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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第7章 アルバイト(2016年4月25日月曜)
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31手目 初めてのアルバイト

 ピッ ピッ ピッ ピーッ! パシリ!

 

 にぎやかな道場に、駒音が響きわたる。

 ここは、高幡不動たかはたふどうにある将棋サロン『こま』。

 私はそこの女性スタッフとして、人生初めてのお勤めにいそしんでいた。

裏見うらみさん、お茶はまだありますか?」

 受付の宗像むなかたさんから、そうたずねられた。私は薬缶やかんをのぞきこんだ。

「空っぽになりそうです」

「沸かしておいてください」

 宗像さんは、さっきからてきぱきと手合いを決めていた。道場に来る面子は、年齢も性別もバラバラ。小学生っぽい子もいるし、定年退職したおじいさんもいる。宗像さんは、それぞれの棋力がだいたい頭に入っているらしく、スムーズに手合いを決めていった。

 私は薬缶に水を入れて、煮出し用の麦茶パックを放り込む。

 そのとなりで、たちばなさんが使用済みの湯のみを洗っていた。

「さすがに、初日からドタキャンはしませんでしたか」

 するわけないでしょ。なんで初日からサボらなきゃいけないの。

 っていうか、メイド服で働くのやめて欲しい。ひとりだけ浮いている。

 私はお湯が沸くのを待ちながら、しばらく道場を眺めた。思っていたよりも、盛況のようだ。外の日射しは弱くなって、夕方の気配が近づいてきた。

「ひとつ、お伺いしてもよろしいですか?」

 橘さんは、湯のみを拭きながら、じろりと私のほうを見た。

「なんですか?」

 住所、メアド、MINEならお断りよ。

「聖ソフィアの背後にだれがいるか、都ノみやこのは情報を掴めましたか?」

 予想外の質問で、私は一瞬、言葉に詰まった。

「……背後に、というのは?」

「とぼけなくても、結構です。聖ソフィアの将棋部を復活させた黒幕がいるのでしょう」

 また情報漏洩……いや、晩稲田おくてだも、一部の不穏な動きに気づいたのかしら。

 私は、カマをかけてみることにした。

「どうして、そう思うんですか?」

「ぼっちゃまが、そうおっしゃっていました」

 はぐらかされたような、正直に答えてもらえたような――橘さんの返事の意味を、私は解釈しかねた。彼女は、棚に湯のみをもどしながら、

「都ノは、どこまで掴んでいるのですか?」

 と、同じ質問をとばした。

「……なにも」

 私がそう答えると、橘さんは口の端に笑みをこぼした。

「おたがい、そういうことにしておきますか」

「橘さん、裏見さん、手合いがつかないので、どちらか補助をお願いします」

 宗像さんの指示で、橘さんは手合いに回った。サラリーマンのひとと指すことに。相手の男性は、橘さんの格好に、目を白黒させていた。でも、うれしそう。

 これだから男性は、まったく――と、そんなこんなで、私もお茶を淹れたりお客さんの手合いに回ったりで、夜の9時までてんやわんや。慣れない仕事って、たいへん。

 最後のお客さん――中年の、ベレー帽を被った小柄なおじさんだった――を負かして、私はようやくひと息ついた。おじさんは帽子をなおしながら、

「いやあ、参ったな。こんど来た姉ちゃんはつえぇや」

 と言って、席を立ち、宗像さんに挨拶してから出て行った。

「ありがとうございました。またお越しください……ふぅ」

 宗像さんも疲れているらしく、大きく背伸びをした。

「おふたりとも、お疲れさまでした。初日のわりには、いい仕事ぶりでしたね」

 いえいえ、それほどでも。っていうか、橘さんにかなり手伝ってもらった。メイドさんをしているだけあって、私よりもずっと仕事上手だ。

「私は会計のチェックをします。おふたりは自由にしてください。帰ってもいいですし、将棋を指してもいいですし、パソコンを使ってもいいですよ」

 なんだか、曖昧な解散になった。パソコンを使っていいというのは、備え付けの将棋ソフトを使ってもいいという意味らしい。インターネットに繋がっていないから、それ以外にすることがないのだ。さっきも、中学生のグループが、詰みのチェックに使っていた。自分で読まなきゃダメよ。

 私が帰る支度をしていると、橘さんは、

「裏見さん、一局指しませんか?」

 と誘ってきた。

「今からですか? もう9時過ぎてますよ?」

「ふふふ、高校生気分が抜けていませんね。9時など、大学生にはよいの口です」

 そういうこと言ってるから、三宅みやけ先輩みたいに、朝4時に寝て昼1時に起きる生活になるんでしょ。大会の日は、いっつも眠そうにしてるもの。日本の大学生よ、もっとメリハリのある生活を送りなさい。

 とはいえ、大会が近いのに練習をしないというのも、おかしな話だった。橘さんが相手なら、願ったり叶ったりだ。大谷おおたにさんばかりと指していたら、癖がついてしまう。

「分かりました。15分30秒で、いいですか?」

「もちろん」

 宗像さんが帳簿をつけている横で、私たちは駒を並べた。

 チェスクロを15分30秒にセットする。慣れたものだ。

「振り駒は、橘先輩がどうぞ」

 橘さんは譲り返しもせず、すぐに振り駒をした――表が1枚。私の先手。

「チェスクロは、右側で」

「了解です」

 チェスクロの位置をなおして、私たちは一礼した。

「よろしくお願いします」

 橘さんがボタンを押して、スタート。とりあえず、7六歩と突いた。

 相手が純粋居飛車党なのは分かっているから、戦法は限定しやすい。

「8四歩」

 私に選択権。10秒ほど考えて、6八銀とあがる。先週のリベンジ。

「負けず嫌いですね……将棋指しは、そうでなくては。3四歩」

 6六歩、6二銀、5六歩、5四歩、4八銀、4二銀、5八金右、3二金、6七金。


挿絵(By みてみん)


 ここで、橘さんの手がとまった。

「早囲い……」

 同じ職場だし、こんなこともあろうかと対策しておいたのよ。

 橘さん、覚悟。

「……4一玉」

 私は7七銀として、王様の通路をつくった。橘さんは、5三銀右とあがる。

 これは不穏。矢倉急戦っぽい。

「2六歩」

 私も攻めの準備をする。橘さんは、スッと5筋の歩に指を乗せた。

「5五歩」


挿絵(By みてみん)


 阿久津あくつ流急戦。早囲いの時点で、この流れは覚悟していた。

 ただ、7四歩を突いてないし、本来の阿久津流よりも急いでいる感じがある。

 私は30秒ほど考えて、定跡を思い出し、5五同歩とした。

 同角、2五歩、5四銀。

「一方的には攻めさせませんよ。2四歩」

 同歩、同飛に、橘さんは3一玉とした。かなり頑張ったかたちだ。

 将棋は、ほんとに性格が出る。

「……2八飛」

「4四角」


挿絵(By みてみん)


 いやあ……これは、頑張り過ぎじゃない? バランスが悪いと思うんだけど。

 例えば、4六歩と突くくらいで、結構なプレッシャーになってないかしら。

 私の考慮中に、コトリと湯のみが置かれた。

「ほほぉ、阿久津流ですか」

 顔をあげると、宗像さんが盤面を覗き込んでいた。ちょっと恥ずかしい。

 宗像さんはもうひとつ湯のみを置いて、そのまま観戦し始めた。

 私は大会のときと同じように切り替えて、局面に集中する。

「4六歩」

 やっぱり、ここが急所。プレシャーを掛けていく。

 橘さんは5二飛としたけど、私は強気に4七銀と上がった。

「さすがに、これ以上は意地を張れませんか……2三歩です」


挿絵(By みてみん)


 謝った。私は6八玉と上がる。

 早囲いは成功……しそう? 角の処遇が悩ましい。

 7八玉、7九角は見えるけど、4筋が詰まっているから、7九角も働いていない。

 9六歩〜9七角? ……いや、それは後手の桂馬に狙われかねない。

「6四歩」

 橘さんは、あくまでも攻めの姿勢を崩さなかった。

 これは次に、7四歩〜7三桂〜6五歩だ。

「5六歩」

「7四歩」

「……7九玉」


挿絵(By みてみん)


 私は、8段目で戦えないと判断した。当たりがキツ過ぎる。

 角はこのまま6五歩の備えに使って、おとなしく7八金とあがるスペースを作った。

「そちらも妥協しましたね。これで貸し借りなし……7三桂」

 7八金、1四歩。

 王様の懐を広げてきた。

 私のほうも広げるために、9六歩と突いた。これには、9四歩と突き返された。

 私は背筋を伸ばして、こめかみの髪を整える。

「先輩、一手指させようとしてますね」

「うふふ、どう取っていただいても構いません」

 どうみても、私のほうのかたちを崩したがっている。

 手待ちするなら……1六歩……しないなら……6八銀かしら。選択に悩む。

 宗像さんが淹れてくれたお茶を飲んで、リフレッシュ。

 残り時間は、私が10分、橘さんが11分。

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

「6八銀」

 私は、銀引きを選択した。

 橘さんは、すこし意外に思ったらしく、

「突き返しませんか……」

 とつぶやき、小考した。なぜ突き返さなかったのを残念がったのか、理由はよく分からなかった。でも、これは時間で有利。じっくりと考えてもらう。

「年上が気合い負けするのも、よくありません。攻めましょう。6五歩」


挿絵(By みてみん)


 うぅ……実際に攻められると、やっぱり怖いかたち。

 同歩は8八角成、同玉に6六歩が痛打。同金は3九角だし、7七金寄は8五桂。だから5七金と逃げるしかないけど、そこで6五銀と出られたら、攻めが成功してしまう。


挿絵(By みてみん)


 (※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)


 もちろん、そう進めるつもりはない。

 私は30秒ほど読みを確認して、5七銀と上がった。

 6二飛、5八銀。おたがいに6筋は取り合わない。

「残念ですが、こちらはまだ1手指せます。5一金」

 ん? なにか勘違いしてない? 私もまだ手待ちできるわよ。

 端に手を伸ばしかけて、私はアッとなった。

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

 は、端を突き返せないッ! 突き返したら、1五歩から十字飛車があるッ!


挿絵(By みてみん)


 (※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)


 現局面で成立してるかどうか分からないけど、絶対に6五歩と取り返せなくなる。

 私は端歩をもどして、「失礼しました」と一言入れた。

「その様子だと、最初に突き返さなかったのは、偶然のようですね」

 ぐぅ、図星。6八銀のところで1六歩としなかったのは、ただの偶然だ。

 あの段階で十字飛車の狙いがあるなんて、全然気づかなかった。

「さあ、指す手がありますか?」

 橘さんは、あからさまに挑発してくる。

 い、いきなり正念場になっちゃった。

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