262手目 N資金
私は目を凝らした。
ポスターの周りには、扇状にひとだかりができている。
左手のほう、5人ほど飛ばしたところに、その女性は立っていた。
サングラスをかけてるけど──宗像さんよね?
確かめようとした瞬間、宗像さんがこちらを向きかけた。
私は慌ててパンフレットで横顔を隠した。
この動作を不審に思ったらしく、右どなりにいた粟田さんは、
「どうしたの?」
とたずねてきた。
「……ここ、エアコンの風が直撃するのよね」
粟田さんは天井を見上げた。
「そっか、乾燥には注意しないとね」
私は曖昧にうなずきながら、左のほうに神経をとがらせていた。
どうする? パンフレットの横から盗み見る?
でも近すぎるのよね。さすがにバレそう。目が合うかもしれない。
というか、さっきので気づかれた可能性すらあった。
「香子ちゃん、だいじょうぶ? 移動しようか?」
「そ、そうね」
私はそのポスターの前から離れた。
こっそり振り返る──宗像さんは前を向いたまま、こちらに背中を見せていた。
粟田さんはくちびるに指を当てて、
「暗号資産って、ほんとにこれから流行るのかなあ?」
とつぶやいた。
私はとつぜんの鉢合わせが気がかりで、話半分になっていた。
どうして宗像さんが? もちろん、いちゃいけないってわけじゃない。
橘先輩から話を聞いて、興味を持ったのかもしれない。
ただ、どこか気になる。
一方、粟田さんはひとりで話を続けていた。
「金融庁とかの規制もありそうだし……香子ちゃん、ほんとにだいじょうぶ?」
「も、問題ないわ」
「もしかして気分が悪くなった? 休憩しようか?」
粟田さんは飲み物を買って来ると言って、その場を離れてしまった。私は手持ち無沙汰になる。会場に目を走らせると、宗像さんの姿はなかった。どうしよう。幽霊に出会ったわけでもないのに、なんだか不安になる。
もう一度、さっきのポスターに目を向けようとした。
その瞬間、男の2人組に声をかけられた。
「あれ、裏見さん、来てたの?」
ふりかえると、太宰くんが立っていた。
もうひとり、瓶底眼鏡の少年。えーと、又吉くんだっけ。
ふたりともスーツを着ていた。
「あ、こんにちは……ふたりとも、朽木先輩の手伝い?」
「そういうこと」
「裏見殿は、なにをなさっているでありますか?」
私は橘先輩に誘われたと答えた。
「左様でありますか。我輩たちのチームも、そこそこイケると思うでありますよ」
「そうね、ポスターを見た感じだと、けっこう面白かったわよ」
太宰くんは周囲を見て、
「裏見さん、ひとりで来たの?」
とたずねた。
私は連れがいると答えた。
「そうなんだ。じゃああんまりお邪魔しても悪いかな。またあとで」
どうもどうも。
ふたりは人ごみのなかへ消えて行った。
しばらくして、粟田さんが戻ってくる。
「はい、お茶」
「ありがとう」
私はお茶の代金を精算した。
こういうところは、友だち同士でもしっかりしておいたほうがよさそう。
そのあと、私と粟田さんは会場を見て回った。
橘先輩が言っていた通り、けっこう似ているテーマが多かった。
介護、教育、地域活性──うーん、どうなんだろ。
私は粟田さんに、
「少子高齢化をどうしますか、みたいな話ばっかりね」
と言った。
粟田さんは笑って、
「だってしょうがなくない? これから人口減るし」
と答えた。
でもなあ、内向き過ぎないかな、と感じる。
私は、
「解決策のほとんどがアプリ開発なのも気になるわ」
と言った。
「それはそうじゃない? ICTで解決したほうが低コストだし」
たしかに、人件費を考えるとそうなる。
けど、アプリ開発はどこもやってるわけだし、レッドオーシャンだと思う。
「やっぱりロボットのほうがいいと思うのよね」
「今から製造業やるの、キツくない? アメリカでも脱製造業だよ?」
「これからはサービスロボットの時代だと思うの。例えばサーボモータが……あ、サーボモータっていうのは、ロボットの位置とか姿勢を制御するためのモータね。回転型とかダイレクトドライブとかいろいろあって、日本はシェアが高いのよ。スマホの工作機械なんかに使われてるんだけど、サービスロボットに応用することもできそうじゃない?」
粟田さんは、じーっと私のほうを見てきた。
「……香子ちゃん、工学部に彼氏いる?」
ドキぃ!?
「ななななんでそうなるの?」
「その知識、どこから仕入れたのかな、と思って」
いかーん、松平からの受け売りだった。
「ほ、ほら、サーボ機構ってすごく有名でしょ?」
「うーん、聞いたことないなあ……あ、そろそろお昼にする?」
セーフ、この話題は打ち切り。
私たちは学食へ移動した。晩稲田の学食は、入り口から順番にメニューを取っていくタイプだった。いたって普通。さすがに都ノよりは大きかったけど。私も粟田さんも、天ぷらうどんにした。お昼はこんなものよね。
食事中の会話は、後期の期末テストと、それから日常生活。
たまに最近あったイベントとか。
食べ終わった粟田さんは、口もとを拭きながら、
「午後はスピーチの部だね。全部聴く?」
とたずねてきた。
「うーん……とりあえずホールの席取りは、しといたほうがいいんじゃない?」
「位置が大事だね。出られないところに座ると、お手洗いに困りそう」
たしかに、うしろのほうにしますか。
私たちは食堂を出て、ホールへ向かった。
ホールは正面に向かって下がっていく劇場形式で、椅子もシートが可動式だった。
もうだいぶ混み始めていた。けど、ビジネスパーソンは比較的前に座っていた。
私たちはうしろから3番目の端っこに陣取った。
交互にお手洗いを済ませておくことにした。先に粟田さん。
私がパンフレットを見ていると、うしろの座席から声をかけられた。
「裏見さん、ちょっといいかな」
太宰くんの声──私は振り向こうとした。
「そのままでいいよ。ちょっと質問があるんだけど」
「……質問?」
「王座戦のとき、聖生についてなにか情報をゲットしなかった?」
私は「知らない」と答えた。
「そっか……佐田さんの動きが途絶えたんだよね。彼はもう聖生について調べていないみたいだ。なにか判明したのかな、と思ったんだけど……都ノはまだ調べてる?」
「聖生からアプローチがないから、特には……」
「そうだね、聖生のほうが動きを見せないから……じつは僕も手詰まりになってるんだ。もし都ノが今後も捜査を続けるなら、共闘しない?」
無意味な問いかけ。私に決定権はない──けど、太宰くんはそれを承知で話しかけてきているように思えた。なにか思惑があるようだ。
「……どういうつもり?」
「単に協力しよう、って意味だよ」
「私一人じゃ決められないこと、分かってるんでしょ?」
うしろで太宰くんは動いた。
すこし声が近くなる。
「僕は聖生の資金を追うのが確実だと思ってる」
聖生の資金──私は息を飲んだ。
「どうしてそう思うの?」
「ここからは僕が一方的に情報を出すよ……裏見さんたちも気づいてると思うけどね。今関東に出没している聖生は、おそらく偽物だ。本物は死んでる」
「そう推測する理由は?」
「聖生らしき人物が、事故で亡くなってたからだ」
「!」
私は喫驚した。思わず、
「どこで? 名前は?」
と尋ねてしまった。
「さすがに教えられないよ。情報をリークしてくれたひとに迷惑がかかるからね。信じなくてもいいさ。続きを話そう。聖生が死んだ以上、遺産をだれかが相続しているはずだ。おそらくは家出した娘と、佐田さんが出会った小学生の男の子。このふたり以外にこどもがいたかどうかは分からないし、妻が存命なのかも分からない。いずれにせよ莫大な遺産が……そうだな、N資金とでも呼んでおこうか。N資金がどこかに眠っているはずだ」
眠ってる? ……どういう意味かしら。
私は太宰くんの言い回しが気になった。
「眠ってるっていうのは? 遺産は相続されたんでしょ?」
「N資金はまだ表に出ていないと予想してる。どこかの銀行口座の中だ。ふつうなら株やベンチャーに投資するけど、それもされてない、っていうのが僕の考え」
「どうしてそう思うの?」
「聖生のこどもはまだ若い。後見人がいるはずだ。後見人の一存で資金を投資に回しているとは思えない。すくなくとも、大部分は現預金だと思う」
なるほど……後見人の可能性については、考えていなかった。
けど、私は太宰くんの結論部分に納得しなかった。
だって、そのN資金は──ううん、まだ即断するタイミングじゃない。
私は言葉を慎重に選んだ。
「……仮にそうだとしても、調べようがないでしょ」
「都ノに出没した聖生は、なにかお金について話してなかった?」
お金? 金銭トラブルはあったけど、聖生個人の銀行口座は──ん?
私は過去のできごとを、よくよく思い出してみた。
将棋部の銀行口座、野球部の銀行口座……だけよね、問題になったのは。
ただ、なんかもやもやする。
「……なかったわ」
太宰くんの軽いタメ息が聞こえた。
「そっか……了解。もし都ノが協力してくれるなら、また連絡してよ」
椅子のシートが跳ね上がる音。太宰くんは立ち上がったようだ。
ふりかえると、ちょうど粟田さんが入り口に戻ってきていた。
ふたりは途中ですれ違い、粟田さんのほうはオヤッという顔をしていた。
席に戻ってきた粟田さんは、
「さっきのひと、知り合い?」
とたずねてきた。
「晩稲田の将棋部のひと」
「あ、そうなんだ……じゃ、今度は私がお留守番だね」
私はカバンを持って席を立った。
銀行口座……なぜか記憶に引っかかる。
なんだったかしら。思い出せない。