265手目 M資金
翌日、私は大学構内の喫茶店に、松平と大谷さんを呼び出した。
定期試験も終わったからか、お店のなかは閑散としていた。
一番すみっこの席で、店員さんに聞こえないように会話をする。
私が話を切り出すと、松平は眉をひそめて、
「聖生の資金が大円銀行に眠ってる?」
と、すこしばかり大きな声でたずねた。シーッ。
私は、ビジコンで見聞きしたことを伝えた。
「大円銀行の支店長が宗像さんに会釈をしてた? ……それだけか?」
「だけか、じゃないでしょ。メガバンクの支店長に会釈なんかされないわよ。これは銀行に大金を……たぶん億単位で預けてる証拠」
松平は「それもそうか」と言って、考え込んだ。
「……だけど見間違いの可能性もないか? 伝聞証拠しかないように思うんだが……まず会釈の対象はほかのひとで、宗像さんの近くに知り合いがいたかもしれないだろ?」
ぐッ……その可能性は否定できない。
さらに松平は続けた。
「それから、粟田さんだっけか? 粟田さんの聞き間違いの可能性もある」
うーん、それも否定できない。
あとで調べてみたら、支店長っていう文字が入る役職は3つあるらしい。
支店長、副支店長、支店長代理。
このうち支店長代理はぜんぜん偉くなくて、課長より下っぽかった。
代理を聞き落としたかもしれないのよね。
「だーけーど、私たちの部費が消えたとき、送金先は大円銀行だったでしょ。けっきょく送金し返されたから、それ以上追及しなかったじゃない*」
「まあ、あのときは証拠もなにもなかったからな。俺たちのほうの銀行じゃ対応してくれなかったし……ようするに、ニセ聖生は大円銀行に口座を持ってるってことだよな? だけど宗像さんの口座があるかどうかはわかんなくないか? ニセ聖生=宗像さんは確定してないんだ。こうなってみるとむしろ別人だと思える」
うむむ……たしかに。
だけど、状況がなんとなくそっちを示しているような気がする。
私は大谷さんに助けを求めた。
大谷さんは抹茶ラテのカップを両手で支えながら、すまし顔。
「左様ですね……なんとも予断はできないように思います」
うーん、味方になってくれないか。
まあしょうがない。憶測に憶測を重ねている点は認めざるをえない。
でもなあ……うーん……。
私が悩んでいると、大谷さんはカップをおいて、
「裏見さんは、このメンバーだけにそのお話を?」
とたずねてきた。
「今のところ、このメンバーだけかな……ほかのひとに話すのはちょっと……」
「実際、このなかにニセ聖生がいる可能性はないと言ってよいでしょう。高校までの経歴もはっきりしていますので……三宅先輩には?」
「三宅先輩は風切先輩と近すぎると思うのよね」
信頼してないわけじゃない。
でも2年生同士だから、どこかでうっかりということもある。
とくにお酒を飲みに行っているときがあやしい。
三宅先輩に話すくらいなら、まだ火村さんのほうがいいかなあ。火村さんにはこれまでもきわどい相談をしてきたけど、その情報が外部に漏れた形跡はなかった。
私と大谷さんのやりとりに、松平が割り込んだ。
「なあ、裏見……これはまえも言ったんだが……」
「なに?」
「宗像さんのところで働くのは、やっぱり危なくないか?」
私は口をつぐんで、コーヒーカップを半回転させた。
「……このまえ忠告されたときは、宗像さんが聖生かもしれないから、だったわよね。今は宗像さんが逆に狙われているのかもしれない……だから観察が必要じゃない?」
「それは俺たちがやる仕事なのか? 警察の出番だと思うが……」
「警察が動いてくれると思う?」
「速水先輩は?」
それは……ちらりと考えた。
速水先輩なら警察のコネでなんとかしてくれるのでは?
彼女は宗像さんと風切先輩が別れた事情も、よく知っている。
だったら力になってくれるかもしれない。
私が逡巡していると、大谷さんが口をひらいた。
「速水さんにお伝えするのは、よろしくないように思います」
「どうして?」
「速水さんは、拙僧たちよりも多くのことを知っている可能性があります」
……なるほど、そういうことか。
「N資金のこともとっくに突き止めてる、と?」
「その可能性は否定できません……太宰くんも同様です。わざわざN資金と名付けたところからして、なにかを掴んでいるのではないでしょうか」
「単に聖生の頭文字を取っただけじゃない?」
「裏見さんは、M資金というものをご存知ですか?」
私は知らないと答えた。
「GHQが日本人から接収し、どこかに隠したと言われる莫大な秘密資金です」
GHQ? 莫大な秘密資金? ……どういうこと?
「それって……戦後の話?」
「左様です。GHQは日本を占領中、軍需物資などを接収して管理しました。1952年に全額が日本政府に返還されたと言われていますが、じっさいには返還されておらず、どこかで運用されているという噂話です」
松平はこれを聞いて、眉間にしわをよせた。
「なんか徳川埋蔵金みたいな話だな。さすがにデマじゃないのか?」
「はい、これはデマなのです。M資金は詐欺によく使われています。被害のなかには著名人も多く、戦後最も有名な詐欺の手口のひとつです」
ふーん、初めて聞いた気がする……って、ん?
私は身を乗り出した。
「もしかしてN資金って……」
「おそらくM資金のもじりだと思われます」
……………………
……………………
…………………
………………どういうこと?
「待って、それじゃまるで聖生の遺産がデマみたいな言い方じゃない?」
「過去の空売りで大儲けした男の遺産が、銀行のどこかに眠っている……そういう手口の詐欺があっても、おかしくはないように思います」
私は大谷さんの話を聞いて、考え込んでしまった。
聖生の遺産がデマ? ……たしかに確認はできていない。
太宰くんはなにを知っていて、なにを調べてるの?
もしかして私たちに偽情報を流して、さぐりを入れてる?
店員さんがそばのテーブルを拭きに来た。私たちは会話をやめる。
外はくもり空。宗像さんとの関係に、一抹の不安がよぎる風景だった。
○
。
.
チェスクロが時を刻む。
ブレザーを着た男子中学生は、じっと盤をみていた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「負けました」
「ありがとうございました」
私はチェスクロを止めた。
「中盤の入り口で悪くした気がします」
「そうね。あそこで桂跳ねはちょっと危なかったかも……」
感想戦をしていると、宗像さんに呼ばれた。
「裏見さん、5分後に次の手合いをお願いします」
「はーい」
今日はお客さんが多い。
私は中学生との感想戦もそこそこに、次の準備をした。
盤駒をそろえて、飲みかけのお茶を片付ける。
「お待たせしました……ッ!」
学ランを着た、瓶底眼鏡の青年……又吉くんッ!
「こんにちは、であります」
「又吉くん、どうしてここに?」
「もちろん将棋を指しに来たでありますよ」
えぇ……なんかすごく嘘くさい。
困惑する私をよそに、又吉くんは振り駒をした。
「我輩の先手でありますな。それでは、よろしくお願いするであります」
私たちは一礼して、対局を始めた。
7六歩、8四歩、1六歩、1四歩、7八銀。
なんで晩稲田の学生が、わざわざここまで来るの?
都内にも将棋道場はあるでしょ。
それとも朽木先輩が近くに住んでるから?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! 3四歩ッ!
又吉くんはこの手をみて、
「序盤からギリ指しとは、研究勝負でありますか?」
とつぶやいた。
いかんいかん、今は仕事に集中。
又吉くんは6六歩と突いた。
彼が振り飛車党なのは、王座戦でちらりと見たから知っている。
6二銀、6八飛、4二玉、3八銀、3二玉、4六歩。
藤井システム調だ。これなら慣れている。
5四歩、5八金左、8五歩、7七角、3三角、6七銀。
どうしましょ。穴熊に組んでもいいけど……対策されてそうなのよね。
そのための藤井システムだし、端も突いてしまっている。
ここはひとつ、晩稲田レギュラーの棋力でも調べておきますか。
来年度順調に昇級したら、当たるかもしれない。
「5三銀」
「今の間合い、なにかありますな。3六歩」
7四歩、4八玉、6四銀。
右銀急戦。
又吉くんはメガネをなおした。
「ハハァ、そう来るでありますか……でしたら、7八銀であります」
むッ……右銀急戦を正面から受けないのか。
だったら私も自陣を整備する。
7三桂、3九玉、4二銀、2八玉、3一金。
「エルモ囲いでありますか。裏見殿も勉強なさってますなあ」
あたりまえでしょ。
小学生なんかはソフトネイティブだから、しょっちゅう使ってくるし。
又吉くん、ここで初めて小考。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6七銀であります」
私は5一金でエルモ囲いを完成させる。
又吉くんは5六銀と出て来た。
あ、うーん、先攻して来そう……進退を決めないといけなくなった。
乗るか反るか、どっちにしましょ。