346手目 飛んで火にいる
晴れた日の昼下がり、私は金融論の授業を受けていた。
中規模の講堂で、板書をノートにとる。
先生はおじいさんで、ときどき声が聴き取りづらい。
最後の数式の説明を終えたところで、先生はチョークをおいた。
「さて、なにか質問はありますか?」
このあたりもけっこう旧式。
リアクションペーパーで質問をつのる授業のほうが、多いと思う。
まああれはあれで、全部読んでるのか疑わしかったりするけど。
だれも質問しないだろうな、という雰囲気の中、ひとりの手が上がった。
粟田さんだった。
「はい、なんでしょうか」
粟田さんはおずおずと立ち上がって、
「これは、友だちに指摘されて気づいたんですけど、どうして日本円は購買力平価に照らしたとき、割安なんですか? マンベノミクスでじっさいに物価目標を達成したなら、円安になるのはわかります。低金利のまま円価値が下がると、外貨に避難するので。でも今は、2パーセントのインフレ目標を達成していないですよね?」
と質問した。
あ、これ、私と図書館で議論したやつだ*。
俄然気になってきた。
先生は、
「いい質問であると同時に、非常にむずかしい質問ですね」
と言って、腕組みをした。
「マンベノミクスの評価については、経済学者のあいだでも意見がわかれています。さしあたり、それは置いておきましょう。なぜ円安になったのか、という点だけ考えます。原因は、おそらく複合的です。ひとつは、物価目標が達成されていないにせよ、デフレ脱却は一応果たした、という点です。もうひとつは、量的緩和によるものです。量的緩和がなんであるか、おわかりですか?」
「えーと、量的緩和というのは、中央銀行が国債や民間債券を買うことです」
「買うとどうなりますか?」
「教科書的な説明では、効果が2つあります。まず、中央銀行は国債や民間債券を買うことで、民間金融機関にお金を渡しますから、資金供給につながります。次に、長期金利が低下して、リスク資産への投資や、借り入れが促進されます。その結果、市場にあるお金の量が増えます」
「長期金利が低下すると、なぜ投資が活発になるのでしょう?」
「長期金利は、債券の利回りの指標になるからです。長期金利が低下すると、債券の利回りも低下するので、より利回りの高いリスク資産に投資する必要があります」
「よく勉強していますね。すると、量的緩和で円安になる理由もわかりますね?」
「はい、通貨の量が増えれば、価値が低下します。たくさんあるものほど安くなる、というルールに従うからです……けど、購買力平価に照らした場合、今は過度の円安な気もするんです。マンベノミクスは、購買力平価を打ち消す効果があるんですか?」
先生は、うーんとうなった。
現在進行形の政策だから、答えにくいのかしら。
「まず、過度に円安かどうか、という問題があります。たしかに2015年は、購買力平価に照らして、大きく円安に振れました。しかし、2016年は、ほぼ購買力平価通りであったと、そう考えています」
「じゃあ、円安は一時的なものだった、ということでしょうか?」
先生は間をおいた。
その表情は、授業中のやんわりしたものじゃなくて、学者のそれだった。
虚空を見つめて、じっと黙考していた。
「……これは私の個人的な予測として聞いてください。マンベノミクスに関して、懸念している点がひとつあります。それは、成長戦略がないことです。マンベノミクスによって市場に供給された資金は、住宅と株に流れ込んでいます。もし日本が新しい経済構造を確立できなければ、これらが成長に寄与する可能性は、高くありません。数年後、日本に具体的な成長が見られないときは、だぶついた資金を海外へ向ける動きが生じ、そのときの円売りで円安になる可能性があります」
「たとえばアメリカの株式ですか?」
先生は笑って両手をひろげた。
「それはわかりません。わかるなら、私は大学教員をしていません」
会場に笑いが起こって、講義はおひらきになった。
教室がざわつく。
そそくさと出て行くひと、友だちと雑談するひと。
スマホを熱心に確認しているひと。
私は大きく背伸びをして、それから教材をかたづけた。
「香子ちゃん、おはよ~」
ふりむくと、粟田さんが立っていた。
「おはよ。さっきの質問、勉強になったわ」
「えへへ、ちょっと恥ずかしかったけどね……ところで香子ちゃん、なにかあった?」
「え、どうして?」
「だいぶつかれてるみたいだけど」
ぎくッ、顔に出ていたか。
私は事情を説明した。
「サークル活動で土日がつぶれる、か……たいへんだね」
「ま、わいわいやれるからいいんだけど、毎週だと、ね」
土日が潰れて一番困るのは、大学の課題を平日にやらないといけないことだ。
これがけっこうたいへん。
粟田さんは、
「大学生活は自由な分、スケジュール管理がたいへんだよね。勉強、アルバイト、サークル、恋愛……私は今のところ、最初のふたつだけか」
と言った。
「粟田さん、サークルに入らないの?」
粟田さんはちょっと苦笑いして、
「麻雀サークルに入ろうかと思ったんだけど、なんか男子のたまり場なんだよね。麻雀するために集まってるんじゃなくて、集まるために麻雀やってる、みたいな」
と答えた。
たしかに、それは入りにくい。
将棋部も、大会に出るためじゃなくて、遊び仲間を見つけるための場所だったら、私も松平も入ってないでしょうね。
粟田さんは、あ、そうだ、と言って、スマホをとりだした。
画面を見せてくる。
将棋盤が映っていた。
「じゃーん、将棋をちょっと勉強しました」
おお、パチパチパチ。
「と言っても、駒の動かし方を勉強しただけ」
「それでもすごいわよ」
「というわけで、香子ちゃんも麻雀の勉強をしよ~」
お断りします。
私のノーに、粟田さんはしょんぼりした。
わざとらしくタメ息をつく。
「ハァ~、私たちの友情もこれまでか」
いや、おたがいの趣味を合わせる必要、なくない?
麻雀はなあ、ギャンブルのイメージが、どうしてもある。
「牌の種類だけでも、おぼえない?」
「そこからなし崩し的になるから、ダメ」
「太宰くんとか又吉くんは、打ってくれるよ?」
え? そことつながりがあるの?
疑問に思って訊いてみると、例の食事会**のあと、連絡先を交換したらしい。
まったく、なんて手が早いんですか。あきれ。
「私は将棋で手一杯なの。ごめんなさい」
「むぅ、大学に女の子の麻雀仲間がいたら、楽しいんだけど……」
さがせばいるんじゃないの?
麻雀やってる女性がゼロってことは──ん?
○
。
.
将棋部の部室。
ソファーに座っていた穂積さんは、スマホから顔をあげた。
「麻雀仲間?」
私は粟田さんを紹介した。
「はじめまして、粟田です」
「はじめまして……って、どういうこと?」
そりゃそうなるわよね。
私はあれこれ説明する。
穂積さんは、
「なんだ、そういうことなら、早く誘ってくれればよかったのに」
と言って、自己紹介を始めた。
「穂積よ。MEGAリーグ四段だから、よろしく」
「わぁ、すごい。私も四段には上がったことあるんですけど、すぐ落ちちゃって」
だ、段位があるんだ。
初めて知った。
ふたりはスマホで、なにかのゲームのIDを交換し始めた。
穂積さんは、
「んー、どっかで打ったことある?」
とたずねた。
「ありそうですね。あとで戦歴検索したら出るかも」
よくわからないけど、これで一件落着?
私がホッとしたのもつかのま、穂積さんは、
「そうだ、将棋部に入りなさいよ」
と、唐突な勧誘を始めた。
「しょ、将棋はよくわかんないです」
「わかんなくてもオッケー。私のお兄ちゃんもよわよわだし」
いや、どうかな……穂積お兄さん、さすがに1年指しただけあって、1、2級にはなったと思う。
「大会とか出てるんですよね? 迷惑がかかるといけないので~」
「人数足りてないし、いいって」
「部費も払うのはちょっときつくて~」
「大学公認で部費はまかなえてるから、払わなくていいの」
「2年生になって、勉強が大変で~」
粟田さんは、のらりくらりとかわした。
穂積さんはじれてきて、
「香子も加勢しなさい」
と言い出した。
いやいや、ムリヤリ勧誘はダメだから。
この部の立ち上げポリシー、忘れてるでしょ。
ヤル気のないひとは入れない。これ。
私が注意しかけたところで、ドアがひらいた。
星野くんが顔をのぞかせた。
「主将か部長、いる?」
私は、
「まだ来てないわ」
と答えた。
「あ、裏見さんでもいいや。赤学、聖ソと研究会する話、あったよね」
「……脇くんの提案?」
「うん、僕が都ノの連合幹事だから、そのまま担当になりそうなんだ」
そっか、星野くんは、今年度の幹事だ。
関東大学将棋連合に、各大学から1名ずつ出している役職。
部内役職の渉外と兼任している。
「えっと……負担が大きすぎる、とか?」
「いや、もう前期は大会がないからいいんだけど、研究会っていつやるの? 夏休み前? それとも夏休み? 夏休み明けは団体戦が始まるから、マズいよね? 赤学も聖ソもBだし」
しまった。全然考えてなかった。
「私は部長でも主将でもないから、なんとも……」
「じゃあ、大谷さんか松平に……あれ?」
星野くんは、粟田さんを見た。
「新入部員?」
「あ、いえ、麻雀しに来ました」
「???」
その説明はいかんでしょ。
私は粟田さんを紹介して、それから星野くんも紹介した。
「ああ、穂積さんが麻雀できるから、その関係か」
「お邪魔しちゃって、すみません」
「将棋部入らないの?」
また勧誘合戦が始まる。
穂積さんも便乗して、こんどは2対1。
粟田さんは私に助けを求めてきた。
「香子ちゃん、助けて」
飛んで火にいる夏の虫、ってやつね──っと、松平から連絡。
剣之介 。o O(磐から連絡あった ちょっと図書館へ来てくれ)
*259手目 願いごと
https://ncode.syosetu.com/n0474dq/267/
**264手目 支店長
https://ncode.syosetu.com/n0474dq/272/




