宗像恭二の初恋
申命館についたとき、あたりはすっかり暗くなっていた。
部室にはだれもいない。
座敷のうえには、本榧の将棋盤と、駒箱。
ずいぶんと几帳面に並べられている。
俺は大きな紙ぶくろをふたつ置いて、ひと息ついた。
「みやげなんて、いらなかっただろ」
歩美はスマホをいじりながら、
「しょうがないでしょ。例会用に買って来いって言われたんだし」
と答えた。
どうせ藤堂のあたりが、東京の菓子は品がないとか言い出すだけなんだよなあ。
俺は鍵を空中へ放り投げて、またキャッチした。
「このあと、どうする?」
「食事はしちゃったし、ちょっと疲れてるから、帰りましょ」
「だな……送ってく」
キャンパスを出て、東へ歩く。
なんか学生街っぽくないんだよな、この地域。
住宅や飲食店、不動産屋なんかがあるだけだ。
歩美は、
「負けたから、なんか言われそうなのよね」
とつぶやいた。
「そんなの無視しときゃいい。吉良をぶつけてダメだったなら、ダメだ」
「ま、それもそうね」
しばらく歩くと、いびつな十字路に突き当たった。
右斜めの道を選ぶ。
左に茶色いタイル張りの賃貸マンション、右に大きな児童公園があらわれた。
歩美は公園の入り口をゆびさして、
「あ、恭二の告白スポットよ」
と言った。
それを毎回言うのはやめてくれ。
「もう忘れろよ」
「駒込、だいじな話がある……か」
「言ってない」
歩美はスマホをタッチした。
《こ、駒込、だ、だいじな話がある》
「なんでそんなの録音してるんだよッ!?」
「あの日、いきなり送ってくとか言い出したから、あやしいと思ったの」
マジか……告白バレ……いや、待て、それはおかしい。
「おまえ、本気でびっくりしてただろ、あのとき」
「セクハラしてくるんじゃないかと思って、警戒してたのよ」
それはそれでショックなんだが。
俺ががっかりしていると、歩美は目を閉じて、スマホを耳にそえた。
「でもそのおかげで、夜さみしいとき、こうやって聞くことができるのよ」
……………………
……………………
…………………
………………かわいすぎる。
俺は歩美をだきしめた。
「ちょっと……もう、しょうがないわね」
くちびるを重ねる。
何度味わっても味わい足りない、甘い感触。
何秒か、何分か。
時間を忘れる抱擁のあとで、歩美はくちびるをはなした。
ひとさしゆびが、俺の前のめりな姿勢を押しもどした。
「はい、今日はここまで」
「今夜、泊めてくれないか?」
「ダメよ。明日は再履の英語があるんだから」
俺はもういちど歩美をだきしめた。
放したくない。だけど──
「それじゃ、また明日ね。おみやげ配らないといけないし」
「ああ……」
歩美は、マンションのエントランスへと向かった。
「なあ、歩美」
「……なに?」
「来月で俺、20歳になる」
「ええ、誕生日だったわね。プレゼントのおねだり?」
「20歳になったら、大学は辞めるつもりだった」
俺たちのあいだに、街灯の明かりがさしていた。
「1年半もいれば、藤堂への義理は果たすと思ってた」
「……今は、どう思ってるの?」
俺はポケットに手をつっこみ、そうだな、と間を置いた。
「もうちょっといてもいい」
「辞めたとき、就職のアテがあるの? ヒモはダメよ。養えないから」
そんなの気にするなって。
俺が20歳になって、姉さんの後見から外れたら、自由な金はいくらでもある。
そう、金はある。愛は……そうだな、愛もあった。
姉さんは俺を愛してくれてたよ。
歩美とは違う意味で。
それに気づいたのは、申命館に入ってからだ。
俺は姉さんから、他人扱いされていると感じていた。
けど、それはまちがいだった。申命館の将棋部で、ほんとうの他人を知った。
悪く言ってるわけじゃない。将棋部のやつは、なんだかんだでいいやつらだ。
ただ、他人っていうのはほんとうに他人なんだと、それがわかった。
赦せないのは親父だけ。家族を捨てた男。
もし生きてたら、俺が殺したかもしれないな──だけど、もういない。
俺が余裕をみせたせいか、歩美は嘆息した。
「恭二、ひとつだけ言わせて……闇バイトとか、そういう危ないことはやめて」
俺は笑って返した。
「してないよ」
軽く流したつもりだった。
歩美の瞳は、ゾッとするような真剣さを帯びていた。
「ほんとうにやめて……初めて愛したひとが、犯罪者になって欲しくない」
俺は笑みを消した。
「してないよ。信じてくれ」
俺たちは見つめ合い……そしてほほえんだ。
「それじゃ、また明日。あんたも1限あるんでしょ。さっさと帰りなさい」
「ああ」
俺は手を振って、歩美を見送った。
それからマンションを離れて、スマホを取り出した。
電話番号をさがす。
「……もしもし、宗像だ。いつもの車、空いてれば」
5分ほどして、タクシーがやってきた。
後部座席のドアがひらき、俺は乗り込んだ。
「市役所前」
運転手はなにも言わずにドアを閉めて、出発させた。
メガネをかけた、どこにでもいそうな中年男性。
じっさいは、なにも詮索してこない、変わった運転手だ。
某タクシー会社に頼んで、一番信頼できるひとを選んでもらった。
住宅街から、またべつの住宅街へ。
二車線に出て、御苑の垣根ぞいに、タクシーは走った。
そのスピード感が、俺の記憶とシンクロしていく。
あの壊れかけた車と、親父の運転に。
聖生と、もういちど会いたいな
親父はそう言った。聖生に会いたい、と。
ハンドルを握りながら、そう言った。はっきりと覚えている。
俺の親父は聖生じゃない。俺は聖生のこどもじゃない。
みんな勘違いしている。
たしかに親父は、相場で金を残した。俺と姉さんと、そして母さんに。
母さんも亡くなり、今は姉さんがすべてを管理している。
だけど、聖生は? 聖生は生きてるのか?
もし生きているとすれば──聖生ってだれなんだ?