27手目 翻弄
力強く、桂馬が跳ねた。
2四歩に同銀と取ったのがポイントだと思う。同歩なら、この4五桂が3三の銀当たりになるから、4四銀以下のよくあるかたちになる。
だからと言って、この局面のほうが後手にとっていいわけではない。7四にキズがあるから、4四歩と殺しに行くのは遅いし(4四歩、7四歩、4五歩は、7三歩成のほうが圧倒的に厳しい)、6三金は7四歩、同金、5三桂成がある。2四銀型じゃなくて4四銀型なら、生じていなかった筋だ。
「なかなか面白い局面になっていますね」
ふりかえると、橘さんが立っていた。道場のときと同じ服装だった。
ほ、ほんとにメイド服が私服なんだ。
「こんにちは……橘さんも観戦?」
「めぼしい対局をチェックしているだけです」
ちょうどいいと思って、私はカマ掛けの質問をしてみた。
「朽木くんは?」
「ぼっちゃまは対局中です」
え? 対局中? 先週はいなかったはずなのに……あ、そういうことか。
「もしかして、シード枠?」
「ぼっちゃまは晩稲田の主将です。知らないとは、モグリですね」
そういう言い方しなくても、いいじゃないですか。
だって、主将だと思わないわよ、普通。
さらに橘さんは、ひとさし指をピンと立てて、
「もうひとつ……ぼっちゃまとわたくしは2年生です」
と年上アピールしてきた。
こ、こういうひとたちが年上っていうのは、なんか納得がいかない。
「失礼しました……」
私が形式的に謝ると、橘さんは盤のほうへ視線を移した。
「土御門くんは、角換わりを選択しましたか……相手は、都ノのひとですか?」
この状況ではごまかしが利かないので、私はそうだと答えた。
橘さんは、黒板のトーナメント表を確認した。
「松平……1年生……実力のほどは?」
なんで教えなきゃいけないのよ。知らんぷり。
あと、角換わりに誘導したのは、松平だと思う。初日にそれで勝ってるし。
「ふふふ、そう冷たくしなくても……後手が忙しい局面、お手並み拝見です」
パシリ
私も予想していた手が指されていた。
ここから暴れていく以外、後手に勝機はないと思う。
「同歩じゃ」
松平は、8八歩と叩いた。これも手筋。
橘さんも頷いた。
「なるほど……同玉は7六歩、同銀、8六飛、8七銀、8四飛でキズを消せる、と」
「でも、同金はキツくないですか?」
「私は同金だと思います」
そうかなあ。同金って、モロに壁金なんだけど……あ、同金と取った。
松平は背を引いて、コーラを飲む。むずかしい局面だ。
攻めが止まると、後手が一気に悪くなりそう。
「橘さんなら、どうやって攻めますか?」
私は小声で尋ねた。彼女も、さすがに即答はしなかった。
「もし攻めるとしたら……5五銀だと思います」
「銀捨て? 同銀で?」
「同銀には3七角があります」
【参考図】
あ、両取り。
「これ、激痛じゃありませんか?」
「激痛か沈痛かは知りませんが、飛車を切るしかないと思います」
飛車を切ったら、8八同金が悪手にならないかしら。いくらでも王手がかかる。
思ったよりも悪くなさそうで、私は希望を持った。
ただ、当の松平は、かなり悩ましげに考え込んでいる。
5分ほど長考した末、ようやく動いた。
「5五銀」
勝負手――土御門先輩は、扇子をくるくるさせた。
「なかなか面白い構想じゃの……同銀じゃ」
松平は、3七角と放り込む。土御門先輩は、ためらいなく2四飛と切った。
「同歩」
土御門先輩は、持ち駒へ手を伸ばした。
「これで大丈夫かと思うが……4四角」
ん? これは疑問じゃない?
松平もおかしいと思ったのか、目を細めた。
土御門先輩は、扇子をパチパチさせる。
「どうした? わしの手が、なにか妙か?」
妙だと思う。4九飛で4五の桂馬を抜けるから……あ、でも、桂馬を抜いて、ようやく駒得なのか。現時点では、飛車と銀の2枚換えだ。先手が損とは言えない。
「そうか……むずかしいか……」
松平はそうつぶやいて、あごに手を添え、テーブルに肘をついた。
橘さんは、そんな松平の様子を観察しながら、
「4九飛があるということで、4四角の筋は早めに切り捨ててしまったようですね。おそらく、5三桂成から暴れて来る順をメインに読んでいたのでしょう」
と推測した。うーん、図星っぽい。
松平は、さらに1分を投じた。
「まあ、こっちが悪いわけじゃないんで……4九飛です」
以下、6九銀、4五飛成、4六歩、2五龍と進んだ。
「手番が来たぞ。7四歩じゃ」
こうなってみると、4四角は好手だったっぽい。いきなり7四歩と打つのは、4九飛、6九銀、4五飛成のときに困る。銀を助ける手段がない。すべてはこの布石だったのだ。
「7三歩成は、もう防げません。後手は攻めるしかないでしょう」
橘さんに同意。とはいえ、攻める手はある。まずは龍を入りたい。
「2八龍」
そうそう……ん? 2九龍じゃないの? 王様に直通させたかったけど。
「そこに入るか……狙いは見えるが……」
土御門先輩は、2八龍の狙いを喝破したらしく、小考した。
そして、7三歩成と成った。
松平は、即座に5九角成とする。
あ、この手があったかッ! 同金は6七桂で一手詰みだッ!
土御門先輩は、6七銀と打った。攻め駒がなくなる。
「ひと目、7六歩と突きたいです。同銀右は5八馬、同銀直は8六飛と出て、8七銀なら同飛成、同金、8六歩で寄り筋かと。先手は6七歩成を甘受するしかありません」
橘さんは、急所の歩突きを提案した。
「先に飛車を逃げませんか?」
「飛車を逃げているヒマは、ないと思います。8一飛、1一角成、7六歩の進行は、4四桂と打たれて、後手の寄り筋。9二飛は先ほどの攻めが消えるので、ありえません」
【参考図】
「でも、7六歩には手抜きで8二とじゃないですか? 飛車を渡してますよ?」
「リスクは取るしかないでしょう」
いやいや、冷静に返されましても……8二と、7七歩成、同桂のあと、どうするのよ。
とはいえ、橘さんに反論できるほどの筋も思いつかなかった。
「行くしかないか……7六歩」
松平は歩を突いて、チェスクロを押した。
残り時間は、松平が12分、土御門先輩が15分。
土御門先輩は1分使って、厳かに8二とと取った。
松平は、7七歩成と踏み込む。同桂、8七歩、同金、7八歩、同玉。
「8九銀」
「引っ掛けて来よったか……同玉」
松平は、6九馬と入った。
んー、繋がってるかしら? ちょっと細い。
あと、駒を渡し過ぎだ。案の定、土御門先輩は7一飛と王手してから、5一桂の受けに7八銀打と手を戻した。馬が死んでいる。
「5八馬」
「同銀」
松平は、ここで考え込んだ。
5八龍で、いいと思うんだけど……あ、8五角があるのか。
【参考図】
これはマズい。金龍両取り。
でも、5八の銀が取れないのは、負けのような……私は橘さんに訊いてみた。
「後手が相当悪いと思います。土御門くんの差し回しが秀逸でした」
ぐッ、やっぱり後手劣勢。起死回生の一手が必要だ。
「なにかありませんか?」
「なにかと言われましても……」
橘さんは、盤面をじっと睨んだ。こういうところは、将棋指しなのよね。
「3三銀と受けても、悪くなる一方ですし……6八金ですか」
「ちょっと野暮ったくないですか?」
「7八金、同玉、5八龍は王手なので、8五角の心配がありません……ただ、それでもかなり微妙ですね。8九玉ですら詰まないやも」
「8九玉は7八銀、9八玉、8七銀成、同玉、7八銀、7六玉、8四金が、必至に近くありませんか? もしかすると、必至かも」
「7八銀、9八玉、8七銀成……いえ、8四金に8五歩で逃れています」
【参考図】
ん、それはさすがに……詰まないのか。6七銀不成、8六玉、8八龍、8七香で、継続手がない。一見して、詰みそうなんだけど……うーん……詰まない。
「必至もかからないとなると、慎重を期す必要があります。飛車はどこに打ってもよいかと思っていましたが、7一以外は詰み筋が発生するようですね」
「ただ、後手玉に詰めろがかかってるわけでもないですし……先に詰めろを……」
私は、先手玉に詰めろをかける方法を考えた……あ、簡単にかかる。
「7八銀、9八玉のあと、8四銀と先に封鎖しておくのは、どうですか?」
【参考図】
「たしかに、詰めろですね……しかし、8八香で寄せ切れないように見えます」
8八香以下の順を、頭のなかで追った。8八香、8七銀成、同玉、7八銀、9七玉……詰まないか。7九銀不成で再度詰めろは掛かるけど、9八金で今度こそ追撃ができない。
「むしろ私が考えているのは、6七銀打で詰めろをかけるほうです」
橘さんは、別の詰めろを提案した。
【参考図】
「8八香に対しては8七銀成、同玉、7八龍、9七玉、8七金、同香、8八銀、9八玉、7九銀不成までの詰みです。8八金打と受けても、8七銀成、同玉、8八龍と切って、同玉、8七金、同玉、7八銀打、9八玉、8七金までです」
おっと、これは有力な詰めろだ。振りほどくのも簡単じゃない。
「ってことは、その路線で後手の勝ち筋も……」
パシリ
松平が、ようやく指した。
「ふむふむ、やはりそう来たか」
土御門先輩は、狩衣の袖口を直してから、椅子に両手を添えた。
前傾姿勢で1分ほど考える。
「これが攻防じゃろう……8五角」
え? それは受けになってないのでは……5八金、同角、同龍は角損……あッ! 違う違う、全然違う。5八金は詰めろでもなんでもないから、5二角成だ。これが詰めろ。
ただ、松平もあれだけ長考した以上、さすがに読んでいたらしい。3三銀と打った。
「同角成」
「同桂」
土御門先輩は、持ち駒の銀を拾い上げ、袖を引きながらサッと空中に掲げた。
「わしは、こう見えても辛いのじゃ」
パシーン
角成……じゃない。松平は顔をしかめて、
「ぐッ……一番イヤな手が……」
と白状してしまった。
土御門先輩は扇子をひらいて、顔の下半分をおおった。
「すぐに5二角成じゃと、5八龍で詰めろがかかってしまうからのぉ」
松平は、ここでまた長考した。持ち時間がどんどんなくなる。
結局、残り2分だけ残して、5八金と寄った。
「今度こそ5二角成じゃッ!」
6九金、2三歩。後手に詰めろがかかった。
持ち駒の関係で、先手玉には有力な王手が見当たらない。
ピッ
松平、1分将棋に。
「う、受けがない……?」
松平、諦めずに考えなさい。30秒……40秒……50秒……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「4二銀ッ!」
「それは受けになっとらんぞッ! 4三桂じゃッ!」
あ……寄った。同銀と同金は詰みだから2一玉しかないけど、そこで4二馬がある。同金は2二金で詰むし、かと言って適当な受けもない。
松平は、がっくりと肩を落とす。
「指運はダメか……負けました」
「ありがとうございました」
土御門先輩はチェスクロを止めて、パタパタと扇子で扇ぐ。
この時点で、先輩のほうは5分ほど残していた。
「最後は、失礼しました。取捨選択して、残ったのが4二銀だけだったので」
「そういうことは、プロでもある。まったく気にしておらんぞ」
松平が言っているのは、順番に候補手を消して行って、Aもダメ、Bもダメ、Cもダメで持ち時間がなくなったとき、とりあえず残っているDを指してみる作戦だ。読んでいない手だから、好手のときもあれば、悪手のときもある。今回は一手バッタリ。
「終始、翻弄されてる感じでした。構想自体が破綻してましたか?」
「ふぅむ、ちと検討してみよう」
ふたりは、初手から並べ始めた。
私はメモを取る――最初に訪れた壁は、どうやら高過ぎたようだ。
場所:2016年度 春季個人戦2日目 1回戦
先手:土御門 公人
後手:松平 剣之介
戦型:角換わり腰掛け銀
▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △8五歩 ▲7七角 △3四歩
▲8八銀 △3二金 ▲7八金 △7七角成 ▲同 銀 △4二銀
▲3八銀 △6二銀 ▲4六歩 △6四歩 ▲4七銀 △6三銀
▲6八玉 △5二金 ▲5八金 △4一玉 ▲9六歩 △9四歩
▲1六歩 △1四歩 ▲7九玉 △3一玉 ▲5六銀 △5四銀
▲3六歩 △4四歩 ▲3七桂 △7四歩 ▲6六歩 △7三桂
▲2五歩 △3三銀 ▲4五歩 △同 歩 ▲2四歩 △同 銀
▲7五歩 △同 歩 ▲4五桂 △8六歩 ▲同 歩 △8八歩
▲同 金 △5五銀 ▲同 銀 △3七角 ▲2四飛 △同 歩
▲4四角 △4九飛 ▲6九銀 △4五飛成 ▲4六歩 △2五龍
▲7四歩 △2八龍 ▲7三歩成 △5九角成 ▲6七銀 △7六歩
▲8二と △7七歩成 ▲同 桂 △8七歩 ▲同 金 △7八歩
▲同 玉 △8九銀 ▲同 玉 △6九馬 ▲7一飛 △5一桂
▲7八銀打 △5八馬 ▲同 銀 △6八金 ▲8五角 △3三銀
▲同角成 △同 桂 ▲6九銀打 △5八金 ▲5二角成 △6九金
▲2三歩 △4二銀 ▲4三桂
まで93手で土御門の勝ち