36手目 ビッグマウスさん
まずは1勝……私は休憩もそこそこに、次の対局テーブルへと移動した。
相手は既に着席して、小物を整理していた。大きなツインテールの女性だった。すこし化粧が濃いかな、と思ったけど、アイシャドウの色が濃いだけだった。もっとおとなしめのほうが、いいんじゃないかなあ、と……まあ、他人事ではある。
女性は顔をあげて、目をほそめた。
「あれ? あんた、どっかで会ったことない?」
ありますよ。っていうか、忘れないでくださいな。
「同郷の裏見香子です。よろしくお願いします」
「裏見……ああ、日日杯で会った子ね」
そう、このひとは、筒井順子――私と同じH島の出身で、2コ上。つまり、大学3年生ということになる。晩稲田在籍。ただ、冴島先輩とはちがって、高校が同じだったわけではない。私の出身地はH島の西で、筒井先輩は東だった。そもそも、高校3年生まで知らなかったし。面識ができたのは、地元で開催された将棋イベントのときだった。
「裏見ちゃんも、相手が悪いわね。この筒井様と当たるなんて」
はいはい――このひと、すっごい自信家なのよね。とはいえ、県代表に1回なったことがあるらしいから、単なるビッグマウスじゃないみたい。大口を叩く理由持ち。
私は着席して、駒をならべた。
「裏見ちゃんも、県代表だっけ?」
「いえ……私は、高校竜王戦で優勝しただけです」
高校将棋界には、大きな公式戦が2つある。ひとつは、全国高等学校将棋トーナメントという、全国大会。もうひとつは、高校竜王戦だ。これも公式大会だけど、各県の優勝者が決まった段階で終了する。前者は47都道府県すべてが参加しているのに対して、後者は開催していない県もある。「県代表」と言ったら、前者のほう。
「それでは、振り駒をお願いします」
幹事の指示が入った。
私は、筒井先輩にゆずった。先輩は、ゆずり返さずに振り駒をした。
「……歩が3枚、私の先手」
チェスクロを、私の右側に――あとは、対局開始の合図を待つばかり。
「対局準備の整っていないところは、ありませんね? ……では、始めてください」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
私はチェスクロを押した。時間が刻まれる。
筒井先輩は、深く息をしてから、7六歩と突いた。
私は5秒ほど気持ちを落ち着かせて、8四歩と突く。
「こっちが選択しろってことか……じゃ、6八銀」
矢倉のお誘い。受けて立つ。
3四歩、6六歩、6二銀、5六歩、5四歩、4八銀、4二銀、5八金右。
高速で手が進む。
3二金、7八金、4一玉、6九玉、7四歩、6七金右。
矢倉急戦にするかどうか、若干悩んだ。
「5二金」
がっちり行きましょう。県代表レベルに、奇策はなかなか入らない。
この手を見た筒井先輩は、
「阿久津流にしないんだ……ま、いいや。2六歩」
と、早めの飛車先突き。
4四歩、7七銀、3三銀、7九角、3一角、3六歩、4三金右、4六角。
先手のほうから変化してきた……脇システムにしろってこと?
「……7三桂」
とりあえず、桂馬で角の利きを遮断した。
「7九玉」
「6四歩」
脇システムを放棄した。筒井さんは、「んー」と声を出して、
「消極的だね……1六歩」
と、端を突いた。私は6三銀と上がる。
「端も突き返さないんだ……1五歩」
詰められたけど、これは想定の範囲内。
4二角、8八玉、9四歩、9六歩、3一玉、3七桂。
森下システムっぽい動きなのかしら? 4八銀の保留が、そんな感じだ。
私は8五歩と伸ばして、一方的に攻められないようにした。
2五桂、2四銀、2九飛、2二玉。
開戦間近? そう思った瞬間、筒井先輩は5七銀と上がった。
「先手総矢倉……?」
私は盤面をのぞきこみながら、そうつぶやいた。
「さ、どうする? そっちから攻める?」
挑発されてるなあ。
とはいえ、先手が攻めて来ないなら、後手から先攻してみたくはなる。
……………………
……………………
…………………
………………
「9三香」
6筋からの攻めは、4六の角に牽制されている。私は端攻めを選択した。
筒井先輩は、すぐに6八銀右引とした。
先手と後手が、入れ替わったようなかたちをしている。
「9二飛」
私が飛車を寄った途端、先輩はニヤリと笑った。
「そんじゃ、開戦と行きますか。1三桂成」
「!?」
せ、先手から攻めるの?
てっきり、総矢倉で受け切る方針なのかと……同香で? ……同香、2五歩? 3三銀と引くのは1四歩、同香、同香、1三歩、同香成、同桂、1四歩。後手は歩切れだから、1二歩と受けられない。これは、先手の端攻めが成功……ということは、1三桂成に同銀しかないわけか……同銀、1四歩、同銀、同香、同香なら、止まっているはず。
「同銀」
2五歩、3三金寄。
筒井先輩は、角に指を添えた。
「3七角」
イヤな手がきた――この手の狙いは、すぐに見える。1四歩、同銀、同香、同香としてから、1五歩で香車を殺しに来る作戦だ。私は顔をあげて、ちらりと筒井先輩の表情を盗み見た。目が合って、ニヤリとされた。これは、先輩の研究手順に突っ込んでいる。
ってことは、私の次の一手も、当然に研究範囲よね――もちろん、9五歩だ。先手の1四歩が入る前に攻めるなら、ここしかない。9三香〜9二飛から、当然の流れでもある。9五歩、同歩、同香、同香、同飛に、9六歩か、あるいは9九香と止めて、前者なら9一飛、後者なら9六歩と押さえたい。
いずれにせよ、そこで1四歩、同銀、同香、同香、1五歩が予想された。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
多分、この進行。ここで後手にうまい手がないと、不利になる。
……………………
……………………
…………………
………………
8四桂かなあ。
以下、1四歩、1一香、1九香……は、飛車が回れないか。1八香に変えて、こっちは1二香打で補強。先手も1九飛と回って、3段ロケットにする。この瞬間に9七歩成として、同香、9六歩、1三歩成、同香、同香成、同香、1四歩、9七歩成、同桂、1四香と一回手を戻して……1五歩?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
一直線に読んでみたけど、後手も悪くないわね。っていうか、この最後の1五歩は、打てないと思う。1五同香と取って、同飛に1四香といきなり打ち返す手があるからだ。同飛、1三香で、飛車が死んでしまう。持ち駒に香車が2枚あるからできる芸当。
よし、9五歩でなんとかなりそう。私は、意気揚々と攻めた。
「9五歩ッ!」
「同歩」
筒井先輩も、すぐに反応した。
同香、同香、同飛、9九香、9六歩、1四歩、同銀、同香、同香。
「1五歩」
飛車回りを手抜いた……私は、同香としようか迷った。同香、同角、1一香、3七角、1八香成の反撃が見えたからだ。ただ、成り駒ができてるだけで、弱いかもしれない。
私は、このまま同香と取るか、さっきの8四桂を先着するか、比較検討した。この段階で8四桂と打つと、1四歩、9七歩成……いや、さすがに性急か。1一香か1二歩で一旦受けたほうが良さそう。1三歩成に同桂も同玉もイヤだから。1二歩は歩切れになるし、1一香かなあ……1一香……でも、9八香打と先手が受けてきたら……あ、それは8四桂で無効化されてるのか。次に9六香と取れない。
ふむふむ、8四桂は、思ったより利いてるわね。となると、先手は受けるよりも攻めないといけないわけか……だったら、今度こそ1八香なんじゃない?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
次に1三歩成、同香、同香成、同桂、1四歩はイヤだから……1二歩? また歩切れになる順が現れた……歩切れは、9筋方面でなにもできなくなる……けど、これ以外は1二香打と重ねる受けしかないし……うーん……迷う。
私は、残り時間を確認した。15分を切りかけていた。私は最終的に、7五歩、同歩、7六歩の攻めが残るように、1二香打と重ねる順で受けることに決めた。
「8四桂」
私は急所の桂馬を打った。筒井先輩は、真顔になって、
「なかなかやるね」
と言ってから、小考。おたがい、難しい順に突入したようだ。
「ま、とりあえずは、こうか……1四歩」
私は、黙って1一香。筒井先輩は、さらに30秒ほど考えて、1八香を選択した。
本命で読んでいたほうになって、ホッとする。と同時に、難解だとも感じた。1二香打とするかどうか……私は10秒で覚悟を決めて、1二香打と重ねた。
筒井先輩は、チッというような顔をして、ツインテールの根元に手を添えた。
「ここまでついてこられるとは、予想外だったかな……7九玉」
ん? これは読んでいない手だ。1九飛を中心に考えていた。
1九飛と回らないと、攻めが薄くない? 例えば、こっちから9七歩成として、同香あるいは同桂……同桂かな。9六歩に9八歩があるから。この順は、後手の攻めが足りていないと思う。だから、9七歩成、同桂には9六歩と打たないで、1四香、同香、同香、1五歩、同香、同角で端を収めて……えーと……1四歩? 1一香は香車がなくなるから、もったいない気がする。1四歩、3七角……ここで9六歩……まだ弱い。
やっぱり、7五歩でしょうね。7五歩、同歩、7六歩、同銀、同桂、同金、9六歩……これは全然ダメ。9八香打があって、9七歩成、同香に手がない。飛車が死んでる。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
うーん……息苦しくなってきた。端の応酬が細か過ぎる。
私はペットボトルを開けて、お茶を飲んだ。大きく息を吸って、吐く。
それから腕組みをして、目を閉じた。脳内将棋盤を動かすためだ。
現局面から、9七歩成、同桂、7五歩、同歩、7六歩までは決めておきたい。そこで同銀と取ってくれたら、1四香で歩を補給して、同香、同香、1五歩……ここで手抜くのもありかなあ。9六歩と置いて、9八香打、9七歩成、同香……は、9六に打つ歩がないのか。1五に歩は落ちてるけど、1五香、同角、1四歩のときに使うから、枚数が増えないのよね。つまり、端はあんまり有望じゃない、と……。
OK、だったら、方針変更。7六歩、同銀に、1四香、同香、同香、1五歩、同香、同角、1四歩、3七角、7六桂、同金まで決めてから3八銀。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
1九飛、3七銀成、2六角と退かせて、6五歩は、どう? 3七の角がいなければ、ここの歩を突いても問題ない。ちょっと遅いかもしれないけど……うーん……。
私は散々考えて、こちらのほうが端攻めより有望だと判断した。
「9七歩成」
同桂、7五歩、同歩、7六歩。
私がチェスクロを押すと同時に、筒井先輩は銀に指をそえた。
そして、スッと8八に引いた。
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…………………
………………
あれ?