276手目 東京4位
その日の夕方、私は愛智くんの一件を風切先輩に伝えた。
「将棋がクソゲー? んなこたぁないだろ」
先輩、去年自分が言ったこと覚えてます?
なんてツッコミは野暮だからしないでおく。
今問題なのは愛智くんが入部してくれるかどうかだ。
「私は入部の可能性があると思ってます」
「拒否されたんじゃないのか?」
「彼、大会がどうのこうのは疲れた、って言ったんです。高校でなにかあったんじゃないでしょうか。その原因が分かれば説得の道もあると思います」
風切先輩は、結ったうしろ髪をいじり始めた。
「……なるほどな。だけどどうやって調べる?」
「そこはまだ……」
そのときだった。
部室のドアがひらいて、三宅先輩が飛び込んできた。
なにやら急いで来たようで、息があがっていた。
「ハァ……ハァ……すまん、愛智の件で調査不足だった……」
風切先輩は椅子から身をのりだす。
「なにか分かったのか?」
「愛智は昨年度の東京4位だ。準決勝まで調べてなかった」
東京4位ッ!?
めちゃくちゃ強いじゃないですか。
部室がにわかに色めき立つ。
ところが三宅先輩は、もうひとつ悪い情報を持っていた。
「ただし、ちょっと気になる点がある……3位決定戦をボイコットしてるんだ」
風切先輩は眉間にしわを寄せた。
「ボイコット?」
「詳しくは分からないが、3位決定戦のとき会場にいなかったらしい。不戦敗だ」
三宅先輩は、性格に難があるんじゃないか、と解釈した。
けど、昼間に会ったメンバーは異なる結論に達していた。
大谷さんが口をひらく。
「これではっきりいたしました。準決勝の負けで、心が折れてしまったようですね」
たぶんその解釈が正解。
本人のメンタルの問題だと分かって、風切先輩はしぶい顔をした。
じぶんと重ねてしまったのか、それとも──
先輩は椅子を回した。
「……ムリに勧誘することはないんじゃないか」
うーん……風切先輩の立場だと、そうならざるをえない。
一方、三宅先輩は、
「大谷、もう一度話す機会を設けられないか?」
とたずねた。
「昼間の様子をみるかぎり、容易ではないと思います」
「そうか……」
私たちのアイデアは、ここで打ちどめ。
そのあとは定例会ということで、練習が始まった。
私はマルコくんと対局。
どうも部室の空気が重い。私もすこし気が散ってしまうところがあった。
序盤が進んだところで、マルコくんは、
「スペイン語でNo hay mal que por bien no vengaっていうことわざがあるんです。悪いことも良いことになる、って意味ですね。僕はアイチくんと指せるって信じてます」
と言い、にっこりと笑った。
ずいぶん楽観的……だけど、妙に心を打つものがあった。
風切先輩は将棋部に入ってくれた。
将棋が好きだっていう気持ちは、ほんとうは変わっていなかったから。
愛智くんも将棋は好きだと言った。だとすれば──
私は気持ちが軽くなって、すぐに次の手を指した。
○
。
.
翌日の昼休み、私、大谷さん、松平の3人は空き教室にいた。
タブレットを起動して、リモート会議用のアプリを立ち上げる。
しばらくして入室許可が出た。太宰くんの顔が映った。
ほかにも小さなアイコンで火村さんと磐くんもいた。
太宰くんの音声が入る。
《本日はお集まりいただき、ありがとうございます、と。新歓も終わったし、帝大に潜入する作戦を練ろうか》
太宰くんはここまでの情報を整理した。
帝大の工学研究科が盗聴電池の出どころだ、という話。
《とりあえず3つ案があると思う。1、工学研究科に直接乗り込む》
これには火村さんが、
《ムリじゃない? ツテがないし、セキュリティが緩いとも思えないわ》
とツッコミを入れた。
《だね。僕もこれは却下でいいと思う。というわけで現実的なのは2つ。ひとつは帝大の将棋部から探りを入れる案。もうひとつはもっと遠回りに外部から攻める》
私は後者の意味がわからなかった。
松平も、
「外部ってなんだ?」
とたずねた。
《帝大へ行くまえに、ほかで情報収集をする》
沈黙が流れた。
最初に発言したのは大谷さんだった。
「帝大を直接訪問するのは危ない、と?」
《聖生が帝大生の場合、こっちの思惑がバレる恐れはあるよね》
「……帝大生だと読んでいらっしゃるのですか?」
《可能性は高いと思う。帝大の工学研究科に出入りできるんだから》
ふむ……太宰くん、やっぱり氷室くんをあやしんでるっぽい。
いずれにせよ帝大へいきなり行くのはリスクがある。
磐くんは、
《このメンツで帝大の将棋部へ遊びに行くのは難しいだろうな。だけど帝大に行かないでどうやって情報収集するんだ? 目星でもついてるのか?》
とたずねた。
《今年もA級校の合同合宿がある。そのミーティング会場を晩稲田で引き受けるから、みんな偶然を装ってその場に集まってもらえないかな。帝大も呼ぶよ》
これには火村さんが難色を示した。
《Bの主将が集まるなんて、あやしすぎない?》
《メンツは限定するほうがいいか……裏見さんと火村さんはどう?》
え? なんで指名してくるの?
「ちょっと待って、それってどういう……」
《有縁坂でよく会ってるよね? それに橘先輩と新宿将棋大会に出たでしょ? 橘先輩に会うっていう口実なら、晩稲田キャンパスにいても不審がられないと思う》
ぐッ……そういうことか。
松平は私のほうをみて、
「危なくないか?」
と小声でたずねた。
「危なくはないと思うけど……どうやって情報収集すればいいの?」
私の質問に太宰くんは、
《そこは火村さんのトークスキルで》
と丸投げ。
火村さんはあきれて、
《あのさぁ……そもそもあたしはA級校とそんなに交流ないんだけど》
と返した。
《ごめんごめん、半分は冗談だよ。そこは僕がセッティングしておくから、よろしく》
○
。
.
その週の土曜日──私は晩稲田のキャンパスに来ていた。
火村さんといっしょに、カフェでのんびり。
店外にパラソル付きの席がある、本格的なお店だった。
日当たりがよくて、春の木漏れ日がテーブルにちらつく。
私はコーヒーを飲みながら、
「太宰くんの話だと、ここで待ってればいいのよね?」
と言い、あたりをみた。
さすがに週末だけあって、学生の姿はまばらだ。
ミーティングが終わったあと、ここへA級校のメンバーを連れてくるらしい。
だいじょうぶかしら。断って帰る学生もいそうだけど……っと。
私服姿の、見知った集団がみえた。先頭に太宰くんがいた。
カフェテリアへまっすぐ近づいて来る。
話し声が聞こえた。だれかが冗談を言ったのか、笑い声が混じった。
私たちは目を逸らして、気づかないふり。
打ち合わせ通り、太宰くんのほうから声をかけてきた。
「あれ、裏見さん、どうしたの?」
ほかのメンバーも一斉にこちらを見た。
うーむ、演技演技。
「橘先輩と会う予定なんだけど……太宰くんこそどうしたの?」
「合宿のミーティングだよ」
私はその場のメンツに視線を走らせた。
A級8校のうち、太宰くん以外で知っている学生は2人しかいなかった。
治明の大河内くんと大和の新田くんだ。
のこりのメンバーは初顔。
陽気そうな流し髪の青年が、最初にあいさつをした。
「はじめまして、かな。八ツ橋の山名だよ」
次にブカブカの服を着た、背の低い男子。
「慶長の若林でーす。よろしく」
あ、慶長は日高くんが主将じゃないのか。ちょっと意外。
さらにそのとなりの、なんだかとても自信なさげな表情の少年は、
「帝大の古舘です」
とあいさつした。ここも氷室くんが主将じゃないのね。
のこりの2校は立志大学と京浜大学だった。
会場で見かけたかな、という気もする。
太宰くんはうまくテーブルを調整して、古館くんを私たちと同席させた。
私、火村さん、古館くん、若林くんの4人席になる。
若林くんは、長すぎて余っている袖をぷらぷらさせながら、
「都ノって今Bだよね? 昇級の自信は?」
とたずねてきた。
私は「目標ではあるわね」と答えた。
一方、火村さんは、
「うちにも訊きなさいよ。来年の春にはA級だから、覚悟しなさい」
と、いきなり啖呵を切り始めた。
若林くんはすこしびっくりして、
「す、すごい自信だね……それにしても、橘さんになんの用事?」
とたずねた。
「バイト先がいっしょだから、こんど食事でも、っていう流れ」
これは嘘じゃない。
この偵察が終わったら、橘先輩と合流してランチの予定だ。
若林くんは、
「へぇ、そうなんだ……ところでさ、橘さんってなんでメイド服やめたの?」
と無邪気にたずねた。
そこは触れちゃダメです。
私は「気分転換じゃない?」と適当に受け流してから、古館くんのほうを向き、
「最近、風切先輩が帝大のお世話になってない?」
と話を持ちかけた。
コーヒーを飲みかけていた古館くんは、
「ん……ああ、そういえばたまに見かけるね」
と答えた。
ビンゴ! 読みが当たった。
例のバイトで出入りしてるから、将棋部とも縁があるんじゃないかと思っていた。
これなら話が早い。
「やっぱり氷室くんと指してる?」
「そうだね、氷室くんと指してることもあるし、僕と指したこともあるし……あとは末先生とよく指してるかな」
ん? スエ?
知らない名前が出てきた。
漢字を教えてもらったら、末の1文字らしい。
「将棋部の顧問?」
「帝大の顧問は氷室教授だよ。末先生は2年前に来た特任教授。氷室教授の知り合いらしくて、将棋部に遊びにくるんだ。けっこう強いよ」
「……トクニン教授ってなに?」
古館くんの説明によれば、学外からの寄付を受けるとき、その関係者を一時的に教授にすることがあるらしい。それが特任教授とのことだった。
「つまり……ほんとうは学外のひとってこと?」
「だね。どこかの製薬会社の研究員。専門は生命工学」
生命工学……あ、なんとなくリンクした。
だから風切先輩はタンパク質の話をしていたのか。
ひとり納得していると、火村さんが口をひらいた。
「その末ってひと、特任教授なら所属は大学院じゃない?」
古館くんは視線をあげた。
「……くわしいね」
「まあ大学はいくつも回ってるし……もしかして工学研究科?」
「そうだよ」
私と火村さんは一瞬だけ視線を合わせた──いきなりの大当たりでは?
だけどここで相談するわけにもいかない。
古館くんはすこし妙に思ったのか、
「ずいぶんこっちのことが気になるんだね。風切先輩になにか言われた?」
と、さぐりを入れてきた。
マズい。適当な口実を──と、そのまえに若林くんがわりこんだ。
「ねえねえ、都ノに愛智くんって子が入ったでしょ? 彼、がんばってる?」