34手目 初陣
「驚いたわね。黒幕が、あんな子だったなんて」
春日さんは、カメラの設定をいじくりながら、そうつぶやいた。
対局準備は完了。あとは幹事の合図を待つだけ。
「まだ、黒幕とは決まってなくないですか?」
私の質問に、春日さんは口の端をほころばせた。
「私が事前に入手していた情報と一致してるから、まちがいないわ」
えぇ、どっから入手したのよ。嘘くさいなぁ。マスコミ不信。
疑っている私のよこで、入江会長が声をあげた。
「対局準備の整っていないところは、ありますか?」
返事なし。
「では、始めてください」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
振り駒で先手を引いた春日さんは、7六歩と突いた。私は3四歩。
「6八飛」
角交換型四間飛車……だけど、私はおどろかない。
三宅部長のおかげで、春日さんが振り飛車党なのは掴んでいた。
「8四歩」
春日さんは、この手にうなずいた。
「ふむふむ、これも情報通りね」
どうやら、私の情報も集めてたみたい。H島の高校竜王戦の棋譜は、新聞にも載っていたから、簡単に調べられる。それに、春日さんは、独自のネットワークを持っていそう。
用心、用心。
4八玉、8五歩、3八玉、4二玉、2二角成。
角交換型振り飛車の狙い、イビ穴封じ。私は同銀と取って、チェスクロを押す。
「あの火村って子、どのくらい強いと思う?」
春日さんは8八銀と指しながら、そうたずねた。
私は時間を削られないように、6二銀と指してから答える。
「そういう情報収集って、春日さんのほうが得意だと思うんですけど」
春日さんは、まあね、と否定しなかった。
「でも、彼女の棋歴は分からなかったのよ。聖ソフィアの部室に出入りしてる面子で、一番あやしそうな人物を探してただけ。明石くんと、ちょくちょく会ってたみたい」
取材というより、ストーカーじゃないですか。私はあきれつつ、局面を進めた。
2八玉、3二玉、7七銀、5二金右、3八金。
ん、これは……もしかして、振り穴? 棺桶にする必要性がないわよね。
私はすこし考えてから、1四歩と打診してみた。
「1八香」
くッ、やっぱり振り穴か。個人戦なのに、手堅い戦法で来た。
私は駒組み負けしないように、1五歩、1九玉、3三桂、2八銀、2四歩、3六歩、2三銀と、銀冠を目指す。穴熊は、上から押しつぶすのが一番。
パシャ パシャ
ん? なんの音?
顔をあげると、春日さんは立ち上がって、私の写真を撮っていた。
ちょっとッ! 勝手に撮らないでくださいなッ! 肖像権ッ! 肖像権ッ!
「対局中も撮るんですか?」
「仕事だからね」
お金でももらってるのかしら。私は無視して、先を読んだ。
春日さんも座りなおして、撮った写真を確認してから、8八飛と回った。
逆棒銀……かな? あるいは、6六銀〜7七桂型。
可能性的には、どっちも五分だと思う。
私はちょっと悩んで、2二玉と固める方針を選んだ。
「無難な一手ね……5八金」
3二金、6六銀、5一銀。
ここだけ工夫する。春日さんも、5一銀のところで手がとまった。
「ガチガチに固める気か……じゃあ、こっちも固めるわ」
3九金、4二銀、4六歩、3一銀、4七金、4二金右。
これは、堅さで先手に負けてないと思う。むしろ、先手のほうが薄くないかしら。
駒組み負けはしなかったみたいだし、とりあえずひと安心。
「それじゃ主導権が取れないでしょ。7七桂」
ぐぅ、正論。ここは、春日さんの攻めにカウンターするしかないわね。
それまでの手待ちのしかたが重要。
私は2一玉と引いて、5六歩に2二銀とした。ミレニアムもどきだ。
春日さんはカメラを脇に置いて、本格的に考え始めた。将棋指しの顔。
「……位を取っときましょ。5五歩」
……5八飛の準備? でも、5八飛には、すぐに8六歩よね。飛車はお見合いにしないといけないから、べつの手が飛んで来そう。慎重に。
私は3一金と引いて、様子を見ることにした。
「9六歩」
んー、そっちも様子見か……9四歩と突き返して……ん、ちょっと待ってよ。これ、もしかして9四歩には5八飛で、8六歩、同歩、同飛、9七角、8九飛成、5四歩?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これは後手が崩壊してる。9九龍なら5三角成と突っ込んで、同金、同歩成だ。
私は、さっき買っておいたお茶のキャップを開けた。
9六歩がただの手待ちじゃないってところが、大学将棋のレベルを表してる。
私はお茶をひと口飲んで、頭をリフレッシュさせた。先手からは、このまま放置でも9七角〜5八飛〜5四歩がある。これを阻止したいなら、後手から攻めないといけない。3一金がヌルかったかな……いや、あれは必要な一手だし、ここまで気付かなかった自分が悪いということで、気を取り直しましょう。
さてさて、後手から先攻するには、2五桂跳ねか、あるいは角打ちしかない。どっちが先かの問題で、両方絡めないと、さすがにムリでしょうね。銀を繰り出せないところは、角で補うしかない。第一感は、7四角〜2五桂なんだけど……これは金を逃げずに、6五銀とぶつけてくる順が気になる。7四角、6五銀、同角、同桂に6四歩と突いて、桂馬を取り切れれば2枚換え……あ、5三桂成、同金、5八飛か。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
後手が全然もたない。となると、7四角、6五銀には、9二角と引くしかないわけか。これじゃ、なにをしているのか分からないし……ん、そうでもないか。9二角と引いたとき、先手もそんなに簡単じゃないような……いや、簡単だ。9二角に5八飛と回って、8六歩、同歩、同飛、9七角以下、さっきのイヤな順にもどってしまう。
というわけで、7四角は却下。端攻めを見た2五桂跳ねのほうが良さそう。そこで2六歩なら、1七桂成で殺到したあと、2五歩、同歩、2六歩と垂らす順が残る。これは、後手がやれるはず。
私は読み抜けがないか確認して、桂馬を跳ねた。
今度は、春日さんが深く息をついた。
「なるほどねぇ……」
春日さんは、鞄からステンレス水筒をとりだし、コーヒーを入れた。
鋭い目付きで、盤面に集中する。私も、続きを考えた。直接的な2六歩はいいとして、それ以外の手が問題なのよね。一番ありえそうなのは、ここから5八飛なんだけど……そこで8六歩、同歩は、中央に殺到されるほうが速いから、ちょっとやりにくい。まあ、2五桂を跳ねてある以上、8六歩以下が成立してる可能性もあるけど……例えば、5八飛、8六歩、同歩、同飛、9七角、8九飛成、5四歩、同歩、6五桂……9九龍、4二角成、同金、5四飛、1六歩、5一飛成、4一香、1六歩、1七歩で、どれだけ戦えるか……。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
あれ? 意外とイケそう? 攻め合いで5三桂成、1八歩成、同玉、1六香、1七歩、同香成、同桂、同桂成、同銀は……3九龍で後手勝ちかな……こっちは詰めろがかかってないから……かと言って、1七同玉も1五桂から勝ちよね、多分。
そっか、ここから5八飛は、2五桂の効果で成立しないのか……了解。だんだん自信が持ててきた。春日さんも容易ではないと見ているらしく、かなりの時間を使った。
「……これしかないか」
春日さんはコーヒー入りの蓋を置き、持ち駒の角を手にした。
角? 9七角の先打ち?
パシリ
……………………
……………………
…………………
………………
そこ? そこは読んでなかった。6三の地点を狙った直接手で、狙いは分かるけど、9七角の可能性を消すとは思っていなかったからだ。それに……こうなると、6三の地点を守るために、7四角と打ちたくなる。4七の金も狙えて、一石二鳥じゃない?
なにか罠があるのかしら。私は、手拍子には指さなかった。小考する。
残り時間は、私が18分、春日さんが19分で、いい勝負。
仮に7四角と打ったとして……やっぱり6五銀でしょうね。6五銀に9二角は6三角成とされちゃうから、6五銀、4四歩、5六角、9二角が本命。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
ここで、先手がなにをしてくるか……5八飛は、回りにくいんじゃないかなあ。5六に角がいて邪魔だし、8六歩、同歩、同飛のとき、9七角と反撃する筋もない。
結局、春日さんの意図が見えないまま、私は次の手を指した。
「7四角」
私の角打ちに、春日さんはノータイムで6五銀とぶつけた。
4四歩、5六角、9二角。
春日さんは、さらに1分投入して、飛車を横にスライドさせた。
……ないと思ってた手がきた。じつは、成立してるってこと?
ノータイムで8六歩としたい気持ちを抑えて、私は相手の応手を考えた。8六歩に手抜くつもりなんでしょうけど……5四歩かしら? 5四歩、同歩、同銀、5六角、同飛、9二角、5七飛、5六歩、同金、8七歩成、6五桂、7七と、5三桂成、8九飛成?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これは後手悪くないと思うけどなあ……ん? ちょっと待ってよ……読み間違えてないかしら? 5四歩、同歩、同銀、5六角、同飛、9二角に6五角がある。同角、同桂……あ、これはマズい。後手が悪そう。6四歩、5三銀成、6五歩、4二成銀……やっぱり先手のほうが速い。
私は背筋を伸ばして、前髪に手をあてた。5八飛が成立してる……まさかの読み抜け。大学将棋についていけてない……いや、ここで諦めたらダメ。試合終了。がんばれ、私。高校生のときも、最初はこんな感じだったし、とにかく諦めたらダメ。
私はお茶を飲んで、気をとりなおした。5四歩以下の回避策を練る。
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……………………
…………………
………………
8六歩のところは、手を変えられない。飛車先が通らないと、話にならないからだ。
ということは、5四歩の対処を変えるしかないわね。とはいえ、変え方も、ほぼ1通りしかない……放置で8七歩成だ。つまり、現局面から8六歩、5四歩、8七歩成、5三歩成、同金……いや、同金は5四銀とじかにぶつけられてしまう。だから、5三歩成も放置で7七と……は、勝負になってる? 4二と、同金、5四銀……あ、6七とがあるか。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
5三銀成には強く5八とと取って、4二成銀、同飛、9二角成、同飛。
これは勝負になってる。っていうか、後手優勢。
あれぇ? じゃあ、春日さんの読み間違いってこと?
それとも、なにかあるわけ?