隣接していなかった。
ドアをひとつかふたつ飛ばして、その次、みたいな感じ。
とりあえず、荷物をほどいて、中身を整理した。
それから手を洗ったり、道中の写真をチェックしたり、いろいろ。
洗面台は大理石。トイレはそれでいて最新式。
ひと息ついて、革製のソファーに座る。
……………………
……………………
…………………
………………落ち着かない。
部屋が広すぎるのも、困りものだ。
コンコンコン
「はーい」
「香子、散歩行かない? まだ夕食まで時間あるよ?」
了解、と。
私はトラベルポーチに財布なんかを入れて、お出かけ。
ラベンダー畑の近くを散策しよう、という話になった。
林を出ると、ふたたび太陽に照らされた。
ララさんは、両腕を大きく広げて、背伸びをしながら、
「めっちゃ高級だけど、なんか暗いんだよねえ」
と言った。
たしかに、部屋の色調からして、暗色が多かった。
あと、採光が貧弱。窓が小さくて、カーテンが厚め。
大谷さんは、
「ご紹介いただいたところゆえ、雨風をしのげれば、それで良しと致しましょう」
と諭した。
ですね、はい。
消費者は傲慢になってはいけない。
それじゃ、初めてのH海道旅行、楽しんで行きましょう!