28手目 会長、元奨に挑む
2日目の初戦が終わって、まずは昼食タイム。
近くにファーストフード店があるかどうか分からなかったから、コンビニでお弁当やおにぎりを買って、大学の控え室にもどった。私は、サンドイッチのふくろを開けながら、ほかのメンバーにお疲れさまを言った。
「いやあ、格が違ったな」
松平は前髪をくしゃくしゃにしながら、嘆息した。
「1年生の初大会でベスト64なら、悪くないぞ」
三宅先輩はそう言って、コーヒーを飲んだ。
私はサンドイッチに口をつけるまえに、
「風切先輩は、いよいよベスト32ですね。どんな将棋でした?」
と尋ねた。
「相手が横歩の最新形に誘導して、爆死した」
三宅先輩は簡潔に答えた。そして、控え室のなかを見回した。
「ところで、隼人はどこ行った?」
私たちは、知らないと答えた。
「捜して参りましょうか?」
大谷さんの提案に、三宅先輩は、
「いや、その必要もないだろ。ひとりで音楽を聴いてるのかもしれない」
と返した。結局、風切先輩は、2回戦の直前に控え室へもどって来た。
ちょっと顔色が暗いような気がして、私は声をかけた。
「先輩、大丈夫ですか?」
「ん? なにがだ?」
顔をあげた先輩は、いつもの先輩だった。照明の関係で、暗く見えただけかしら。
「いえ……次の試合、がんばってください」
「ああ、任せとけ」
私たちはお互いの役割分担を決めて、会場へと移動した。ベスト8までのトーナメント表は、すでに決まっている。ベスト32に勝ち上がってきた相手は――
「やれやれ、次は風切くんとか」
眼鏡をかけた、白い開襟シャツの上級生。連合の会長、入江先輩だった。
都ノの復帰を決めた、あの幹事会以来だった。
風切先輩はニヤリと笑って、
「入江先輩、顔色が悪いですよ」
と軽口をたたいた。入江先輩は腕組みをして、高らかに笑った。
「ハハハ、くじ運もまた実力のうちだからな。しかし、簡単には負けないぞ」
「俺も、手抜くつもりはないです」
幹事から着席の指示が出た。ふたりは、対局テーブルへと向かう。
私と三宅先輩は、戦型チェックの分担を決めて、対局開始を待った。
この教室の担当者は、あいかわらず八千代先輩だった。
「駒を並べ終えたところから、振り駒をしてください」
各テーブルで振り駒が行われる。
歩の枚数は、ここからでは見えなかった。けれど、チェスクロの移動から、風切先輩が先手じゃないかな、と思った。八千代先輩は、教壇のうえで全体を見回した。
「対局準備のできていないところは、ありますか? ……では、始めてください」
「よろしくお願いします」
全員一礼して、対局が始まった。私はちゃちゃっと戦型チェックする。
念入りにチェックしておけ、と言われた席が、ひとつだけあった。風切先輩の斜め後ろの席。このまま行けば、3回戦で当たる予定のブロックだ。帝大と晩稲田の対決で、帝大のほうは、クールな感じの物静かな少年だった。高校生抜けしていない雰囲気があった。服装も地味で、白いボタン付きのシャツに、グレーのズボンだった。晩稲田のほうは、主将の朽木先輩ではなく、べつの選手だった。ぼさぼさの頭で、テーブルに両肘をついて、一心不乱に読んでいた。序盤から、力が入り過ぎじゃないかしら。こういうときは、だいたい実力差が大きいときだ。帝大の少年は、強豪なのかも。
戦型は、横歩だった。うーん、しまった。これは、三宅先輩に任せたほうが、良かったかもしれない。横歩は分からないのよね。あとでお願いしときましょ。
私は、他の3局も回って、最後に風切先輩の対局テーブルへと移動した。
……やっぱり、風切先輩が先手だったわね。しかも、脇システム。
入江先輩は、幹事枠で2日目から出場だけど、弱いってことはないと思う。でなきゃ、ベスト64の段階で消えているはずだから。
双方、お手並み拝見。
7三銀、7九玉、4三金右、8八玉、3一玉、2六歩、2二玉、2五歩。
飛車先を単純に伸ばす形……桂馬は使わない方針なのかしら。
「こっちも伸ばしておこうか。8五歩」
入江先輩も、飛車先を伸ばした。
「1六歩」
「9四歩」
風切先輩は、かるくうなずいた。
「1五歩」
端を詰めた。入江先輩は、反対側の端を詰める。
シンメントリーになった。こういうときの盤面は、ほんとに綺麗だと思う。
「飽和したな……」
風切先輩は、長考に入った。部室や大会での指し方を見るかぎり、先輩は、序中盤でそこそこ時間を使うタイプのようだ。終盤は、1分将棋で指していることが多い。これも、終盤力に自信があるからだろう。とはいえ、先輩に持ち時間を使わせるためには、相手もかなりイイ手で迫って行かないといけない。適当に指してるだけだと、風切先輩も時間を余らせてくる傾向がある。
結局、風切先輩は3分考えて、3五歩と開戦した。
「風切くんの時間の使い方には、あまり合わせたくないな」
入江先輩はそう言いつつも、マジメに考え込んだ。私も、観戦者の立場から考える。
同歩、同角、3六歩が本線よね。そこで4六銀と出たとき、4五歩なら6五歩がある。4六歩、6四歩の取り合いは、さすがに後手が損だ。というわけで、4六銀には6二銀と一回下がる手がありそう。
【参考図】
これは、6五歩に7三角と引けるようにするだけじゃなくて、4五歩のとき7一角成とされる手も防いでいる。だから、先手は次の4五歩を防ぐために、5五歩と突き返さないといけない。現局面から、3五同歩、同角、3六歩、4六銀、6二銀、5五歩が本命。
私がそこまで読んだとき、入江先輩が動いた。3五同歩だ。
以下、私の読み通りに進んで、5五同歩から風切先輩のターン。
「5八飛」
一番普通の手だった。後手は、5五銀を防ぐ必要がある。
入江先輩は、3七歩成、同銀、5三銀とする工夫を見せた。
「すぐには攻めさせてくれませんか……」
「風切くんの攻めは、強烈だからね」
「だったら、6八角で」
風切先輩は、いったん角を引いた。入江先輩は、5四銀と出て来る。
んー、先手がうまく行ってるイメージがないんだけど……私は心配しつつ、風切先輩の出方を見守った。個人的には、右桂を活用したい。でも、手がない。
「……4六歩」
これまた渋い手だ。狙いがすぐには見えない。
入江先輩も、眼鏡の奥で目を光らせた。
「ん、それは……」
入江先輩は、長考に沈んだ。おそらく……4五歩を考えてるんじゃないかしら。
ただ、第一感は成立しないと思う。例えば、4五歩、同歩、同銀、4六歩、5六銀と一直線に読んだとしても、同金、同歩、同飛、5五歩、5八飛のあとが続かない。風切先輩も、ここまで単純には進めないだろうから、先手のほうが手は多いんじゃないかしら。
入江先輩は、だんだん険しい顔つきになってきた。
「反発は、さすがにムリがあるか……」
入江先輩は息をついて、ペットボトルのお茶を飲んだ。
読みを切り替えたらしく、また考え始めた。
……………………
……………………
…………………
………………
これ、後手の手が難しい気がしてきた。実際問題として、4五歩以外には、消極策しかないような……あ、動いた。
パシリ
やっぱり消極策だ。
風切先輩は、3六銀と立った。いい位置。4五歩とは、もう突けない。
「7三角」
入江先輩は、2連続で消極策をとった。
「攻めて来い……と」
風切先輩はそうつぶやいて、くちびるを撫でた。
「ハハハ、べつに攻めて来る必要はないぞ」
入江先輩は、半分冗談みたいな返し。これは、不利を意識してる証拠かな。
先手はここから、攻める手がいろいろありそう。
風切先輩は黙って、1八飛と寄った。
6四歩、4五歩、6五歩、3五歩。
3ヶ所が当たりになった。どこからどう取るか。
入江先輩にバトンが渡る。
とりあえず、3五同歩は、なさそう。同銀で攻めを呼び込んでいる。以下、4五銀と歩を払っても、3四歩、同銀引、同銀、同銀、3五歩で困る。
つまり、選択肢は6六歩と攻め合うか、4五銀と単に取るか……攻め合いは、ちょっとやり過ぎかなあ……6六歩、同銀、6五歩、7七銀、4五銀、同銀、同歩……うーん、傷を作る意味は、あるか……6六銀と打ち込むスペースを……でも、打ち込むなら5六銀からでもいいわけだし、そこまでこだわる必要もない。
「あなた、ずいぶん熱心に観てるわね」
いきなり話しかけられて、私はびっくりした。
「か、春日さん」
カメラを持った春日さんが、となりに立っていた。春日さんは、ファインダー越しに対局を覗き込みながら、
「1回戦が土御門vs風切なら面白かったんだけど、そうもいかないわよね」
と言い、パシャリと1枚撮った。
「ま、ここで風切くんが勝ってくれれば、3回戦は大一番だし……」
「そうなの?」
私の質問に対して、春日さんは、おっとっと、とつぶやいた。
「あなた、知らないの?」
「なにを?」
春日さんは、ふたたびファインダーを覗き込んだ。
「ま、知らぬが仏って諺もあるしね」
あのさぁ……私は呆れ返った。
春日さんは、もう1枚パシャリとやりながら、
「4五銀、同銀、同歩、3四歩って感じかしら」
とつぶやいた。私も、頭のなかで盤面を作る。
【参考図】
……ありそう。
「以下、同銀、3五歩、2五銀、3四銀と読むわ」
ん? それは、どうなの?
同銀、同歩、同金に再度3五歩を読んでるんでしょうけど、金を寄られたあと、3四銀がそこまで痛い打ち込みになっていない。私なら、別の攻め方をすると思う。今の読み筋は、春日さんの棋力を計るうえで、重要なヒントになったような気がした。
パシリ
入江先輩が指した。4五銀だった。
以下、同銀、同歩、3四歩、同銀と進む。
「6三銀」
やっぱり違った……けど、これ、遅くない?
春日さんも、写真を撮りつつ、
「なんかそっぽな気がするけど、これで繋がってるの? 7四銀成?」
と私に尋ねて来た。
「7四銀成は、いくらなんでもイモ筋よ」
角を逃げてもいいし、逃げずに攻め合っても良さそうだ。
「んー、じゃあ、この銀打ちの意図は?」
私は解説役じゃないんだけど。まったく。
とはいえ、私もかなり気になる。
当事者の入江先輩も、腕組みをしながら頬に手を当てて、考え込んでしまった。
これは、読んでいなかったパターン。残り時間は、風切先輩が15分、入江先輩が13分だから、時間攻めにはなってるっぽい。
でも、風切先輩の性格からして、格下相手に時間攻めはしないはずだ。
「……分からん。普通に指すか。5六銀だ」
入江先輩は、一番普通に攻め合った。
風切先輩は、持ち駒に手を伸ばす。
「4四歩」
この叩きは……あ、先輩の狙いが見えた気がする。
4四歩、同金、5三歩じゃない? 以下、6七銀成、同金、5六金の打ち直しに、同金と強く取って、同歩、5二歩成。
【参考図】
これが厳しい……かな? 先手も怖いけど。
考えているうちに、春日さんはとなりの対局テーブルへと移動していた。
さてさて、うるさそうなカメラマンもいなくなったし、頑張って応援しましょう。