30手目 トラウマ
午後3時8分――会場には、大勢の学生が集まっていた。
ベスト8を決める戦いだけあって、熱気がみなぎっている。
ただひとつの席をのぞいては。
「風切先輩は、まだ来ないのですか?」
ひんやりとした冷気すら漂わせる少年は、私にそうたずねた。
例の帝大の選手だった。1年生で、氷室くんと言うらしい。
私は会場の入り口を確認しながら、
「もうすぐ来ると思います」
と答えた。風切先輩、早く来てくださいな。
松平と三宅先輩が、わざわざ捜しに出ていた。幹事のほうも困ったようで、八千代先輩と入江先輩が、黒板のまえでひそひそ相談している。
「どうする? あと1分で開始時刻だが……」
「規約では、振り駒を済ませて、そのままチェスクロを進めることになっています」
八千代先輩の報告に、入江先輩もタメ息混じりにうなずいた。
「仕方がない……都ノの選手はいますか?」
「は、はい」
私は手を挙げた。
「開始時刻になったら、振り駒をおこない、すぐに開始してください」
「わ、分かりました」
不安になる私をよそに、入江会長は腕時計で時間を計り始めた。
松平ぁ、なにしてるのよ。まさか、校外で迷子になってるとか? ……いや、通行人に訊けば、大学の場所くらい教えてくれるわよね。地元民なら知ってるはずだし。
ってことは、まさか……事故?
「それでは、始めて……」
そのときだった。松平と三宅先輩が、入り口に現れた。
会場がざわついて、スッと静まり返った。
「松平、遅いわよ……って、風切先輩は?」
松平は、私の質問を無視した。三宅先輩は、氷室くん――対戦相手に歩み寄った。
「きみが氷室か?」
「……はい」
「風切から伝言だ……不戦敗にして欲しい」
え? 私は、自分の耳を疑った。
一方、氷室くんは顔色も変えずに、そっとくちびるを動かした。
「僕とは指さない……と?」
三宅先輩は、悔しそうにうなずいた。
「ああ……不戦敗、風切の負けだ」
意味が分からない――会場が、一気にざわついた。入江会長が声を上げる。
「静かにッ! ……それでは、始めてください」
チェスクロを押す音。駒の音。対局が始まった。
不戦勝になった氷室くんは、そのとき初めて、淋しげな表情を浮かべた。
「そうですか……ひさしぶりに指せると思ったのですが……残念です」
○
。
.
電車の警笛が、遠くで鳴った。
夕暮れどきのホームで、私は混乱した頭を整理しながら、電車を待っていた。
「拙僧、控え室にいたのですが、風切先輩は急病ですか?」
となりに立っていた大谷さんが、私にたずねた。
「……分かんない」
「病気以外に、辞退する理由はないと思うのですが」
それは、そうよ――ベスト16だもの。ここで不戦敗にする理由なんか、ない。対局のまえにも、辞退するような素振りはなかった。むしろ、対戦相手が最初から分かっているような雰囲気だったし……それとも、私の勘違いかしら?
首をひねったところで、小田急線の唐木田行きが滑り込んだ。
順番を守って乗車する。なるべく奥に詰めようとしたところで、声をかけられた。
「裏見くんじゃないか」
ふりかえると、継ぎはぎスーツの貴公子、朽木先輩が立っていた。
メイド服の橘さんも一緒だった。ふたりとも、目立つわね。
「風切くんたちと、一緒ではないのか?」
「いえ……先に帰るように言われました」
そう、あれも意味が分からなかった。女子だけ先に帰れだなんて。
部員同士でヒミツにするのは、よくないと思う。
電車が出発して、私はバランスを崩した。吊り革に掴まる。東京は、ほんとにひとが多いわね。もうちょっと空いて欲しい。疲れてるから座りたい。
「風切くんの件は、残念だったな……まあ、仕方がない」
そう残念……ん? 仕方がない? 私は、言葉遣いに引っかかった。
「仕方がないって、どういうことですか?」
私がたずねると、朽木先輩は、きょとんとした。
「……まさか、訊いていないのか?」
「不戦敗の理由ですか?」
「いや……3年前の件だ」
3年前? ……高校生のときってこと? その数字に、私は思い当たる節があった。
「もしかして、奨励会をやめた件ですか?」
朽木先輩は、おしゃべりが過ぎたと思ったのか、曖昧にうなずいた。そして、橘さんにも確認を取った。
「可憐は、裏見さんにあの話をしていないのか?」
「あれ以来、顔を会わせる機会がありませんでしたので……」
実は、あのアルバイト、まだ始まってないのよね。明日から出勤だ。
朽木先輩は、吊り革に掴まりながら、しばらく考え込んだ。
そして、顔をあげた。
「風切くんのプライバシーだが、公然の秘密のようなものだ……聞きたいか?」
そう言われたら、聞くしかないでしょう。私は、首を縦に振った。
「あれは、3年前のことだ……正確に言えば、風切くんが高校2年の冬だな。奨励会3級だった彼は、ある少年と将棋を指した。非公式戦だが、注目を浴びた対局だ。僕も、あの場に居合わせた。土御門くんと速水くんもいた」
「ある少年? ……もったいぶらないでください。それとも、匿名ですか?」
「氷室くんだよ」
「え……不戦勝した帝大の子ですか?」
朽木先輩は、車窓の外に顔を向けた。思い出にひたっているようなまなざしだった。
「あの対局は、今でも覚えている。矢倉の大熱戦で……最後は、氷室くんが勝った」
「奨励会3級に?」
朽木先輩は、すこしマジメな顔になって、私をたしなめた。
「高校の強豪は、奨励会員に引けをとらない。もちろん、3段リーグは別だが……奨励会3級になら、入ってもおかしくない……いや、むしろ順当だったとすら言える。氷室くんは、全国大会の優勝者だからな」
えぇ……全国大会に出た知り合いは多いけど……優勝者は初めて会った。
「風切先輩は、周りの奨励会員を見て、諦めたって言ってました」
「そうか……そう言っていたのか……彼が奨励会を辞めたとき、17歳で3級だった。決して遅くはない。1年に1つだけ昇級するとしても、22歳で3段だ。年齢制限まで、6回チャレンジすることができる」
奨励会には詳しくないから、全然気づかなかった。てっきり、高2で3級は出世が遅いから、諦めたものだとばかり……氷室くんが原因なら、事情は全然違ってくる。
「つまり、アマチュアに負けたのがショックだった、と?」
「彼は、すこし勝ち気なところがあったから、ショックも大きく、自暴自棄になったのだろう……周りの友人は、みんなそう考えていた」
「朽木先輩も、ですよね?」
「今までは、な」
私は眉をひそめた。先輩に対して失礼だと分かっていても、自分を抑えられなかった。
「今までは? どういう意味ですか?」
「今日の風切くんの不戦敗をみて、やっと分かった……彼は、将棋が指せなくなったのだと思う。比喩ではなく、精神的か、あるいは身体的に」
私は絶句した。代わりに、大谷さんが言葉を継いでくれた。
「敗戦がトラウマになって、駒が持てなくなった、と?」
朽木先輩は、その貴公子然とした顔立ちを崩して、悲しげにうなずいた。
「風切くんは、いつも明るく振る舞っていた。だから、こんなことになっているとは、誰も思わなかったのだ……ほんとうに、もうしわけないことをしたと思う。ただ、あのときはいろいろあって、一時期疎遠になってしまったものだから……」
朽木先輩は、そこで言葉を濁した。私は、先をうながした。
「すまない、これ以上は、僕も含めたみんなのプライバシーだ」
朽木先輩は、ふたたび車窓の外を眺めた。
車内での会話は、それっきりになってしまった。
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………………
「裏見くん」
次に声をかけられたのは、多摩センターで京王線に乗り換えるときだった。
改札口を出たところで、朽木先輩は私たちを呼び止めた。
「僕たちは、モノレールに乗る。ここでお別れだ……ひとつ、頼みがある」
「……なんでしょうか?」
「万が一、風切くんが駒を持てなくなっていたとしても、退部させないで欲しい」
そんなことはしないと、私は約束した。
「風切先輩がいなかったら、都ノ将棋部の復活もありませんでした」
私がそう言うと、朽木先輩は微笑んだ。
「彼も、いい後輩を持ったな……ところで、3日目は来るのか?」
女流戦が3日目にあることを、私はようやく思い出した。
「はい……行くと思います」
「僕もベスト8に残った。女流戦には、可憐も参加する……また会おう」
朽木先輩は、モノレール駅の方向に消えた。
去り際、橘さんと目が合う。
逃げないように――彼女の眼は、そう告げている気がした。