32手目 練習試合
「……6五歩」
私は、6筋を自分から開けた。
橘さんは目を細めて、
「取りましたか……それくらいしか、ないのかもしれませんが……」
と呟いた。実際、これしかなかったと思う。
ただ、読みは入れてあるし、まだ諦めたわけじゃないわよ。
橘さんは、すぐに8八角成と成った。罠だと警戒している様子はない。
「同玉」
「7五歩です」
私は、即座に6六角と切り返す。
1一角成と7五角の両取り。香車と歩だから冴えないけど、これ以外は6筋を支えられないと判断した。相手の本線は、香車取りを阻止して、5五歩だと思う。以下、7五角と歩を払って、6五銀、6六歩。問題は、そこで7四銀と引かれたときが問題だ。その対応を考えるのに時間を使ったと言っても、過言じゃない。
橘さんは、私の工夫にだんだんと気づき始めたのか、
「意外と難しいですか……」
とつぶやき、お茶を飲んで、ひと呼吸おいた。そして、5五歩と置いた。
7五角、6五銀。
「6六歩」
「次の手で、どうするのですか? 7四銀」
8四角、7二飛、5五歩。
私は、ちょっとずつ時間を使う。成立しているはずなんだけど、自信がない。
橘さんは持ち駒の歩に手を伸ばして、動きを止めた。
「……」
橘さんは、歩から手をはなし、両膝のうえで手をそろえた。盤面をにらむ。
気づいた? 気づいたっぽい?
「そうか……歩切れ……」
間違いない。私の狙いに気づいた。
ここで8三歩とされると、角が死んでいる。7三角成と切るか、7五角、同銀、同歩の角銀交換に持ち込むかの二択。私は、後者で先手がそこそこ指せるという読み。7五角、同銀、同歩のとき、後手は歩切れになっているのだ。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
7七歩とは叩けないし、1筋を詰め切っていないから、調達することもできない。
ムリヤリ8五桂と跳ねてきたら、8六歩から桂馬を取り切る順すらありそう。
もちろん、先手が有利になっているわけじゃないから、橘さんが8三歩と指してくる可能性もゼロではない。そうなったら、さっきの読みで、角と銀桂の2枚換えになるかどうかが焦点だ。私の腕が試される。
残り時間は、私が3分、橘さんも3分で並んだ。
「6二金」
うわぁ……一番イヤな手で返してきた。
次に8二飛と寄って、歩を温存したまま角銀交換に持ち込もうという手だ。
動かざるをえなくなった。私は2四歩と攻めに出る。
同歩、2五歩、同歩、2四歩。
拠点づくりに成功。橘さんも押されていると感じたらしく、小刻みに時間を使った。
「ここで8二飛……いや、それは銀を渡して不利……」
2筋を詰められてるから、金駒は渡しにくいはず。
私はさっきよりも背筋が伸びてきた。逆に、橘さんのオーラが萎縮し始める。
ピッ
15分を使い切った。時間が先になくなったのは、橘さん。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
端攻め……私は、とりあえず2五飛と浮いて、2二歩を強要した。
そのあと……ん? 手がない? ……自主的に7五角はやり過ぎな気がする。
私は30秒ほど考えて、9五歩と端を取り返した。
9七歩、9四歩(9七同香は8五桂)、3三桂、2八飛、8二飛。
やっと飛車を回ってくれた……けど、ここで7五角は、同銀、同歩、8五桂で、次に7七歩がある。歩切れになっていない。それに、9四香を絡める手順もありそう。
ピッ
私も30秒将棋に。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「9三角成ッ!」
端攻めに便乗する。これなら、端のプレッシャーを緩和できる。
「捨て身で来ましたか。同香です」
同歩成、8四飛。
この次が難しい。2七香と据えたいけど、ここから8五桂と先跳ねされると困る。
時間が切迫するなか、私は必死に考えた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「先受けッ! 7七桂ッ!」
跳ねられる前に跳ねる。
「それは受けになっていません。8五桂」
「これを見落としてませんかッ!?」
橘さんは、かるく呻いた。
「くッ……受けになっていましたか」
8五桂、2七香、7七桂成、同金寄、8五桂の打ち直しを読んでいたんでしょうけど、これなら8五桂と打ち直せない。受かっている。
「しかし、こちらの有利には変わりません。7七桂成」
同金寄、8五歩。
た、たしかに攻め自体は続いてそう。
私は29秒まで考えて、5四桂と置いた。
「8六歩」
指し手が速い。そっちも29秒考えてくださいな。
私は前傾姿勢になって、6二桂成と4二桂成を比較した。6二桂成なら純粋に駒得。でも、王手にならないから、9六角と打たれて崩壊する可能性が高い。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
ぎりぎりのところで4二桂成として、私はチェスクロを押した。王手だ。
「同玉」
「9五銀」
飛車に当てつつ受ける。8七歩成から突っ込むのは、さすがにムリでしょ。
かなりトリッキーな受けで、橘さんも、にわかに姿勢を崩した。
「さすがに寄っているのでは……?」
寄せれるものなら、寄せてみなさい。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「9六桂ッ!」
空いたスペースに桂馬を打ってきた。王手……だけど、9七玉でもよくない?
9七玉、8八角、同金(9六玉は8五銀で詰み、9八玉は7七角成が詰めろ)、同桂成に8四銀と取れば、8七金でも詰まないから……上部を押さえられる? でも、それなら8八の成桂を取って良しよね。
とはいえ、怖いほうに逃げるメリットもないと言えばないし……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「7九玉ッ!」
私は広いほうに逃げた。
すかさず3九角が打ち込まれる。
「飛車取り……?」
飛車は渡せないけど、3八飛で死んでるわよね?
あ、もしかして5七角成と切ってから、8四の飛車を逃げるつもり?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
私は3八飛と寄った。
「かかりましたね……4七角です」
……………………
……………………
…………………
………………
「み、右が広くないッ!?」
4七同銀は5七角成、3九飛は5八角成で挟撃形になる。
私は慌てて、脱出経路の構築を模索した。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「8四銀ッ!」
飛車を取って、上部脱出。これなら、さっき9七玉のほうが良かったかも。
とにかく時間がない。橘さんは即座に3八角成で、時間攻めしてきた。
8六金、9八歩成、9六金――開拓、開拓。
「さすがにそれは無理筋です。8九飛」
うッ……王手された。6八玉と逃げる。
橘さんは、その細いひとさし指で、と金をスッと寄せた。
……………………
……………………
…………………
………………ムリ
「負けました」
「ありがとうございました」
いやあ……私は天井を仰いでから、お茶をひと口飲んだ。
急転直下に寄ってしまった。右側が一気に狭くなるなんて、完全に誤算。
「最後、9六桂と打たれたときに、9七玉でしたか?」
「若干気にしていましたが、それは8八角でしょう」
私たちは、盤面をもどした。
【検討図】
私たちは駒を動かさずに、読みを入れた。
「はて、わたくしのほうがいいかと思いましたが……」
橘さんは、簡単ではないことを認めた。
「8四銀に対して、後手がどうするかですよね。8七金が有力だと思います」
「8七金、9六玉、7七金……そこで9五玉のとき、入玉は阻止できますか?」
橘さんの問いに、私は考え込む。
「7七金のまえに、なにか工夫できませんか?」
「例えば……9四歩で詰めろをかけて、同と、7七金が再度詰めろですか」
【検討図】
「8六玉としても8七成桂以下で詰みますし、9五飛の受けは7八角、8六玉、8七角成で詰みですから、もしかすると必至かもしれません」
ふむふむ、どうやら、9七玉も寄っていたようだ。
「30秒将棋ですから、こっちに賭ける手もあったかな、と」
橘さんは、自分の棋力を疑われたみたいで、若干ムッとした表情を浮かべた。
おっとっと、先輩の機嫌を損ねちゃった。
とはいえ、そこは大学生。すぐに切り替えてくれた。
「裏見さんのほうで、なにかご質問は?」
「……対局中は気づかなかったんですが、4七角に1八飛ってありました?」
【検討図】
橘さんは、「ありません」と即答した。
「2六桂と打って、8四銀、1八桂成、8六金、9八歩成以下、本譜と同じです」
あ、そっか、桂馬で露骨に取っちゃえばいいのか。
「終盤は、こっちが全然ダメってことですね。どこがおかしかったですか?」
「角でガードする構想にムリがあったのでは?」
うーん、そこがダメなら、中盤で悪いことになってしまう。
「8二飛に7五角、同銀、同歩のほうが勝ってました?」
私たちは、さらに局面をもどした。
【検討図】
「8五桂と仮定して、裏見さんの手は?」
「そうですね……2三銀と打ち込むのが、結構キツいと思います」
同歩、同歩成、同金、同飛成のとき、持ち駒が歩銀角。受けるなら2一銀しかない。
だけど、橘さんは、私の読み筋に小首をかしげた。
「2一銀で受かっているように見えます。そこから、どうしますか?」
「んー……3四龍とか、どうですか?」
「2五角で龍銀両取りですが?」
ぐッ、失言だった。私は考え直したけど、いい手が思い浮かばなかった。
これはこれで、ダメなのかも。
私はお茶を飲み干して、息をついた。洗い場から、水の音がする。
「宗像さん、手伝いましょうか?」
橘さんは、そう声をかけた。宗像さんは、もう時間外だからいいと答えた。
「では、迷惑がかからないうちに、わたくしたちも解散致しますか」
「そうですね……ありがとうございました」
「ありがとうございました」
私たちは挨拶をして、駒の音をあとにした。
ふたりで駐輪場へ向かう。橘さんは、古めかしいママチャリを押した。
「橘さん、前回は自転車じゃなかったですよね?」
「あのときは、ぼっちゃまが自転車を使う番だったので」
2人で1台かい。どうやら経済事情は、相当切迫しているらしい。
「ってことは、歩いて来れる距離?」
「はい、歩こうと思えば……しかし、夜道は危ないですから」
うーん、どうかしら。このへんって、そんなに治安は悪そうじゃないし、むしろ、ママチャリに乗ってるメイドさんとすれ違うほうが怖いと思う。特に夜中は。
「晩稲田のキャンパスは、この近くなんですか?」
「いいえ、まったく。高幡不動にぼっちゃまの知り合いがいて、家賃をタダにしてもらっているのです。晩稲田のキャンパスがある場所は、どこも家賃が高いので」
そういうことか。なんでわざわざ電車通学しているのか謎だったけど、納得。
車道に出たところで、お別れ。それぞれ反対方向になる。
「それでは、お気をつけて」
「橘先輩も、気をつけてください」
自転車を漕ぐ。春の夜風が心地いい。でも、気分は冴えなかった。
私の将棋、もっと鍛えないとダメかなあ……1回戦負けしちゃいそう。
場所:将棋サロン『駒の音』
先手:裏見 香子
後手:橘 可憐
戦型:矢倉(後手阿久津流急戦)
▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲6六歩 △6二銀
▲5六歩 △5四歩 ▲4八銀 △4二銀 ▲5八金右 △3二金
▲6七金 △4一玉 ▲7七銀 △5三銀右 ▲2六歩 △5五歩
▲同 歩 △同 角 ▲2五歩 △5四銀 ▲2四歩 △同 歩
▲同 飛 △3一玉 ▲2八飛 △4四角 ▲4六歩 △5二飛
▲4七銀 △2三歩 ▲6八玉 △6四歩 ▲5六歩 △7四歩
▲7九玉 △7三桂 ▲7八金 △1四歩 ▲9六歩 △9四歩
▲6八銀 △6五歩 ▲5七銀 △6二飛 ▲5八銀 △5一金
▲6五歩 △8八角成 ▲同 玉 △7五歩 ▲6六角 △5五歩
▲7五角 △6五銀 ▲6六歩 △7四銀 ▲8四角 △7二飛
▲5五歩 △6二金 ▲2四歩 △同 歩 ▲2五歩 △同 歩
▲2四歩 △9五歩 ▲2五飛 △2二歩 ▲9五歩 △9七歩
▲9四歩 △3三桂 ▲2八飛 △8二飛 ▲9三角成 △同 香
▲同歩成 △8四飛 ▲7七桂 △8五桂 ▲8六歩 △7七桂成
▲同金寄 △8五歩 ▲5四桂 △8六歩 ▲4二桂成 △同 玉
▲9五銀 △9六桂 ▲7九玉 △3九角 ▲3八飛 △4七角
▲8四銀 △3八角成 ▲8六金 △9八歩成 ▲9六金 △8九飛
▲6八玉 △8八と
まで104手で橘の勝ち