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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第55章 解けなかった暗号(2017年6月21日火曜)
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346手目 飛んで火にいる

 晴れた日の昼下がり、私は金融論の授業を受けていた。

 中規模の講堂で、板書をノートにとる。

 先生はおじいさんで、ときどき声が聴き取りづらい。

 最後の数式の説明を終えたところで、先生はチョークをおいた。

「さて、なにか質問はありますか?」

 このあたりもけっこう旧式。

 リアクションペーパーで質問をつのる授業のほうが、多いと思う。

 まああれはあれで、全部読んでるのか疑わしかったりするけど。

 だれも質問しないだろうな、という雰囲気の中、ひとりの手が上がった。

 粟田あわたさんだった。

「はい、なんでしょうか」

 粟田さんはおずおずと立ち上がって、

「これは、友だちに指摘されて気づいたんですけど、どうして日本円は購買力平価に照らしたとき、割安なんですか? マンベノミクスでじっさいに物価目標を達成したなら、円安になるのはわかります。低金利のまま円価値が下がると、外貨に避難するので。でも今は、2パーセントのインフレ目標を達成していないですよね?」

 と質問した。

 あ、これ、私と図書館で議論したやつだ*。

 俄然気になってきた。

 先生は、

「いい質問であると同時に、非常にむずかしい質問ですね」

 と言って、腕組みをした。

「マンベノミクスの評価については、経済学者のあいだでも意見がわかれています。さしあたり、それは置いておきましょう。なぜ円安になったのか、という点だけ考えます。原因は、おそらく複合的です。ひとつは、物価目標が達成されていないにせよ、デフレ脱却は一応果たした、という点です。もうひとつは、量的緩和によるものです。量的緩和がなんであるか、おわかりですか?」

「えーと、量的緩和というのは、中央銀行が国債や民間債券を買うことです」

「買うとどうなりますか?」

「教科書的な説明では、効果が2つあります。まず、中央銀行は国債や民間債券を買うことで、民間金融機関にお金を渡しますから、資金供給につながります。次に、長期金利が低下して、リスク資産への投資や、借り入れが促進されます。その結果、市場にあるお金の量が増えます」

「長期金利が低下すると、なぜ投資が活発になるのでしょう?」

「長期金利は、債券の利回りの指標になるからです。長期金利が低下すると、債券の利回りも低下するので、より利回りの高いリスク資産に投資する必要があります」

「よく勉強していますね。すると、量的緩和で円安になる理由もわかりますね?」

「はい、通貨の量が増えれば、価値が低下します。たくさんあるものほど安くなる、というルールに従うからです……けど、購買力平価に照らした場合、今は過度の円安な気もするんです。マンベノミクスは、購買力平価を打ち消す効果があるんですか?」

 先生は、うーんとうなった。

 現在進行形の政策だから、答えにくいのかしら。

「まず、過度に円安かどうか、という問題があります。たしかに2015年は、購買力平価に照らして、大きく円安に振れました。しかし、2016年は、ほぼ購買力平価通りであったと、そう考えています」

「じゃあ、円安は一時的なものだった、ということでしょうか?」

 先生は間をおいた。

 その表情は、授業中のやんわりしたものじゃなくて、学者のそれだった。

 虚空を見つめて、じっと黙考していた。

「……これは私の個人的な予測として聞いてください。マンベノミクスに関して、懸念している点がひとつあります。それは、成長戦略がないことです。マンベノミクスによって市場に供給された資金は、住宅と株に流れ込んでいます。もし日本が新しい経済構造を確立できなければ、これらが成長に寄与する可能性は、高くありません。数年後、日本に具体的な成長が見られないときは、だぶついた資金を海外へ向ける動きが生じ、そのときの円売りで円安になる可能性があります」

「たとえばアメリカの株式ですか?」

 先生は笑って両手をひろげた。

「それはわかりません。わかるなら、私は大学教員をしていません」

 会場に笑いが起こって、講義はおひらきになった。

 教室がざわつく。

 そそくさと出て行くひと、友だちと雑談するひと。

 スマホを熱心に確認しているひと。

 私は大きく背伸びをして、それから教材をかたづけた。

香子きょうこちゃん、おはよ~」

 ふりむくと、粟田さんが立っていた。

「おはよ。さっきの質問、勉強になったわ」

「えへへ、ちょっと恥ずかしかったけどね……ところで香子ちゃん、なにかあった?」

「え、どうして?」

「だいぶつかれてるみたいだけど」

 ぎくッ、顔に出ていたか。

 私は事情を説明した。

「サークル活動で土日がつぶれる、か……たいへんだね」

「ま、わいわいやれるからいいんだけど、毎週だと、ね」

 土日が潰れて一番困るのは、大学の課題を平日にやらないといけないことだ。

 これがけっこうたいへん。

 粟田さんは、

「大学生活は自由な分、スケジュール管理がたいへんだよね。勉強、アルバイト、サークル、恋愛……私は今のところ、最初のふたつだけか」

 と言った。

「粟田さん、サークルに入らないの?」

 粟田さんはちょっと苦笑いして、

「麻雀サークルに入ろうかと思ったんだけど、なんか男子のたまり場なんだよね。麻雀するために集まってるんじゃなくて、集まるために麻雀やってる、みたいな」

 と答えた。

 たしかに、それは入りにくい。

 将棋部も、大会に出るためじゃなくて、遊び仲間を見つけるための場所だったら、私も松平まつだいらも入ってないでしょうね。

 粟田さんは、あ、そうだ、と言って、スマホをとりだした。

 画面を見せてくる。

 将棋盤が映っていた。

「じゃーん、将棋をちょっと勉強しました」

 おお、パチパチパチ。

「と言っても、駒の動かし方を勉強しただけ」

「それでもすごいわよ」

「というわけで、香子ちゃんも麻雀の勉強をしよ~」

 お断りします。

 私のノーに、粟田さんはしょんぼりした。

 わざとらしくタメ息をつく。

「ハァ~、私たちの友情もこれまでか」

 いや、おたがいの趣味を合わせる必要、なくない?

 麻雀はなあ、ギャンブルのイメージが、どうしてもある。

「牌の種類だけでも、おぼえない?」

「そこからなし崩し的になるから、ダメ」

太宰だざいくんとか又吉またよしくんは、打ってくれるよ?」

 え? そことつながりがあるの?

 疑問に思って訊いてみると、例の食事会**のあと、連絡先を交換したらしい。

 まったく、なんて手が早いんですか。あきれ。

「私は将棋で手一杯なの。ごめんなさい」

「むぅ、大学に女の子の麻雀仲間がいたら、楽しいんだけど……」

 さがせばいるんじゃないの?

 麻雀やってる女性がゼロってことは──ん?


  ○

   。

    .


 将棋部の部室。

 ソファーに座っていた穂積ほづみさんは、スマホから顔をあげた。

「麻雀仲間?」

 私は粟田さんを紹介した。

「はじめまして、粟田です」

「はじめまして……って、どういうこと?」

 そりゃそうなるわよね。

 私はあれこれ説明する。

 穂積さんは、

「なんだ、そういうことなら、早く誘ってくれればよかったのに」

 と言って、自己紹介を始めた。

「穂積よ。MEGAリーグ四段だから、よろしく」

「わぁ、すごい。私も四段には上がったことあるんですけど、すぐ落ちちゃって」

 だ、段位があるんだ。

 初めて知った。

 ふたりはスマホで、なにかのゲームのIDを交換し始めた。

 穂積さんは、

「んー、どっかで打ったことある?」

 とたずねた。

「ありそうですね。あとで戦歴検索したら出るかも」

 よくわからないけど、これで一件落着?

 私がホッとしたのもつかのま、穂積さんは、

「そうだ、将棋部に入りなさいよ」

 と、唐突な勧誘を始めた。

「しょ、将棋はよくわかんないです」

「わかんなくてもオッケー。私のお兄ちゃんもよわよわだし」

 いや、どうかな……穂積お兄さん、さすがに1年指しただけあって、1、2級にはなったと思う。

「大会とか出てるんですよね? 迷惑がかかるといけないので~」

「人数足りてないし、いいって」

「部費も払うのはちょっときつくて~」

「大学公認で部費はまかなえてるから、払わなくていいの」

「2年生になって、勉強が大変で~」

 粟田さんは、のらりくらりとかわした。

 穂積さんはじれてきて、

「香子も加勢しなさい」

 と言い出した。

 いやいや、ムリヤリ勧誘はダメだから。

 この部の立ち上げポリシー、忘れてるでしょ。

 ヤル気のないひとは入れない。これ。

 私が注意しかけたところで、ドアがひらいた。

 星野ほしのくんが顔をのぞかせた。

「主将か部長、いる?」

 私は、

「まだ来てないわ」

 と答えた。

「あ、裏見うらみさんでもいいや。赤学あかがく、聖ソと研究会する話、あったよね」

「……わきくんの提案?」

「うん、僕が都ノみやこのの連合幹事だから、そのまま担当になりそうなんだ」

 そっか、星野くんは、今年度の幹事だ。

 関東大学将棋連合に、各大学から1名ずつ出している役職。

 部内役職の渉外と兼任している。

「えっと……負担が大きすぎる、とか?」

「いや、もう前期は大会がないからいいんだけど、研究会っていつやるの? 夏休み前? それとも夏休み? 夏休み明けは団体戦が始まるから、マズいよね? 赤学も聖ソもBだし」

 しまった。全然考えてなかった。

「私は部長でも主将でもないから、なんとも……」

「じゃあ、大谷おおたにさんか松平に……あれ?」

 星野くんは、粟田さんを見た。

「新入部員?」

「あ、いえ、麻雀しに来ました」

「???」

 その説明はいかんでしょ。

 私は粟田さんを紹介して、それから星野くんも紹介した。

「ああ、穂積さんが麻雀できるから、その関係か」

「お邪魔しちゃって、すみません」

「将棋部入らないの?」

 また勧誘合戦が始まる。

 穂積さんも便乗して、こんどは2対1。

 粟田さんは私に助けを求めてきた。

「香子ちゃん、助けて」

 飛んで火にいる夏の虫、ってやつね──っと、松平から連絡。


 剣之介 。o O(ばんから連絡あった ちょっと図書館へ来てくれ)

*259手目 願いごと

https://ncode.syosetu.com/n0474dq/267/

**264手目 支店長

https://ncode.syosetu.com/n0474dq/272/

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