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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第6章 2016年度春季個人戦2日目(2016年4月24日日曜)
31/487

30手目 トラウマ

 午後3時8分――会場には、大勢の学生が集まっていた。

 ベスト8を決める戦いだけあって、熱気がみなぎっている。

 ただひとつの席をのぞいては。

風切かざぎり先輩は、まだ来ないのですか?」

 ひんやりとした冷気すら漂わせる少年は、私にそうたずねた。

 例の帝大ていだいの選手だった。1年生で、氷室ひむろくんと言うらしい。

 私は会場の入り口を確認しながら、

「もうすぐ来ると思います」

 と答えた。風切先輩、早く来てくださいな。

 松平まつだいら三宅みやけ先輩が、わざわざ捜しに出ていた。幹事のほうも困ったようで、八千代やちよ先輩と入江いりえ先輩が、黒板のまえでひそひそ相談している。

「どうする? あと1分で開始時刻だが……」

「規約では、振り駒を済ませて、そのままチェスクロを進めることになっています」

 八千代先輩の報告に、入江先輩もタメ息混じりにうなずいた。

「仕方がない……都ノみやこのの選手はいますか?」

「は、はい」

 私は手を挙げた。

「開始時刻になったら、振り駒をおこない、すぐに開始してください」

「わ、分かりました」

 不安になる私をよそに、入江会長は腕時計で時間を計り始めた。

 松平ぁ、なにしてるのよ。まさか、校外で迷子になってるとか? ……いや、通行人に訊けば、大学の場所くらい教えてくれるわよね。地元民なら知ってるはずだし。

 ってことは、まさか……事故?

「それでは、始めて……」

 そのときだった。松平と三宅先輩が、入り口に現れた。

 会場がざわついて、スッと静まり返った。

「松平、遅いわよ……って、風切先輩は?」

 松平は、私の質問を無視した。三宅先輩は、氷室くん――対戦相手に歩み寄った。

「きみが氷室か?」

「……はい」

「風切から伝言だ……不戦敗にして欲しい」

 え? 私は、自分の耳を疑った。

 一方、氷室くんは顔色も変えずに、そっとくちびるを動かした。

「僕とは指さない……と?」

 三宅先輩は、悔しそうにうなずいた。

「ああ……不戦敗、風切の負けだ」

 意味が分からない――会場が、一気にざわついた。入江会長が声を上げる。

「静かにッ! ……それでは、始めてください」

 チェスクロを押す音。駒の音。対局が始まった。

 不戦勝になった氷室くんは、そのとき初めて、淋しげな表情を浮かべた。

「そうですか……ひさしぶりに指せると思ったのですが……残念です」


  ○

   。

    .


 電車の警笛けいてきが、遠くで鳴った。

 夕暮れどきのホームで、私は混乱した頭を整理しながら、電車を待っていた。

「拙僧、控え室にいたのですが、風切先輩は急病ですか?」

 となりに立っていた大谷おおたにさんが、私にたずねた。

「……分かんない」

「病気以外に、辞退する理由はないと思うのですが」

 それは、そうよ――ベスト16だもの。ここで不戦敗にする理由なんか、ない。対局のまえにも、辞退するような素振りはなかった。むしろ、対戦相手が最初から分かっているような雰囲気だったし……それとも、私の勘違いかしら?

 首をひねったところで、小田急おだきゅう線の唐木田からきだ行きが滑り込んだ。

 順番を守って乗車する。なるべく奥に詰めようとしたところで、声をかけられた。

裏見うらみくんじゃないか」

 ふりかえると、継ぎはぎスーツの貴公子、朽木くちき先輩が立っていた。

 メイド服のたちばなさんも一緒だった。ふたりとも、目立つわね。

「風切くんたちと、一緒ではないのか?」

「いえ……先に帰るように言われました」

 そう、あれも意味が分からなかった。女子だけ先に帰れだなんて。

 部員同士でヒミツにするのは、よくないと思う。

 電車が出発して、私はバランスを崩した。吊り革に掴まる。東京は、ほんとにひとが多いわね。もうちょっと空いて欲しい。疲れてるから座りたい。

「風切くんの件は、残念だったな……まあ、仕方がない」

 そう残念……ん? 仕方がない? 私は、言葉遣いに引っかかった。

「仕方がないって、どういうことですか?」

 私がたずねると、朽木先輩は、きょとんとした。

「……まさか、訊いていないのか?」

「不戦敗の理由ですか?」

「いや……3年前の件だ」

 3年前? ……高校生のときってこと? その数字に、私は思い当たる節があった。

「もしかして、奨励会をやめた件ですか?」

 朽木先輩は、おしゃべりが過ぎたと思ったのか、曖昧にうなずいた。そして、橘さんにも確認を取った。

可憐かれんは、裏見さんにあの話をしていないのか?」

「あれ以来、顔を会わせる機会がありませんでしたので……」

 実は、あのアルバイト、まだ始まってないのよね。明日から出勤だ。

 朽木先輩は、吊り革に掴まりながら、しばらく考え込んだ。

 そして、顔をあげた。

「風切くんのプライバシーだが、公然の秘密のようなものだ……聞きたいか?」

 そう言われたら、聞くしかないでしょう。私は、首を縦に振った。

「あれは、3年前のことだ……正確に言えば、風切くんが高校2年の冬だな。奨励会3級だった彼は、ある少年と将棋を指した。非公式戦だが、注目を浴びた対局だ。僕も、あの場に居合わせた。土御門つちみかどくんと速水はやみくんもいた」

「ある少年? ……もったいぶらないでください。それとも、匿名ですか?」

「氷室くんだよ」

「え……不戦勝した帝大の子ですか?」

 朽木先輩は、車窓しゃそうの外に顔を向けた。思い出にひたっているようなまなざしだった。

「あの対局は、今でも覚えている。矢倉の大熱戦で……最後は、氷室くんが勝った」

「奨励会3級に?」

 朽木先輩は、すこしマジメな顔になって、私をたしなめた。

「高校の強豪は、奨励会員に引けをとらない。もちろん、3段リーグは別だが……奨励会3級になら、入ってもおかしくない……いや、むしろ順当だったとすら言える。氷室くんは、全国大会の優勝者だからな」

 えぇ……全国大会に出た知り合いは多いけど……優勝者は初めて会った。

「風切先輩は、周りの奨励会員を見て、諦めたって言ってました」

「そうか……そう言っていたのか……彼が奨励会を辞めたとき、17歳で3級だった。決して遅くはない。1年に1つだけ昇級するとしても、22歳で3段だ。年齢制限まで、6回チャレンジすることができる」

 奨励会には詳しくないから、全然気づかなかった。てっきり、高2で3級は出世が遅いから、諦めたものだとばかり……氷室くんが原因なら、事情は全然違ってくる。

「つまり、アマチュアに負けたのがショックだった、と?」

「彼は、すこし勝ち気なところがあったから、ショックも大きく、自暴自棄になったのだろう……周りの友人は、みんなそう考えていた」

「朽木先輩も、ですよね?」

「今までは、な」

 私は眉をひそめた。先輩に対して失礼だと分かっていても、自分を抑えられなかった。

「今までは? どういう意味ですか?」

「今日の風切くんの不戦敗をみて、やっと分かった……彼は、将棋が指せなくなったのだと思う。比喩ではなく、精神的か、あるいは身体的に」

 私は絶句した。代わりに、大谷さんが言葉を継いでくれた。

「敗戦がトラウマになって、駒が持てなくなった、と?」

 朽木先輩は、その貴公子然とした顔立ちを崩して、悲しげにうなずいた。

「風切くんは、いつも明るく振る舞っていた。だから、こんなことになっているとは、誰も思わなかったのだ……ほんとうに、もうしわけないことをしたと思う。ただ、あのときはいろいろあって、一時期疎遠になってしまったものだから……」

 朽木先輩は、そこで言葉を濁した。私は、先をうながした。

「すまない、これ以上は、僕も含めたみんなのプライバシーだ」

 朽木先輩は、ふたたび車窓の外を眺めた。

 車内での会話は、それっきりになってしまった。

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

「裏見くん」

 次に声をかけられたのは、多摩たまセンターで京王けいおう線に乗り換えるときだった。

 改札口を出たところで、朽木先輩は私たちを呼び止めた。

「僕たちは、モノレールに乗る。ここでお別れだ……ひとつ、頼みがある」

「……なんでしょうか?」

「万が一、風切くんが駒を持てなくなっていたとしても、退部させないで欲しい」

 そんなことはしないと、私は約束した。

「風切先輩がいなかったら、都ノ将棋部の復活もありませんでした」

 私がそう言うと、朽木先輩は微笑んだ。

「彼も、いい後輩を持ったな……ところで、3日目は来るのか?」

 女流戦が3日目にあることを、私はようやく思い出した。

「はい……行くと思います」

「僕もベスト8に残った。女流戦には、可憐も参加する……また会おう」

 朽木先輩は、モノレール駅の方向に消えた。

 去り際、橘さんと目が合う。

 逃げないように――彼女の眼は、そう告げている気がした。

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