361手目 UBASUTE
10分後──私たちは有縁坂で、2杯目のコーヒーを注文していた。
折口先生といっしょに、っていうか、氷室くんもいる。
これには説明が必要。
私たちは喫茶店を抜け出して、有縁坂のあるビルのまえへ移動した。
入り口のところで、ふたりの女性が揉めていた。
ひとりは執事服に似た衣装で、ビシッと決めたショートヘアの女性。
有縁坂のマネージャー、工藤さんだった。
もうひとりは、マスクにサングラスだったけど、どう見ても折口先生。
私たちはすこし離れたところで、ようすをうかがっていた。
すると、氷室くんが現れた。交差点のほうから、いきなり歩いて来たのだ。氷室くんはまず、私たちに声をかけてきた。松平は、有縁坂に寄るところだった、と嘘をついた。これにはカマかけもあった。太宰くんが有縁坂に来たらしいから、氷室くんも反応するんじゃないか、という読み。
ところが、氷室くんは頓着せず、そうなんだ、としか言わなかった。そして、折口先生の存在に気づいた。氷室くんは折口先生を知っていたらしく、単身で助け舟を出した。問題はなんだかんだで解決した。マスクにサングラスで、店内を撮影していたのが、よくなかったらしい。変装しないことと、店内で映していいのは料理だけ、という決まりで、折口先生と工藤さんは和解した。
と、そこまではよかったんだけど、こんどは折口先生が私たちの存在に気づいた。逃げられなくなった私たちは、4人で有縁坂に入ることになってしまった。席順は、折口先生と私が窓際、氷室くんが折口先生のとなりで、松平が私のとなり。
店内を見回してみたけど、佐田店長はいないみたい。
てっきり、お店にもどったものとばかり。
折口先生はじぶんで左肩を揉みながら、
「はぁ~、ガフーで星ひとつにするところだったぞ」
と嘆息した。
そういうこどもみたいな嫌がらせは、やめましょう。
氷室くんは、
「折口先生、このまえのミーティング以来ですね」
と言った。
ん? やっぱりどこかで接点があるの?
私は、
「先生、どこで氷室くんと会ったんですか?」
とたずねた。
「今進めてるプロジェクトで会った」
「プロジェクト……もしかして、風切先輩とかも、来てます?」
「ああ、風切も来てたな。身内で固まったりはしないから、あまり話さないが」
そっか、そんなに大きなプロジェクトなんだ。
私は、そのプロジェクトの中身を聞いてみたくなった。
「どういうプロジェクトなんですか?」
「次世代医療に関する、産学共同プロジェクトだ」
「薬の開発とか?」
「そういうグループもある。私の担当は、ナノマシーンを使った医療だ」
あ、オープンキャンパスのとき*、そんなこと言ってたわね。
体内に小さなロボットを入れて、投薬させるんだっけ。なんだかおもしろそうだな、という気持ちと、将来の社会福祉費がもつのかな、という気持ち。
ちょっと詳しく話を聞いていると、コーヒーが届いた。
2杯目だから、カプチーノにしちゃった。甘いのはさっき飲んじゃったし。
一服したところで、氷室くんが話題を変えた。
「みなさん、『UBASUTE』っていうネット小説、読んだことありますか?」
私たちは、知らないと答えた。
氷室くんはスマホをとりだして、有名な小説サイトをひらいた。
そのタイトルを見て、折口先生は、
「UBASUTEというのは、どういう意味だ?」
とたずねた。
氷室くんは、
「これ自体が暗号なんです。ミステリ小説で、暗号を解読しながら、テロリストに対抗していくストーリーなんですよ」
と答えた。
氷室くんの説明によると、舞台は現代日本。東京へ濃縮ウランが持ち込まれるまでが、第1部。その濃縮ウランの行方を追うのが第2部で、その第2部がちょうど連載中、とのことだった。
「僕、暗号は解けるんですけど、それ以外はさっぱりなんです」
氷室くんは、最新話で解けない謎がある、とつけくわえた。
折口先生と松平は、こういうのが好きらしくて、内容をたずねた。
「濃縮ウランは都内の倉庫にあることがわかって、主人公たちがそこへ向かったんです。だけど、倉庫は空っぽ。テロリストたちはどこへ濃縮ウランを移動させたのか、これが問題です。ネットでもいろんな予想が立ってるんですけど、僕はこういうのが苦手なんですよね。地理にも疎いですし。折口先生は、どう思われます?」
折口先生は、アイスカフェをストローで吸って、しばらく考えた。
「……条件が不明瞭すぎるな」
「あ、そうですよね。一応ヒントとして、①移動させるところを目撃したひとはいない、②実行犯は最大で3人、③保管のための資金は十分にある、この3点はわかってます」
それでも、あいまいすぎないかしら。
折口先生もそう思ったらしく、
「『九マイルは遠すぎる』というミステリがあってだな、ちょっとした短文からでも、それっぽい推理をすることはできる。例えば、『9マイルもの道を歩くのは容易じゃない。まして雨の中となるとなおさらだ』という文章だ。とぼしい証拠から推理しても、テキトウな結論が出てくるだけだ」
と、なんだかミステリ論みたいなものを展開した。
これに対して、氷室くんは、
「だけど、その小説のラストは、推理が当たってましたよね?」
と返した。
「うむむ、たしかにそうだが、あれはあくまでも小説だからな」
「これだってネット小説ですよ。作者の考えることは、限られると思います」
なるほど、と、折口先生は納得した。
一方、松平は考えを整理していたらしく、すぐに口をはさんだ。
「濃縮ウランでテロ、ってことは、小型核爆弾を作るんだろ?」
「あ、松平くん、よく知ってるね」
「H島に落とされたのが、そのタイプだった」
「そういえば、H島出身だっけ……この話、やめたほうがいい?」
「核兵器を作る側が主人公じゃなきゃ、いいさ。核爆弾を作るには、キロ単位で濃縮ウランが必要だ。そうなると、放射線の管理がかなり難しいと思う」
氷室くんは、そこが出発点だね、と返した。
「この小説は、部分的に現実世界を踏襲してるんだ。東日本大震災とF島原発事故は、作中でもあったことになってる。主人公たちが倉庫を突き止めたのも、そのルートだよ。都内で放射線量を測定している反原発団体がいて、そこからの情報で察知したんだ」
「なんだ、それなら話は早い。放射線を遮断できる空間で、もとの隠し場所だった倉庫の近く、だ」
氷室くんは、放射線の遮断方法をたずねた。
松平は、
「すまん、俺は原子力専攻じゃないし、調べてみないとわからない」
と答えて、じぶんで調べ始めた。
「……放射線にはα線、β線、γ線、中性子線があって、α線とβ線は、比較的簡単に止まるみたいだな。問題はγ線と中性子線だ。γ線は分厚い鉄板、中性子線は、水やコンクリートでないと遮断できない」
よくわかんないけど、鉄板でできた容器をプールに入れれば、遮断できるってこと?
そういう施設、まずないと思うんだけど。
松平はスマホをテーブルのうえに置いて、
「これ以上は特定できないだろうな。その小説を読んだら、もっと詳しいヒントがあるのかもしれないが」
と、半ばギブアップした。
氷室くんは、そうだね、と言ったあと、私のほうに話しかけてきた。
「裏見さんは、どう?」
うーん、ミステリをそもそも読まないから、さっぱりわかんないのよね。
「……ごめん、見当がつかない」
「裏見さんが犯人なら、どうする?」
どうするって言われても、ウランの密輸なんて、したことないんですが。
だいたい、そんなの安全に運べるの?
ウランの輸送車を、街中で見かけたことがなかった。
私は念入りに、わからない、と答えておいた。
氷室くんもこんどは引き下がって、折口先生に話を振った。
折口先生はさっきから腕組みをして、目を閉じていた。
「……その小説は、ミステリ小説なのだな?」
「はい」
「なら、前提がちがうのではないか?」
氷室くんは、どういう意味ですか、とたずねた。
「作者が科学的事実をどこまで前提にしているのか、それはわからない。が、ウランを原爆に使うには、少なくとも90%以上の濃縮が必要だ。通常の原発では、20%未満の低濃縮ウランしか使用していない。にもかかわらず、その管理には、そうとうな手間が必要だ。たかだか3人のテロリストが、高濃縮ウランを管理できるとは思えない」
「……つまり?」
「つまり、ウランというのは偽装で、なにかべつのものなのではないか?」
ほほぉ、いかにもミステリっぽい推理ですね。
意外性を追求しているというか、なんというか。
氷室くんは、なるほど、と言って、オレンジジュースを飲んだ。
「……ウランでないとすると、なんだと思いますか? 細菌兵器?」
「細菌やウイルスも、保管がめんどうだ。個々の材料はありふれているが、混ぜたときに効果を発揮するものがいい。そのほうが持ち運びにも便利だからな」
氷室くんは、いつもの能面にもどった。
さきほどまでの好奇心が、彼の周りから消えていく。
「ありがとうございます。そういう意見を聞きたかったんです……参考にしてみますね」
*211手目 おとなの勧誘
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