326手目 静と動
こ、これは──舐めプとまでは言えないけど、挑発に近い。
後手は銀を上がっていないからだ。3七角といきなり打つ手がある。
志邨さんは前髪を左から右に流して、持ち駒へ手を伸ばした。
3七角。
沖田くんは7三角と打ち返した。
中禅寺くんの感想も聞きたいけど、この部屋で会話はしにくい。
私は黙って、成り行きを見守ることにした。
7八金、9四歩、9六歩、6二銀、4六歩、1四歩。
角交換はお手伝いになってしまう。このままにらみ合いになりそう。
6八玉、1五歩、2五歩、5二金、5八金、3二金。
後手はだいぶ変わったかたちになった。
先手が端を受けなかったことと、角筋を止めたことも一因だ。
局面は変則。でも、対局者の表情に変化はなかった。
淡々と駒組みが続く。
6六歩、6四歩、2七銀、4四銀、5六歩。
先手は角換わり模様をやめて、5筋も突いた。
これは合理的だ。角交換に5筋を突くな、という格言は、角の打ち込みを警戒したものだ。ふたりとも、すでに角を手放してしまっていた。
沖田くんは1分ほど考えて、8四角と上がった。
志邨さんは、1筋の端に手をかけた。
「1六歩」
仕掛けたッ!
立会人の私も、さすがに背筋が伸びた。
沖田くんは、この急襲を予期していたかどうか。
1筋の伸びすぎを狙うのは、もとからあったと思う。
このタイミングがベストなのかどうか、よね。
後手は居玉だけど、先手も6八玉で安定していない。
沖田くんは「へえ」とつぶやいて、口もとに手を当てた。
それから腕組みをして、目を閉じた。
長考かな。
志邨さんはちょっと姿勢が悪く、左ひざに若干よりかかるようなかっこう。
しかも細かい動作が多い。手首をだらんとさせたり、首をかしげたり。
静と動の、対照的な対局者だった。
とりあえず同歩はしにくいと思う。同香以下で、先手の言い分が通ってしまう。
手渡しするなら、7三桂かしら。
「……9五歩」
な・ん・と、端攻めに端攻めで返した。
これは珍しいのでは。
もちろん、それだけで疑問手とは言えない。
問題は棋理だ。どちらに理があるのか。
私も観戦者視点で考えてみた。ようするに、9五同歩、同香、9七歩と、先手の1五歩のどっちが痛そうか、って話よね。
……………………
……………………
…………………
………………後手の攻めが、しばらく続きそう?
9五同歩、同香、9七歩、7三桂、1五歩に6五歩がある。
【参考図】
同歩は弾みがつくから、先手は反発する必要がある。
その反発がどれくらい厳しいのか、という話。
弱い反発なら後手は手抜いて、6六歩と突っ込んでくるはず。
志邨さんは動作をやめて、じっと盤をにらんでいた。
そして、9五同歩と取った。
同香、9七歩、7三桂、1五歩、6五歩。
直感的に、強い反発がきそう。志邨さんから攻めのオーラが漂う。
パシリ
一番強く反発した。
ほかには2四歩とか4八角もあったと思う。
4八角が一番複雑だったかな。たぶん6六歩、同銀のあと、後手がすこし考えないといけない局面になっていた。そこで居玉の解消をする、というのが第一感。
とはいえ、本譜はそうならなかったのだから、もう考えてもしょうがない。
沖田くんは同香。
以下、同香、9五歩、7五歩。
志邨さんは、さらに反発した。
これは同角に9五香と助ける手だ。
左側から盛り上がるつもり? 6八玉を逆用するのかもしれない。
ただ安全とは言い切れなかった。後手は6筋に手をかけている。
沖田くんはタメ息をつき、
「激しいな……」
と言ってから、同角と取った。
9五香、6六歩。
「5九玉」
志邨さんは、いきなり引いた。
沖田くんは、
「4八角かと思ったけどね」
とつぶやいた。
志邨さんは黙って目を閉じて、前髪をなおした。
私も4八角かな、と思った。
3七の角が一番使いやすくなる手順だ。
いずれにせよ、沖田くんに困ったような気配もなかった。
30秒ほど考えて、4二玉。冷静。
志邨さんはここで6三歩と打った。
同金、4九玉、3三桂、4八角、1七歩。
うーん、難解。
手の候補が多いだけでなく、方針そのものが複数ある。
1筋をなんとかしたいなら、同香か1四歩。
攻めるなら3五歩。
受けるなら6六銀。ただこれは攻めの意味も若干ある。
私好みなのは、3五歩。1筋はもう放置したい。6六銀は、8四角と冷静に撤退されたときが悩ましい。やるなら9七香と重ねて、次に9三香成を狙う。後手は6五歩と打って反撃するだろう。
パシリ
6六銀。
以下、8四角、9六香で、香車の位置が予想と異なった。
沖田くんは、スーッと8三飛。
これは腹をくくった手だ。
9三香成、同角、同香成、同飛の2枚換えを許容している。
志邨さんは、
「9四歩は9二歩、9三歩成でいっしょか……じゃあ9三香成」
と受けて立った。
同角、同香成、同飛、9七歩、9一飛。
まだどっちがいいとも言えない……かな。
先手は6筋と7筋が剥き出しになっているから、香車の反撃が厳しい。
立て続けに攻めないといけないんじゃないかしら。
と思ったけど、志邨さんはここで手をもどした。1七香。
沖田くんは6四香で、予想通りの反撃。
8三角、6六香。
そう、これが痛いのよね。
一見、同角でよさそう。だけどそれは、6四香のおかわりがある。
その手順は、わずかに後手持ちになる可能性があった。
すくなくとも、先手がおもしろい展開じゃない。
つまり、6六香は銀香交換にならず、拠点を残すことができるのだ。
沖田くん、8三飛からの2枚換えの構想が、秀逸。
ところが、志邨さんはこれに対して、明確な回答を用意していた。
「6四歩」
志邨さんはサッとチェスクロをたたいた。
この手……意味は分かる。
同金に7二角成が、銀取りになるという寸法だ。
でも7一銀打で?
6一馬と入ろうが8三馬と逃げようが、手番は後手に回る。
沖田くんは、初めてとまどいを見せた。
罠があるかもしれないと、警戒しているのだろう。
残り時間は、先手も後手も12分。
今後の寄せも含めて考えたいところ。
「……」
「……」
沖田くんは、やや大きく息をついた。
指すかな、と思ったけど、さらに時間を投入した。
局面が苦しいの? そうは見えない。
対局者の呼吸が、立会人からは判然としなくなってきた。
けっきょく、沖田くんは10分を切るまで考えて、同金と取った。
7二角成、7一銀打、8三馬、6九香成。
香車は生き残った。
「7二歩」
狙いの反撃? だけどこれは──
「8一香」
そう、これで消せる。
とはいえ、志邨さんの見落としというわけでもなく、すぐに7一歩成と成った。
8三香、7二と、6三金。
6三金は7三とを防いだ手だ。
6二となら、手順に同金で固められる。
やっぱり後手がわずかに、わずかにいいような気がする。
志邨さんは1四歩。挟撃を目指した。
2五桂、1六香、9二飛、6二と、同金、2六銀。
攻め駒を攻める。
2四歩、1三歩成。
……………………
……………………
…………………
………………ん?
私はふと気づいた──後手に手がない?
6九の成香で、片側は封鎖している。でも、反対側に手がかからない。
1七歩で攻める?
同桂、1三香、同香成と吊り上げて、1六歩とか。
がんばれば通ると思う。私に見える順だから、沖田くんにも見えているはず。だとすれば、あとは沖田くんの棋風と性格の問題だ。1七歩は、失敗すれば1~3筋が崩壊して、取り返しがつかなくなる。そのリスクを許容するかどうか。
「……」
沖田くんは頬に指をそえ、じっと瞑想していた。
重苦しい時間が流れる。
勝負の局面だと、雰囲気が物語っていた。
とうとう5分を切ったところで、沖田くんはスッと目を開けた。
「下駄を預けるか……9一飛」