342手目 真剣勝負
「負けましたなの~」
「ありがとうございました」
しばらくのあいだ、対局後の緊迫感が続いた。
志邨さんはお茶を飲み、温田さんは不満げに盤を見つめた。
感想戦の第一声は、
「だんだん悪くなった感じがするの~終盤、8五飛以外に受けはあったの~?」
だった。
【検討図】
温田さんは、3七銀も考えていた、と付け加えた。
志邨さんは、
「3七銀は4七香、4八歩、同桂成、同銀引、同香成、同金、同金、同銀とバラして、3八金と打つんじゃないかな。5九玉に4八金で王様を裸にして、同玉、4七銀、5九玉、5七銀の圧殺コース」
と答えた。
温田さんは読み筋を追ったあと、
「つばめちゃんの王様は、もう寄らないからダメなの~」
と、負けなことを伝えた。
温田さんはもうひとつ、終盤の入り口も確認した。
4一金と打った場面だ。
【検討図】
「これ手拍子で打っちゃったけど、2五銀もあったと思うの~よく考えたら、5一香ってそこまで致命傷にならないの~」
志邨さんは頭をかきながら、
「んー、4一金が最善な気はするけど……2五銀、5一香に同馬?」
と確認を入れた。
「同馬、同銀、2四銀、同歩、5一龍、3五桂で、先手耐えてな~い?」
「3五桂、3六玉……2七角、同金、3九龍があるっしょ」
「3七金で、次に後手は受けないといけないの~」
「たしかに、先手寄りまではいかないか……じゃあ、こっちは4二銀打くらいで……だけど、やっぱり本譜が最善じゃない? 個人的にあるかな、と思ったのは、3七歩」
【検討図】
「5一香に4二馬と切るんだろうけど、同銀、3六歩で桂馬を取り切っちゃって、先手もがんばれると思うんだよね」
「う~ん、これは考えなかったの~」
ほかの局面も検討していると、一ノ瀬さんのストップが入った。
両者、一礼して終わり。
席にもどってきた志邨さんは、来栖さんの左どなりに座った。
私からみると、左の左。
来栖さんは、
「おつかれさまです。大将までつながりましたね」
とねぎらった。
志邨さんはブレスレットの位置をなおして、
「ん、まあ、あとは予測がつかないっしょ」
と返した。
そう、次は最終戦、これはもう予測がつかない。
東からは生河くんが、西からは吉良くんが登場。
どちらの実力も、私は直接見たことがある。折り紙つきだ。
生河くんは、ちょっと緊張してる感じかなあ。どうしてだろ。
不思議に感じていると、志邨さんは、
「生河は、団体戦に不慣れなんですよね」
とつぶやいた。
私はおどろいた。
「不慣れ? ……慣れてないってことは、ないんじゃない?」
「生河の通ってた学校は、将棋部が弱かったんです。団体戦で上に行ったことがありませんし、体調を気遣って、出してないときもありました。ここまで大舞台の団体戦、しかも2-2の大将席なんて、初めてのはずです。春の団体戦でも、生河の席が決勝になったことは、ありませんでした」
うーん、そうなのか。どうりで大将に難色を示したわけだ。
火村さんは、
「あの吉良っていうのは、強いの?」
とたずねてきた。
私は、
「めちゃくちゃ強いわよ。四国限定なら最強だと思う」
と答えた。
「え、そうなの?」
火村さんは、楽観していたところがあるっぽい。
ちょっと厳しそうな表情に変わった。
「だったら、ほんとにわからないわね。生河ならイケるかな、と思ったんだけど」
そうこうするうちに、駒が並べ終えられた。
振り駒は吉良くん。表が3枚で、先手を引いた。
2-2になったから、両陣営の緊張感はマックス。
一ノ瀬さんも、厳粛な面持ちで腕時計を見ていた。
「……では、始めてください」
「よろしくお願いします」
ふたりは深く一礼して、生河くんはチェスクロを押した。
7六歩、3四歩、2六歩、4四歩。
【先手:吉良義伸(申命館) 後手:生河ノア(慶長)】
4四歩? ……振り飛車にするつもり?
東日本陣営、若干動揺。
吉良くんも一瞬手が止まった。
事前情報と違っていたからだろう。
でもすぐに2五歩を決めた。
3三角、4八銀、3二銀、3六歩。
生河くんは8筋に指を伸ばした。
飛車を動かすの?
パシリ
居飛車だ。
陽動振り飛車でない限り、居飛車。
火村さんは腕組みをして、
「トチ狂って振ろうとしたのかと思ったわ」
と、安堵のタメ息を漏らした。
私もちょっと焦った。
7七角、5二金右、6八玉、4三銀、3七銀。
後手は雁木だ。先手がどうするか。
3二金、5八金右、5四歩、4六銀、8五歩。
吉良くんは、ここで長考した。
来栖さんは、
「なんか先手、舟囲いなんですけど」
と指摘した。
そう、しかも右銀急戦のかたちなのよね、これ。
まさかそのまま突っ込む気?
吉良くんは親指でくちびるに触れたあと、次の手を指した。
パシリ
7八銀。
さすがにそんなことはなかった。
生河くんは6二銀。
吉良くんは、即座に次の手を指した。
パシリ
~~~ッ、いきなり攻めたッ!
動揺する私をよそに、志邨さんは、
「今の時間の使い方、めちゃくちゃうまかったですね」
と褒めた。
「どういうこと?」
「長考して7八銀なら、囲い方に困ってたんだな、って思うじゃないですか。実際には3五歩を読んでたわけです。あいてに警戒させないトリックですね」
むむむ、吉良くん、憎たらしいテクニックを。
生河くん、長考タイム。
火村さんは、
「対抗形なら4五歩のかたちでしょ。これでもイケるんじゃない?」
と、手筋を披露した。
志邨さんは、
「ありえます。ただ、4五歩、3四歩にはならないですよね。7七角成、同銀、4六歩のあとが、ムリゲー過ぎるので。おそらく、4五歩、同銀、3五歩、2四歩です」
とコメントした。
だけど、これは外れた。
生河くんは4二金右。
吉良くんは30秒ほど考えて、7九玉と入った。
7四歩、2六飛、4五歩。
あ、ここで反撃か。
思い切りはいい。怯んでいる感じはしない。
生河くんの表情からも、弱気なオーラは消えていた。
将棋指しの顔をしている。
同銀、8六歩、同歩、3五歩、6六歩。
むずかしい手が続いた。3五歩のところでは、7七角成もあったと思う。
8六歩を入れるかどうかも、微妙だった。
吉良くんの6六歩は、交換しないなら封鎖する、という手だ。
後手は角交換を拒否されたかっこう。
ここから第二次の駒組みが始まった。
4一玉、6七金、3一玉、4六歩、7三桂。
火村さんは、
「むずかしいわね。3四歩は見えるんだけど、そのあとが続かないっぽくない?」
と言った。
私もそう思う。
3四歩は2二角と引かれたあと、明確な手がない。
2四歩、同歩、同飛、2三歩、2六飛はなにも起こらないし、3七桂と跳ねるのも、1四歩、2四歩、同歩、2五歩、同歩、同桂、2四歩、3三桂成、同桂、同歩成に同金左と強く取って、そのあとが続かない。
【参考図】
吉良くんも、じぶんがいいとは思っていないようだった。
接客用の豪華な椅子に手をついて、やや前傾姿勢で考えていた。
1分が経ち、ようやく着手。3四歩。
2二角に1六歩で、手待ちのような手が出た。
生河くんも小考。6四歩。
以下、9六歩、9四歩のあと、吉良くんは5六銀と下がった。
生河くんは、すこしばかり首をかしげた。
ちょっと態度に出過ぎかな、という気もしたけど、私も首をかしげたくなる手だ。
火村さんも同感だったらしく、
「2四歩と攻めるか、3七桂と溜めるところじゃなかった?」
と訊いてきた。
「私も2四歩か3七桂かな、と思った」
「そうよね。ここで銀が撤退するようじゃ、ダメでしょ」
吉良くん、ひよった?
生河くんは5五歩で、押し返し始めた。
4七銀、6三銀。
吉良くんは、オールバックの髪を撫でつけてから、華麗に腕を伸ばした。
「4五歩」
4筋を突き越した?
志邨さんは足を組んで、前傾姿勢になった。
「これが吉良の本気ですか。5六銀~4七銀は、むしろ攻めの布石でしたね」
あ、そういうことか。
ここから2四歩だ。4五に銀がいるよりも、歩のほうが厳しい。
次に3四銀と払っても、2四歩、同歩、同飛、2三金、2八飛、2四歩に、3六歩と継ぐか、あるいは4六銀と上がる手が成立してしまう。
吉良くんはテーブルのお茶を手に取って、ひとくち飲んだ。
生河くんは微動だにしない。
椅子にもたれかかって、ポケットに手を突っ込んでいる。
視線は盤に固定され、呼吸さえしていないかのような集中力。
室内は、異様な空気に包まれた。
これまでの対局も、みんな本気で指していたと思う。
でも、これじゃあまるで真剣勝負だ。
火村さんの顔からも、さっきまでの陽気なところは消えていた。
長い犬歯を見せ、そっとつぶやく。
「気軽に引き受けた引率だけど……東西最強決定戦の見届けなんて、聞いてないわよ」




