329手目 好局
この手に、ギャラリーは異なる反応をみせた。
うしろのほうで男子ふたりが、
「5五角で抜く気か?」
「いや、ムリだろ。7七銀打~2三歩成で両取りになるぞ」
と会話していた。
そうよね。8八同玉に5五角と抜くのは、7七銀打、3三角、2三歩成で、角龍両取りになってしまう。角筋に入ってるから7六銀とできない、というわけではないのだ。
さらに、両取りじゃなくて4三角と打ってもいい。後手はほぼ寄る。
志邨さんはすぐに取ろうとして、ふと眉をあげ、手をひっこめた。
椅子の上で足を組み、前髪をなおした。
なにか気づいたっぽい?
5五角の見落としなんて、志邨さんクラスはしないと思う。
ところが、ここから長考が始まった。
志邨さんは目を閉じて、前髪を大きくかきあげた。かたちが崩れる。
1分ほど経過したところで、舌打ちをし、がりがりと頭をかいた。
顔に出すぎ。っていうか、問題があったの?
みんなが疑問に思う中、ひとり表情を変えていないひとがいた。
風切先輩だ。
私はなにかあると思って、
「先輩、これって5五角でイケます?」
とたずねた。
「5五じゃない。9九だ」
【参考図】
2連続の角捨てッ!?
ってことは……取ったら詰む?
詰む以外に考えられない。でないと暴発だ。
私はじぶんで考えてみた。
……………………
……………………
…………………
………………あ、そっか、7三の桂馬が防波堤になってる。
9九同玉、9八金、同玉、7八龍、8八桂、9七歩、同玉、9六歩、同玉、9四香、9五歩、8五銀、9七玉、9五香、9六歩、同香、同桂、8八銀、9八玉、8九龍までだ。けっこう長手数。
「詰みますね」
「ああ、9九同玉なら、な。7九玉と引けば詰まない」
でもそれは8八金、6九玉、7八金と追われる。
「いっそのこと、この時点で6九玉としませんか?」
私の質問に、風切先輩はうしろ髪をくるくるいじった。
「いや、8八同玉と取ったほうがいい」
そういうもの? ……うーん、このまま3三角成だとキツイのか。
5五角とは違って、馬ができてしまう。
2分が経過したところで、風切先輩はスマホを取り出した。
「……っと、俺は戻るぜ。そろそろ終わりそうだ」
どうやら、和室のほうから合図があったらしい。
風切先輩は人混みをかきわけ、そのまま部屋を出て行った。
私は愛智くんに、
「どう、なにか手がありそう?」
とたずねた。
「同玉、9九角に7九玉と引いて耐えるしか、ないんじゃないですかね」
だとすれば、8八金以下で、成桂抜きは確定。
志邨さんは3分考えて、同玉とした。
即座に9九角が打たれる。
ここで初めて気づいたギャラリーもいた。ちらちらと視線が飛び交う。
7九玉、8八金、6九玉、7八金、5九玉、3三角成。
愛智くんは、
「いやあ、キツイな、これは……」
とつぶやいた。
敗勢ってわけじゃない。後手玉もまだ危ない。
逆転の芽も、なくはないと思う。
ピッ
志邨さん、1分将棋に。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
3一成香──これはなに?
意図がつかめないまま、生河くんも1分将棋に。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
生河くんは、同玉とすなおに取った。
志邨さんは2三歩成。
なるほど、王手龍の筋を狙ってるのか。
具体的には、同馬に3二歩だと思う。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
いったん王手。
志邨さんは5七歩で蓋をした。
これで王手龍の筋もふさがれた。角を打つスペースがない。
生河くんは2三馬。
4三桂、3二玉、3三歩、同馬、4四銀。
愛智くんは、
「うまく繋げますね。代償も大きいですが」
とコメントした。
私は、
「同馬で切ったあと、寄りがありそう」
と予想した。
「ええ、6九銀で詰めろです」
たしかに、5八銀打からばらして詰みだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
4四同馬、同歩、6九銀。
志邨さんは、ハーッという感じで肩を落とした。
「負けました」
「ありがとうございました」
周囲がざわつく。
感想戦は、なかなか始まらなかった。
志邨さんは、なんというか、結末に納得していない感じ。
「……3三桂成が悪手だった」
志邨さんの第一声。
生河くんは、
「7七銀右だったかもね」
と答えた。
ただなあ……3三桂成は、自然な手だったと思う。
8八角~9九角は見えにくかった。
現に、ギャラリーのほとんどは見えてなかったんじゃないかしら。
いずれにせよ、あのあと先手に勝ち目はなかった。
もうちょっと粘れるかと思ったけど、全然。
志邨さんは、7七銀右の局面を検討した。
【検討図】
生河くんは、黙って3五角と打った。
そして、
「2四の歩は取れないけど、一応」
と付け加えた。
志邨さんは10秒ほど考えて、
「5七歩、7五龍、3三桂成、5一玉、5四桂かな」
と、読み進めた。
「僕としては、これで互角」
「……だね」
ほんとに急転直下だったっぽい。
そのあとの検討でも、明確に先手良しまたは後手良しの結論は出なかった。
志邨さんはタメ息をついて、
「決勝に好局なし、か……」
とつぶやいた。
生河くんは手を止めて、
「え、いい勝負だったと思うよ」
と返した。
「ま、ノア視点では好局か……好手だったし」
駒がかたづけられて、私たちは廊下に集合した。
風切先輩が前に出る。
「えー、それでは表彰式を始めます。生河ノアさん」
「はい」
生河くんが前に出た。
風切先輩は、新田くんが持っている箱から、賞状を取り出した。
「2017年度、関東大学将棋連合、新人戦優勝、慶長大学1年、生河ノア殿。あなたは頭書の成績をおさめられましたので、ここに表彰します」
「ありがとうございます」
拍手ぅ。
広報の春日さんが、手をあげた。
「コメントをひとこと」
生河くんはにっこり笑って、
「すごくうれしいです」
と答えた。
「将棋の内容は、いかがでしたか?」
「え……そうですね……なんかむずかしかったです」
あんまりコメント慣れしてなさそう。
志邨さんと交代。
「2017年度、関東大学将棋連合、新人戦準優勝、晩稲田大学1年、志邨つばめ殿。あなたは頭書の成績をおさめられましたので、ここに表彰します」
「ありがとうございます」
ふたたび拍手。
春日さんは、またコメントを求めた。
志邨さんは、ちょっとだらけたような立ち方で、頭をかきながら、
「最後一手ばったりに近かったんですけど、まあ楽しい将棋だったと思います」
と答えた。
最後に、橋爪くん。
「2017年度、関東大学将棋連合、新人戦3位、修身大学1年、橋爪大悟殿。あなたは頭書の成績をおさめられましたので、ここに表彰します」
「ありがとうございまーす」
拍手のあと、インタビュー。
「不満のある対局も多かったんですけど、まあまあ納得のいく結果だったと思います。生河戦は終盤、うまく押し切られたなと感じたんで、これからも精進します」
一番それっぽいコメントだった。
風切先輩は、ひとつ咳ばらいをして、こちらを見た。
松平は、あわててカンペボードをめくった。
風切先輩は一瞬「ん?」となったあと、すまし顔になった。
「ハロウィンの日、タコがイカに『メリークリスマス』と言った。なぜだと思う?」
……………………
……………………
…………………
………………
なにを言い出したんですか?
困惑する学生たちをよそに、風切先輩は腕組みをして笑った。
「タコは腕が8本だからだ」
え、なにこれは?
私はカンペボードを見た。
ボケて
ああッ! 練習で書いたやつッ!
場所:2017年度 関東大学将棋連合新人戦 決勝
先手:志邨 つばめ
後手:生河 ノア
戦型:矢倉力戦形
▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲7七銀 △3二銀
▲5六歩 △3三銀 ▲2六歩 △6二銀 ▲7九角 △3二金
▲4八銀 △5四歩 ▲3六歩 △7四歩 ▲7八金 △4一玉
▲2五歩 △1四歩 ▲5八金 △3一角 ▲6九玉 △5二金
▲4六角 △6四角 ▲3七桂 △8五歩 ▲9六歩 △3一玉
▲6六歩 △4四歩 ▲7九玉 △2二玉 ▲5七銀 △7三桂
▲6八銀右 △4六角 ▲同 歩 △6四歩 ▲4五歩 △6五歩
▲4四歩 △6六歩 ▲4八飛 △2六角 ▲6四角 △8一飛
▲6六銀 △4四角 ▲6七歩 △2六角 ▲2八飛 △5三角
▲同角成 △同 銀 ▲4七金 △6二金 ▲1六歩 △4一飛
▲4五歩 △8一飛 ▲4六角 △9四歩 ▲2四歩 △同 歩
▲5五歩 △同 歩 ▲3五歩 △同 歩 ▲同 角 △3四歩
▲4六角 △9五歩 ▲2五歩 △8六歩 ▲同 歩 △8八歩
▲同 金 △9六歩 ▲2四歩 △2七歩 ▲4八飛 △8五歩
▲7八金 △8六歩 ▲8八歩 △9七歩成 ▲同 香 △9六歩
▲同 香 △同 香 ▲5四歩 △同 銀 ▲5五銀 △同 銀
▲同 角 △9八香成 ▲2五桂 △8八成香 ▲同 金 △8七歩成
▲2三香 △3一玉 ▲8七金 △同飛成 ▲2一香成 △4一玉
▲7八銀 △8五龍 ▲3三角成 △同 金 ▲8六歩 △同 龍
▲8七歩 △7六龍 ▲3三桂成 △8八角 ▲同 玉 △9九角
▲7九玉 △8八金 ▲6九玉 △7八金 ▲5九玉 △3三角成
▲3一成香 △同 玉 ▲2三歩成 △5三香 ▲5七歩 △2三馬
▲4三桂 △3二玉 ▲3三歩 △同 馬 ▲4四銀 △同 馬
▲同 歩 △6九銀
まで140手で生河の勝ち