293手目 3年目の浮気
昼下がり、午前の講義も終わって学食へ。
ほかのひとも誘ったけど都合がつかなかった。残念。
ラーメンをすすっていると、急に女性から声をかけられた。
「あ、もしかして裏見さんですか?」
顔をあげると──全然知らないひとが立っていた。
ずいぶんさばさばした感じの女性で、ショートボブにすこし大きめのイヤリングをしていた。人懐っこそうな目をしている。服装は最新の春コーデで、カナリアイエローのシャツにローライズボトム。あと厚底ブーツ。
「……どなたですか?」
まさか宗教勧誘じゃないでしょうね。
私が警戒していると、その子は笑って、
「合田って言います。純がお世話になってます」
と言った。
ジュン? ジュンってだれ?
……………………
……………………
…………………
………………三宅先輩のこと?
「三宅さんのお知り合いですか?」
「はい、っていうか駒桜出身なんですけど。清心で」
え? そうなの? 初顔。
いや、市内の高校生全員知ってたわけじゃないんだけど。
「ここいいですか?」
「……どうぞ」
なんだかよくわからないままに同席。
アイダさんもラーメンだった。
「ここの醤油ラーメン、ちょっとしょっぱいですよね」
「まあ……西とちがうかな、とは思います……」
「裏見さんのほうが先輩なのでタメでいいですよ」
と言われましてもですね、はい。
なぜこのシチュエーションになるのか。やはり警戒してしまう。
一方、アイダさんは急にあらたまった顔でズズズッと前に出てきて、
「ところで……純、浮気してませんか?」
とたずねてきた。
え、なにそれは。
「う、浮気?」
「2年ほど遠距離だったんですけど、そのあいだに浮気してないかな、と」
えぇえええええ、ってことは彼女さん?
ど、どうしよう。
「いや、その、三宅先輩の交友関係を全部把握してるわけじゃないので……」
「ふむ……そうですか」
アイダさんは身を引いて、
「まあだいじょうぶだとは思ってるんですが」
と付け加えた。
あのさぁ、間接的ノロケですか?
それにしても三宅先輩、わりと一途なのね。
2年間遠距離ってなかなか聞かない気がする。
「アイダさん、いつから三宅先輩とおつきあいを?」
アイダさんはまたマジメな顔になった。
「じつはもう付き合って8年でして……」
なっがッ! ……ん? 8年?
「……小学生の頃からつきあってるってこと?」
「はい、正確には私が小5で純が中1のときからつきあってます」
えぇ……すごい。そこまで長いカップル、初めて聞いた。
「さすがに浮気してたら一発でわかると思うので、まあしてないのかな、と」
「……そういうのってやっぱりわかる?」
「あ、裏見さんも彼氏います?」
ぐッ、藪蛇だったか。
「いや、ちょっと将来の参考に……」
「じゃあそういうことにしときます。彼氏がウソついてるのはすぐ分かりますよ」
んー、ほんとかしら。
私は疑問に思いつつ、ラーメンをすすった。
○
。
.
ジーッ
松平は雑誌から顔をあげた。
「なんだ? 顔になにかついてるか?」
ふむ、まったくわからん。
とりあえずごまかす。
「来週のオーダーどうしようかな、と思って」
「赤学戦が山だが、修文院と政法も強いからな。修文院は部員が14人いないっていう弱点はあるが……っと」
松平は壁の時計をみて、立ち上がった。
「じゃ、折口の手伝いに行ってくる」
「また? 団体戦中くらい免除してもらえないの?」
「なんかやたら忙しいらしいんだよな……平賀も先に行ってるはずだし、じゃ」
松平、退室。
そういえば平賀さんとも相談しないといけないのよね。
折口先生に稽古つけてもらうのがいいのかどうかについて。
これ以上自信をなくしてもらわれたら困る。
私がそんなことを考えていると、となりで話を聞いていたララさんが、
「香子、どうしたの? 松平の浮気でも疑ってた?」
とたずねた。
「じつは今日三宅先輩の彼女に会って……」
云々。私は事情を説明した。
聞き終えたララさんは、
「2年も浮気しなかったの? 修道僧だね」
と言った。
「フラード?」
「んー、お坊さんみたいな?」
そ、それはちがうと思う。
っていうかララさん基準だと、2年待たせたら浮気してオッケーなの?
とまどう私をよそに、ララさんは、
「アイダって将棋できないの? 誘おうよ」
と提案した。
「ルールも知らないって言ってた」
「そっか、ザンネン」
そこで部室のドアがひらいた。
穂積さんと大谷さんが登場。
穂積さんはカバンを置きながら、
「ああ、もう疲れる」
と言って、ソファーに寝転んだ。お行儀が悪い。
私は、
「どうしたの? 小テストでもあった?」
とたずねた。
「なんか2年生になって授業が難しいのよね」
それはあるかな。1年生のときより専門的になってるし。
私もマクロがちょっとこんがらがってきた感じがする。
均衡GDPとかマンデル・フレミングとかいろいろ。
微積ももう一回やり直さないといけないかなあ。
穂積さんは大きくタメ息をついて、
「そういえば、ふたりで何してたの? 雑談?」
とたずねてきた。
「んー、ウソを見破れるかどうかの話」
「ウソを見破る? ……そんなのできなくない?」
「どうして?」
「ウソを見破れたら、裁判であんなにぐだぐだ証拠調べしないでしょ」
なるほど、それはそうだ。
だけど論点がちょっとちがうのよね。
「長年付き合ってたら、見破れる可能性が高くなるかどうか」
「つまり?」
「例えば穂積さんは、お兄さんがウソをついたら簡単に気づけるか、ってこと」
穂積さんは寝転がったまま考え込んだ。
「……どうかなあ。気づかないときは気づかないと思うんだけど」
穂積さん、こういうところがリアリストよね。
私は大谷さんにもたずねてみた。
「大谷さんは、付き合いが長いひとのウソをすぐ見破れる?」
「と申しますと?」
「例えば神崎さんとか……」
「しぃちゃんは拙僧にウソをつきません」
「あくまでもたとえ話で……」
「しぃちゃんは拙僧にウソをつきません」
「あ、はい」
まあ雑談はこのあたりにしておきまして──練習しましょ。
○
。
.
というわけで、団体戦2日目。電電理科大学に集合。
1局目は修文院戦。
大教室でオーダー交換が始まった。
「修文院、1番席、大将、1年、井伊直幸」
「都ノ、1番席、副将、2年、裏見香子」
「2番席、副将、2年、内山勝」
「2番席、四将、2年、松平剣之介」
「3番席、四将、1年、牧野貞伸」
「3番席、六将、3年、風切隼人」
「4番席、五将、3年、藤田三郎」
「4番席、八将、2年、大谷雛」
「5番席、七将、3年、後藤新一」
「5番席、十将、1年、愛智覚」
「6番席、九将、2年、西郷道太郎」
「6番席、十二将、1年、平賀真理」
ここで修文院の部長の顔色が変わった。
しまったという表情をしている。
「7番席、十将、3年、坂本俊」
「7番席、十三将、3年、穂積重信」
オーダー交換が終わった。
私は松平に話しかける。
「ハマったわね」
「ああ、だけどかなり賭けだったぞ」
修文院は10人しか登録していない。
しかも十将の3年生は、人数合わせだろうと予測していた。
去年までいなかったし、1回戦から3回戦まで出番がなかったからだ。
そして九将の2年生が三宅先輩より上で、平賀さんより下の棋力。
だからズラしてくると予想して、こちらもズラした。どんぴしゃ。
「じゃ、おたがいにがんばりましょ」
「了解」
私は1番席につく。
あいてはぴっちり七三分けの、すごくマジメそうな青年。
Yシャツに黒いズボンで、柄物はまったくなし。
修文院はわりとおぼっちゃま学校なのよね。
駒をならべ終えたところで、振り駒に。
ゆずりあって私が担当。歩が4枚。
「都ノ、奇数先」
「修文院、偶数先」
あとは対局開始を待つだけ。
幹事のひとは黒板のまえで、時計を見上げていた。
「……それでは始めてください」
「よろしくお願いします」
井伊くんがチェスクロを押して、対局開始。
7六歩、3四歩、2六歩、4四歩。
ん? 止めてきた?
居飛車党のはずなんだけど──用心。
私は4八銀で様子見した。万が一振り飛車だったときの対策。
4二銀、6八玉、4三銀、5八金右、3二金。
っと、これは……ムリヤリ雁木か。振り飛車じゃなかった。
私は2五歩ですぐに対応。
3三角、3六歩、8四歩、3七銀。
私は角頭への速攻を見せる。
井伊くんはここですこし考えた。
「研究はしてきましたが、やはり対応されてしまいますね……8五歩です」