286手目 主将、戻らず
さて、開戦。
火村さんは姿勢を正して、じっくりと考え始めた。
同歩は確実として──
そのときふと、左の空いたスペースにひとが来た。
土御門先輩だった。
「ふぅむ、ここはゴキゲンか」
土御門先輩は扇子をぱちりとやって、それから私に、
「香子ちゃん、隼人の応援はせんのか?」
とたずねてきた。
「来たときにはスペースがありませんでした」
「ここはあまりひとが入れる部屋ではないからのぉ」
役員のちからで、もっと広い会場にできませんかね。
と言っても、土御門先輩は渉外。他の大学将棋連合との調整役。
対局会場の選定には権限がなさそう。
先輩は盤面を見ながら、
「えらく考えておるな。わしならサクッと同歩じゃが」
と言った。
そのあたりは性格だと思う。
ノータイムで取るひともいるし、その先を考えてから取るひともいる。
火村さんは仕掛けられることを想定していたのかしら?
パシリ
おっと、取った。
志邨さんは4五歩と攻め立てた。
火村さんは持ち駒の角を手にする。
「3二角」
うーん、これを考えてたわけか。
先に角を手放すのはもったいないような──と思った途端、志邨さんも角を打った。
4六角。
ここで火村さんはまた考えた。
意表をつかれた感じはある。
私は土御門先輩に、
「この手はなんですか?」
とたずねた。
「後手からの7五歩や6五歩を牽制した手じゃな」
なるほどなるほど、王様のこびん狙いか。
とはいえ5五歩もいるし、そんなに怖くないような気もする。
「ヌルいかな、とも思うんですが……」
土御門先輩は「ふむ」と言って、マジメに読み始めた。
そんなに単純じゃないってこと?
志邨さんが指した手、というブランドの可能性もありそう。
火村さんの表情も険しい。
「……9二玉」
玉寄りかぁ。
意図は分かる。角筋からそらしたわけだ。
でも今度は端が危なくなった。
ここから志邨さんの猛攻が始まる。
4四歩、7五歩、6五歩、同歩、9五歩、同歩、9四歩。
案の定、端に火がついた。
火村さんは同銀と取る。
7五歩、6六歩、同金、7六歩。
火村さんも食らいついていく。
3二角が活きてきた。
志邨さんは腕を伸ばして、静かに6五桂と跳ねた。
こうなってくると、9二玉は正解──だけど、どうなのかしら。
6五同桂、同銀、7七歩成、同玉、6四歩。
志邨さんは5四銀と前に出た。
ん? これは?
火村さんの目が光る。
「5三歩ッ!」
重い一手。だけど4五銀なら角が直通する。
後手玉の上部が安泰になって、先手は危ない。
見落とし? ……じゃないはず。
志邨さんも即座に応じた。
パシリ
逃げないッ!
「これはどうなんですか?」
「ふつうにアリな気がするぞい。5四歩、8四桂、8二玉、7二桂成、同玉に7四歩の突き出しが厳しいわい」
……そっか、玉頭戦だと後手が不利なのか。
「先手良しっぽいです?」
「どうかのぉ……先手が若干いいような気はするが……」
それ以上に持ち時間の差がどうかなあ、と思う。
先手は15分余してるけど、後手はもう10分切ってるのよね。
ここからねじり合いになるとマズい。
火村さんは席を立った。会議室のなかをうろうろし始める。
癖が出てるわね。それだけ没頭してるってこと。
1分ほどして着席。
王様に手をかけた。
逃げますかぁ。
志邨さんは6四桂で反対に跳ねた。
8三金、4三歩成、同金、6三銀成。
金銀交換をするかと思いきや、志邨さんの狙いは角筋の遮断だった。
火村さんは4五歩で反撃。
以下、同桂、8五桂、6八玉、4四金、3三桂成、同桂、5四歩と進んだ。
「後手ちょっと厳しい……ですかね。王様の広さが違います」
「じゃのぉ」
火村さんは4五金と出た。
左右挟撃に持っていくしかないわよね。
2八角、4六歩、7二桂成。
これが詰めろなのが痛い。
4七歩成は8二銀、9二玉、9三歩、同金、同銀成、同玉、8二角成まで。
9筋に歩が利くのだ。
火村さんは泣く泣く5四角とした。
7三成銀、7二角、同成銀、7一歩。
志邨さんは1分ほど考えて、8二銀と打った。
ん? これは?
「同金、同成銀、同玉だと駒損してません?」
「それは7四歩が気になる。8二に王様がいる限り4七歩成とできん」
んー、単に7七銀じゃ間に合わないのか。
火村さんもそう判断したらしく、同金、同成銀に6一飛と寄った。
志邨さんは冷静に6五歩。
5五桂、5二角で、一転して殴り合いに。
ピッ
火村さん、1分将棋に突入。
「7七銀ッ!」
ここで銀打ち。
志邨さんはひとさしゆび一本で5九玉と逃げた。
6二飛、8三金、同銀、同成銀、同玉。
志邨さんは7四角成とひっくり返した。
火村さんは59秒まで考えて、7二玉と引いた。
いやあ、王手飛車取りが確定。
志邨さんはここで手を止めた。
まだ3分ほど残っている。
土御門先輩は扇子をひらいて口もとを隠しながら、
「冷静じゃのぉ。まだ先手勝勢ではない。じっくり考えたいところじゃ」
と評価した。
そっか、先手もいつの間にか左右挟撃。
てきとうに寄せようとすると逆転してしまう。
なによりも先手は駒がない。
志邨さんはすこしうつむいたり、前髪をかきわけたり、細かい動作が入った。
いらいらしている感じはしない。むしろ余裕さえ漂っている。
のこり1分を切りかけたところで、ようやく動いた。
7三銀の打ち込み。
火村さんは8一玉と逃げた。
志邨さんは中指と薬指で、持ち駒の4枚の歩を切り分けた。
「9二歩」
そこか……これは考えただけの手ではある。
私は、
「単に6二銀成じゃ遅いってことですよね?」
とたずねた。
「6二銀成は詰めろではないな……9二歩は詰めろに思える」
私もいっしょに考えた。
後手は4七歩成と仮定する。9一歩成、同玉、9二歩で、これを同飛は同馬、同玉、8二飛以下、簡単に詰む。9二歩に8一玉は、8二香、同飛、同銀成、同玉、8三飛、7二玉(9二玉は8四飛成以下)、6三飛成、8一玉……ここで9一歩成が効いちゃうのか。同玉、9三龍、8一玉、9二龍まで。
志邨さんはこの詰みを発見したから、9二歩と先に打ったわけだ。
王手飛車の時点で読み始めたのは、冷静としか言いようがなかった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同香ッ!」
6二銀不成、6八金。
火村さんは寄せに出た。
志邨さんは最後の持ち時間を使い、読み切りに入った。
ピッ……ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
4九玉、5八金、同銀、4八銀、同玉、4七歩成、同銀、同桂成。
火村さんは駒をどんどん捨てる。切れたら負けだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
志邨さんは同玉。
火村さんの手が止まった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「3五桂ッ!」
最後のお願い。引いたら詰む、けど──
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
志邨さんは同歩と取った。
4六歩、同角、同金、同玉、4五歩、3六玉。
この位置が絶妙で詰まない。
4六金も2五銀も2七玉と引いて不詰み。
火村さんは悔しそうな顔で腕組みをした。
のこり20秒のところで駒をそろえる。
「負けました」
「ありがとうございました」
終局。志邨さんの勝ち。
となりはまだ終わっていなかった。感想戦は小声でおこなわれた。
火村さんは終局図のまま、
「途中までそんなに離されたイメージなかったんだけど……どこかで悪手があった?」
とたずねた。
「6八金がやりすぎだと思います。4七桂不成で縛るんじゃないですか」
【検討図】
火村さんはこの手をみて、しばらく押し黙った。
「……そうね、9二歩が詰めろだから焦ったかも」
「いずれにせよ後手は一回受けないとダメです。4八玉に8二銀とか……私のほうは9三歩、同香、9四歩、同香と釣り上げてから7六金と逃げる予定でした」
【検討図】
これはカラい。
次に9三歩くらいで詰めろでしょ。
後手はそこまで速い手がなさそう。
火村さんは、
「本譜よりはいいけど、どっちにせよ後手不利っぽいわね」
とコメントした。
それからふたりは終盤を深く掘り下げていった。
そのうち男子のほうも終わった。
氷室くんの勝ち。
あちゃあ、風切先輩、負けちゃったか──ん?
そういえば大谷さんは? なんで戻って来ないの?
場所:2017年度 春季個人戦3日目 女子準決勝
先手:志邨 つばめ
後手:火村 カミーユ
戦型:後手ゴキゲン中飛車
▲2六歩 △3四歩 ▲4八銀 △5四歩 ▲6八玉 △5二飛
▲2五歩 △3三角 ▲5六歩 △6二玉 ▲7六歩 △4二銀
▲7八玉 △7二玉 ▲9六歩 △9四歩 ▲5八金右 △8二玉
▲6八金上 △7二金 ▲4六歩 △6二銀 ▲3六歩 △8八角成
▲同 銀 △3三銀 ▲7七銀 △5五歩 ▲同 歩 △同 飛
▲6六銀 △5一飛 ▲4七銀 △6四歩 ▲5七銀 △6三銀
▲3七桂 △4四歩 ▲6六歩 △3二金 ▲5六歩 △7四銀
▲7七桂 △8四歩 ▲6七金直 △8三銀 ▲2九飛 △7四歩
▲5五歩 △7三桂 ▲5六銀直 △4二金 ▲2四歩 △同 歩
▲4五歩 △3二角 ▲4六角 △9二玉 ▲4四歩 △7五歩
▲6五歩 △同 歩 ▲9五歩 △同 歩 ▲9四歩 △同 銀
▲7五歩 △6六歩 ▲同 金 △7六歩 ▲6五桂 △同 桂
▲同 銀 △7七歩成 ▲同 玉 △6四歩 ▲5四銀 △5三歩
▲7六桂 △9三玉 ▲6四桂 △8三金 ▲4三歩成 △同 金
▲6三銀成 △4五歩 ▲同 桂 △8五桂 ▲6八玉 △4四金
▲3三桂成 △同 桂 ▲5四歩 △4五金 ▲2八角 △4六歩
▲7二桂成 △5四角 ▲7三成銀 △7二角 ▲同成銀 △7一歩
▲8二銀 △同 金 ▲同成銀 △6一飛 ▲6五歩 △5五桂
▲5二角 △7七銀 ▲5九玉 △6二飛 ▲8三金 △同 銀
▲同成銀 △同 玉 ▲7四角成 △7二玉 ▲7三銀 △8一玉
▲9二歩 △同 香 ▲6二銀不成△6八金 ▲4九玉 △5八金
▲同 銀 △4八銀 ▲同 玉 △4七歩成 ▲同 銀 △同桂成
▲同 玉 △3五桂 ▲同 歩 △4六歩 ▲同 角 △同 金
▲同 玉 △4五歩 ▲3六玉
まで141手で志邨の勝ち




