31手目 初めてのアルバイト
ピッ ピッ ピッ ピーッ! パシリ!
にぎやかな道場に、駒音が響きわたる。
ここは、高幡不動にある将棋サロン『駒の音』。
私はそこの女性スタッフとして、人生初めてのお勤めにいそしんでいた。
「裏見さん、お茶はまだありますか?」
受付の宗像さんから、そうたずねられた。私は薬缶をのぞきこんだ。
「空っぽになりそうです」
「沸かしておいてください」
宗像さんは、さっきからてきぱきと手合いを決めていた。道場に来る面子は、年齢も性別もバラバラ。小学生っぽい子もいるし、定年退職したおじいさんもいる。宗像さんは、それぞれの棋力がだいたい頭に入っているらしく、スムーズに手合いを決めていった。
私は薬缶に水を入れて、煮出し用の麦茶パックを放り込む。
そのとなりで、橘さんが使用済みの湯のみを洗っていた。
「さすがに、初日からドタキャンはしませんでしたか」
するわけないでしょ。なんで初日からサボらなきゃいけないの。
っていうか、メイド服で働くのやめて欲しい。ひとりだけ浮いている。
私はお湯が沸くのを待ちながら、しばらく道場を眺めた。思っていたよりも、盛況のようだ。外の日射しは弱くなって、夕方の気配が近づいてきた。
「ひとつ、お伺いしてもよろしいですか?」
橘さんは、湯のみを拭きながら、じろりと私のほうを見た。
「なんですか?」
住所、メアド、MINEならお断りよ。
「聖ソフィアの背後にだれがいるか、都ノは情報を掴めましたか?」
予想外の質問で、私は一瞬、言葉に詰まった。
「……背後に、というのは?」
「とぼけなくても、結構です。聖ソフィアの将棋部を復活させた黒幕がいるのでしょう」
また情報漏洩……いや、晩稲田も、一部の不穏な動きに気づいたのかしら。
私は、カマをかけてみることにした。
「どうして、そう思うんですか?」
「ぼっちゃまが、そうおっしゃっていました」
はぐらかされたような、正直に答えてもらえたような――橘さんの返事の意味を、私は解釈しかねた。彼女は、棚に湯のみをもどしながら、
「都ノは、どこまで掴んでいるのですか?」
と、同じ質問をとばした。
「……なにも」
私がそう答えると、橘さんは口の端に笑みをこぼした。
「おたがい、そういうことにしておきますか」
「橘さん、裏見さん、手合いがつかないので、どちらか補助をお願いします」
宗像さんの指示で、橘さんは手合いに回った。サラリーマンのひとと指すことに。相手の男性は、橘さんの格好に、目を白黒させていた。でも、うれしそう。
これだから男性は、まったく――と、そんなこんなで、私もお茶を淹れたりお客さんの手合いに回ったりで、夜の9時までてんやわんや。慣れない仕事って、たいへん。
最後のお客さん――中年の、ベレー帽を被った小柄なおじさんだった――を負かして、私はようやくひと息ついた。おじさんは帽子をなおしながら、
「いやあ、参ったな。こんど来た姉ちゃんはつえぇや」
と言って、席を立ち、宗像さんに挨拶してから出て行った。
「ありがとうございました。またお越しください……ふぅ」
宗像さんも疲れているらしく、大きく背伸びをした。
「おふたりとも、お疲れさまでした。初日のわりには、いい仕事ぶりでしたね」
いえいえ、それほどでも。っていうか、橘さんにかなり手伝ってもらった。メイドさんをしているだけあって、私よりもずっと仕事上手だ。
「私は会計のチェックをします。おふたりは自由にしてください。帰ってもいいですし、将棋を指してもいいですし、パソコンを使ってもいいですよ」
なんだか、曖昧な解散になった。パソコンを使っていいというのは、備え付けの将棋ソフトを使ってもいいという意味らしい。インターネットに繋がっていないから、それ以外にすることがないのだ。さっきも、中学生のグループが、詰みのチェックに使っていた。自分で読まなきゃダメよ。
私が帰る支度をしていると、橘さんは、
「裏見さん、一局指しませんか?」
と誘ってきた。
「今からですか? もう9時過ぎてますよ?」
「ふふふ、高校生気分が抜けていませんね。9時など、大学生には宵の口です」
そういうこと言ってるから、三宅先輩みたいに、朝4時に寝て昼1時に起きる生活になるんでしょ。大会の日は、いっつも眠そうにしてるもの。日本の大学生よ、もっとメリハリのある生活を送りなさい。
とはいえ、大会が近いのに練習をしないというのも、おかしな話だった。橘さんが相手なら、願ったり叶ったりだ。大谷さんばかりと指していたら、癖がついてしまう。
「分かりました。15分30秒で、いいですか?」
「もちろん」
宗像さんが帳簿をつけている横で、私たちは駒を並べた。
チェスクロを15分30秒にセットする。慣れたものだ。
「振り駒は、橘先輩がどうぞ」
橘さんは譲り返しもせず、すぐに振り駒をした――表が1枚。私の先手。
「チェスクロは、右側で」
「了解です」
チェスクロの位置をなおして、私たちは一礼した。
「よろしくお願いします」
橘さんがボタンを押して、スタート。とりあえず、7六歩と突いた。
相手が純粋居飛車党なのは分かっているから、戦法は限定しやすい。
「8四歩」
私に選択権。10秒ほど考えて、6八銀とあがる。先週のリベンジ。
「負けず嫌いですね……将棋指しは、そうでなくては。3四歩」
6六歩、6二銀、5六歩、5四歩、4八銀、4二銀、5八金右、3二金、6七金。
ここで、橘さんの手がとまった。
「早囲い……」
同じ職場だし、こんなこともあろうかと対策しておいたのよ。
橘さん、覚悟。
「……4一玉」
私は7七銀として、王様の通路をつくった。橘さんは、5三銀右とあがる。
これは不穏。矢倉急戦っぽい。
「2六歩」
私も攻めの準備をする。橘さんは、スッと5筋の歩に指を乗せた。
「5五歩」
阿久津流急戦。早囲いの時点で、この流れは覚悟していた。
ただ、7四歩を突いてないし、本来の阿久津流よりも急いでいる感じがある。
私は30秒ほど考えて、定跡を思い出し、5五同歩とした。
同角、2五歩、5四銀。
「一方的には攻めさせませんよ。2四歩」
同歩、同飛に、橘さんは3一玉とした。かなり頑張ったかたちだ。
将棋は、ほんとに性格が出る。
「……2八飛」
「4四角」
いやあ……これは、頑張り過ぎじゃない? バランスが悪いと思うんだけど。
例えば、4六歩と突くくらいで、結構なプレッシャーになってないかしら。
私の考慮中に、コトリと湯のみが置かれた。
「ほほぉ、阿久津流ですか」
顔をあげると、宗像さんが盤面を覗き込んでいた。ちょっと恥ずかしい。
宗像さんはもうひとつ湯のみを置いて、そのまま観戦し始めた。
私は大会のときと同じように切り替えて、局面に集中する。
「4六歩」
やっぱり、ここが急所。プレシャーを掛けていく。
橘さんは5二飛としたけど、私は強気に4七銀と上がった。
「さすがに、これ以上は意地を張れませんか……2三歩です」
謝った。私は6八玉と上がる。
早囲いは成功……しそう? 角の処遇が悩ましい。
7八玉、7九角は見えるけど、4筋が詰まっているから、7九角も働いていない。
9六歩〜9七角? ……いや、それは後手の桂馬に狙われかねない。
「6四歩」
橘さんは、あくまでも攻めの姿勢を崩さなかった。
これは次に、7四歩〜7三桂〜6五歩だ。
「5六歩」
「7四歩」
「……7九玉」
私は、8段目で戦えないと判断した。当たりがキツ過ぎる。
角はこのまま6五歩の備えに使って、おとなしく7八金とあがるスペースを作った。
「そちらも妥協しましたね。これで貸し借りなし……7三桂」
7八金、1四歩。
王様の懐を広げてきた。
私のほうも広げるために、9六歩と突いた。これには、9四歩と突き返された。
私は背筋を伸ばして、こめかみの髪を整える。
「先輩、一手指させようとしてますね」
「うふふ、どう取っていただいても構いません」
どうみても、私のほうのかたちを崩したがっている。
手待ちするなら……1六歩……しないなら……6八銀かしら。選択に悩む。
宗像さんが淹れてくれたお茶を飲んで、リフレッシュ。
残り時間は、私が10分、橘さんが11分。
……………………
……………………
…………………
………………
「6八銀」
私は、銀引きを選択した。
橘さんは、すこし意外に思ったらしく、
「突き返しませんか……」
とつぶやき、小考した。なぜ突き返さなかったのを残念がったのか、理由はよく分からなかった。でも、これは時間で有利。じっくりと考えてもらう。
「年上が気合い負けするのも、よくありません。攻めましょう。6五歩」
うぅ……実際に攻められると、やっぱり怖いかたち。
同歩は8八角成、同玉に6六歩が痛打。同金は3九角だし、7七金寄は8五桂。だから5七金と逃げるしかないけど、そこで6五銀と出られたら、攻めが成功してしまう。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
もちろん、そう進めるつもりはない。
私は30秒ほど読みを確認して、5七銀と上がった。
6二飛、5八銀。おたがいに6筋は取り合わない。
「残念ですが、こちらはまだ1手指せます。5一金」
ん? なにか勘違いしてない? 私もまだ手待ちできるわよ。
端に手を伸ばしかけて、私はアッとなった。
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……………………
…………………
………………
は、端を突き返せないッ! 突き返したら、1五歩から十字飛車があるッ!
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
現局面で成立してるかどうか分からないけど、絶対に6五歩と取り返せなくなる。
私は端歩をもどして、「失礼しました」と一言入れた。
「その様子だと、最初に突き返さなかったのは、偶然のようですね」
ぐぅ、図星。6八銀のところで1六歩としなかったのは、ただの偶然だ。
あの段階で十字飛車の狙いがあるなんて、全然気づかなかった。
「さあ、指す手がありますか?」
橘さんは、あからさまに挑発してくる。
い、いきなり正念場になっちゃった。