360手目 鬼教員、暴走する
その日、私と大谷さんは、大学のカフェでランチをしていた。
7月になると混み始めるから、すこし遅めの入店。
3限でひとがいなくなったところを見計らい、席を確保した。
日焼けしないように、窓際は避けておく。店の奥の、壁際の席。
ここでも大学の広場は見えるから、景色はよかった。
私はサンドイッチを注文。
大谷さんは、おむすびランチという、変わったものを注文していた。
今週から始まった新メニューで、おむすびにちょっとおかずがついてる感じ。
ダイエットメニューなのでは……炭水化物だから、そうでもない?
私たちは持ち込みのお茶を飲みながら、歓談にふけっていた。
すると──
「香子、ひよこ、ヤバいよヤバいよ」
入り口からララさんが駆けてきた。
ホットパンツにサンダルで、なんだかビーチに来たような恰好をしている。
ララさんはテーブルのそばまで来て、駆け足しながら止まった。
「ヤバいよぉ」
私は、なにが?、とたずねた。
ララさんはスッと私のとなりに着席。
いきなり声を落とした。
「折口が、渋谷の店にずっと来てるんだよ」
……………………
……………………
…………………
………………え?
「どういうこと?」
「そのまんまの意味だよ。しかもサングラスとマスクして」
ララさんは両手のゆびで輪っかを作って、両目にあてた。
私はびっくりした。
「毎日?」
「ほかの子の話だと、ね。ララのシフトのときも、一回だけ見かけた」
いやあ……これは……思ったよりも、深刻なことになってそう。
大谷さんは、
「味が気に入って通っている、というわけではないのですか?」
とたずねた。
いやいや、それはないでしょ。
いくらお気に入りのカフェでも、毎日は行かないし。
ララさんは、
「Sua sensibilidade é um pouco estranha……とにかく、ほかの子もあやしんでるし、そのうち通報されちゃうよ」
それはないんじゃないかしら。食い逃げしない限り。
佐田さんにバレて、またこじれそうではあるけど。
私はその点をたずねた。
ララさんは、
「バレるって、どういうこと?」
と、眉をひそめた。
あ、そっか、折口先生が女子大生だったときの話、ララさんは聞いてないんだ。
私は言い方をごまかした。
「佐田さんに、不審な客だと思われてない?」
「んー……よくわかんない」
店長の言動はいまいち読みにくい、とララさんは答えた。
それはわかる。
聖生の件でからんだときも、考えがよくわからなかった。
ララさんはその代わりに、
「マネージャーの工藤は、めっちゃあやしんでる」
とつけくわえた。
「工藤さんって、『白熱列島』に出演してたひと?」
「ハクネツレットウってなに?」
そっか、観てないのか。
マネージャーって言ってるから、たぶん人物は一致している。
お店の現場を取り仕切っているひとで、新宿将棋大会でも見かけたひとだ。
しかも……なんか佐田さんの彼女っぽくない?
結婚してる可能性も、あるんじゃないかなあ。
私がそんなことを考えていると、大谷さんは、
「拙僧たちに、介入の余地はないと思うのですが……」
とつぶやいた。
それはそうなのよね。
権利がないというだけじゃなくて、ほんとうにどうしようもない気がする。
恋愛沙汰だから、説得するとかもできないし。
だけどララさんは、
「でもさあ、ナイフでブスッとやったら、将棋部潰れない?」
と、物騒なことを言い始めた。
「そんなに危なそうなの?」
「だってストーカーじゃん」
ララさんはそう言って、椅子にのけぞった。
「店長かっこいいけど、もうおじさんだし、なんでひとめぼれするかなあ」
ララさんは、そこも誤解している。ひとめぼれじゃない。
とはいえ、ひとめぼれじゃないから問題は簡単、でもない。
私はスマホで、松平にこっそりメッセージを送った。
○
。
.
お昼過ぎ、私は有縁坂の向かいにある喫茶店で、松平とお茶をしていた。
だいぶライトなお店で、椅子やテーブルも機能的。
私はアイスカフェオレを飲みながら、ビルの入り口をじっと見つめる。
ひとびとが行きかう渋谷は、平日でも活況に満ちていた。
正面に座った松平は、
「ほんとうに今日も来るかな?」
と、半信半疑だった。
私は、
「研究室には今日来なくていい、って言われたんでしょ?」
と返した。
「大学の会議かもしれない」
それはそう。
だけどララさん情報では、毎日来てるらしいし、来るんじゃないかなあ。
松平は、テーブルのうえにあるサングラスを持ち上げた。
「変装用に持ってきたが、さすがにバレると思うぞ」
私もサングラスと帽子を持ってきたけど、さすがにバレそう。
そもそもこんなので変装できるなら、折口先生が身バレしないという。
見つけたところで、尾行というわけにも、いかなさそう。
まあ、半分はただのデートだから、いいっちゃいい。
私がそう結論づけたところで、テーブルに人影がさした。
見上げると、佐田さんが立っていた。
私たちはびっくりして、飛び上がりそうになった。
佐田さんは、
「こんにちは、やっぱり都ノ大学のひとたちだったね」
と、気軽にあいさつしてきた。
松平は、
「こんにちは……なにか用ですか?」
と、牽制気味に訊き返した。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「内容によります」
すわ、折口先生の件──かと思いきや、ちがっていた。
佐田さんは、
「去年の8月、晩稲田の学生の子がいたよね。ハンチング帽かぶってた」
と、人物を特定できるかたちでたずねてきた。
松平は、
「ええ……まあ……」
と、名前は出さなかった。
「その子が最近、僕に一度アプローチしてきてね。なんだか要領を得なかったんだけど、もしかして君たち、まだ例の件を追ってる?」
ずいぶんとストレートな質問だ。
これは答えにくい。
聖生のはがきの件を話せないし、太宰くんたちと決裂したことも話せない。
そもそも【最近】という点があいまいだった。
松平は、
「最近って、いつですか?」
と、遠回りに情報収集を始めた。
「正確な日は、教えられない」
この返答に、松平はすこし考えた。
1ヶ月前ですか、それとも1週間前ですか、とたずねたら、勘繰られるわよね。
なにも言わないほうが、いいと思う。
松平もそう判断したらしい。この話題を打ち切った。
「ちょっとわかんないですね。大学もちがいますし」
「まあ、そうだよね。ごめん、お邪魔して悪かった」
佐田さんは背を向けかけて、あ、そうだ、とふりかえった。
「ここ数日、熱心に通ってくれる女性客がいるんだよね。ひょっとして、君たちの知り合いかな、と思ったんだけど」
ぎくぅ──こっちが本命だったのでは?
私たちは、顔色に出ないように気をつけた。
松平は、
「いや、女性と言われても……」
と、知らないそぶりをした。
佐田さんは私に目配せしてきた。
私も首を左右にふった。
「そっか……昔、K都で会った女性に似てて、ちょっと気になったんだ。それじゃ、今後とも、有縁坂をごひいきに」
佐田さんは、そのままレジで支払いを済ませて、出て行った。
私たちは、ドッと肩の荷が下りた。
松平は小声で、
「さっきの、どっちが本命だったと思う?」
と訊いてきた。
「折口先生のほうじゃない?」
松平は外をチェックしながら、空になったグラスをひとさしゆびで小突いた。
氷の塊が、カランと音を立てて崩れた。
「……俺は、太宰のほうだと思うんだよな」
私は、エッ?、となった。
「太宰くんたちがアプローチしたのは、あのお蕎麦屋さんのあとってこと?」
「このまえの電話がどうなったのか、そこはわからない。個人的には、失敗してるんじゃないかと思うが……口座番号を訊かれただろうし、それは答えられないわけで……ただ、佐田さんにもう一度接近したのは、やっぱり気になる」
「電話のあとじゃなくて、まえの可能性もない?」
松平は困ったような顔をして、髪をくしゃくしゃにした。
「そう言われるとそうなんだが、なんか引っかかる」
ふむ……私はカフェオレのストローに口をつけた。
すぐにくちびるをはなす。
窓ガラス越しに、指をさした。
「あれ、折口先生じゃない?」