26手目 ベスト32の壁
商店街を通り抜けながら、私たちは見知らぬ土地をさまよっていた。目印は、スマホの地図と、周囲を歩く仲間っぽい人たちの往来のみ。駅を出発して、はや5分。勝手の分からない土地だと、これだけで精神的プレッシャーだった。
「松平、ほんとにこっちでいいの? どんどん中心街から離れてるわよ?」
「ナビが正しければ、合ってるはずだ」
「キャンパスが全然見えないんだけど?」
「高層ビルじゃあるまいし、遠くからじゃ識別できないだろう」
それも、そうか――大学と言っても、建築様式はさまざまなようだ。最寄り駅から近いとも限らない。都ノも治明も日センも電電も近かったから、誤解していた。
「先輩たちと駅で待ち合わせしたほうが、よかったかも」
「大学生だからって、バラバラに行動することはなかったな。次回からそうしよう」
小田原線の最寄り駅には、いくつかの大学がまとまって集合していた。個人戦初日に見た面子もいたから、他大の将棋部で間違いないと思う。私たちは彼らのあとを追って、目的地を目指していた。
途中、かなり細い道に入って、私は不安になった。でも、そこを抜けたら、キャンパスが急に現れた。松平もスマホを見ながら、
「ここが、農産大学だな」
と確認してくれた。
裏門らしきところから中に入ると、右手にグラウンドが広がっていた。建物は、そこから左手のほうに集中している。農大だけあって、緑が多い。けど、畑みたいなものは、どこにもなかった。
「実際に農業やってるわけじゃないのかしら?」
「キャンパス内には、さすがにないだろ。べつの敷地だと思うぞ」
ふむふむ、松平の言う通りかもしれない。
私たちは、三宅先輩からのメールを確認して、控え室へと移動。ずいぶんと広い大教室が割り当てられていた。中を見回すと、三宅先輩は、前のほうに席を取っていた。
「おはようございます」
私が挨拶すると、三宅先輩はルーズリーフから顔をあげた。
「お、ふたりとも、ちゃんとつけたか」
「他大の背中にくっついて来ました」
三宅先輩はペンを置いて、バツが悪そうに、
「いや、悪かったな。次からは、待ち合わせ場所と時間を決めておこう」
と答えた。ま、いいんだけどね。最後はネット検索で何とかなる。
「風切先輩は、どちらですか?」
「風切なら、速水とスパーリングしに行ったぞ。別室にいる」
おっと、若干観たい気もする――けど、先にミーティングになった。
「今日の戦型チェックは、俺と裏見と大谷の3人で担当する。初日より楽なはずだ。選手の人数も減ってるしな。松平は対局があるから、自由にしといてくれ」
「了解です」
松平は、飲み物を買って来ると言って、教室を出て行った。
高校からの付き合いで分かるけど、ちょっと緊張してるみたい。
私は、大谷さんの消息をたずねた。
三宅先輩は周囲をチラ見してから、小声で答えた。
「大谷には、ちょっと偵察に行ってもらってる」
「偵察? もうトーナメント表は決まったんですか?」
「いや……聖ソフィアのことだ」
あ、そういう意味か――風切先輩に例の件を話したあと、同じ情報を三宅先輩にも落としておいた。三宅先輩は、風切先輩よりも気にしたらしく、いろいろと調べて回ったようなのだ。でも、成果はほとんどなかったらしい。
「明石くんが来てるかどうか、ですか?」
三宅先輩は、もういちど周囲を確認した。
「俺的には、明石よりも、バックにいるやつのほうが気になる」
「どうしてですか? 矢面に立ってるのは、明石くんだと思いますけど?」
「裏見の印象によると、黒幕のほうが、明石よりも強いんだろう? どうして個人戦に出て来ないんだ?」
「団体戦で戦力をごまかしたいから、だと思います」
それは納得できない、と三宅先輩は言った。
「将棋の強豪は、団体戦よりも個人戦を大事にする傾向がある。チームの実力をごまかすためだけに、自分のチャンスを不意にするとは思えないな」
「明石くんみたいに、団体戦だけ興味があるって子もいるんじゃないですか?」
「いや、そもそも明石は、そういうタイプじゃないはずだ。俺はその場にいたわけじゃないから、正確な台詞は知らないが、頼まれて将棋を指してる、って感じなんだろう? だとすると、事務的に指してるだけなのかもしれない」
「事務的に指すなんて、ありえなくないですか? 大学生ですよ? 高校で先輩に頼まれたから仕方なく、って子はいても、大学生でそれはちょっと……」
「だからこそ、俺は黒幕の正体が気になる。どんなカリスマなんだ?」
なるほど……そういうことか。三宅先輩の問題意識が、だんだん分かってきた。
「強豪カリスマリーダーだと、チームもかなり手強いことになりますね」
「ああ、それが一番心配で……っと、大谷がもどってきた」
ふりかえると、ちょうどこちらに歩いて来る大谷さんがみえた。
「裏見さん、おはようございます」
「おはよう。どうだった?」
大谷さんはもうすこし近づいて、同じく声を落としてから、
「聖ソフィアのメンバーは、だれも来ていません。控えテーブルもありませんでした」
と報告した。
「明石ってやつは、来てないのか?」
「拙僧、顔をじかに見てはいませんが、それらしきひとは、どこにも……」
三宅先輩は、テーブルに寄りかかった。
「となると、こっそり来るつもりか……」
「出過ぎた助言かもしれませんが、得体の知れぬチームを気にするより、目の前の個人戦に集中したほうが、良いのではありませんか。都ノは、松平くんと風切先輩が残っています。ベスト64のメンバーを偵察したほうが、有意義やも……」
ぐぅ正論。三宅先輩も、そのことを認めた。
「そうだな……団体戦を気にする段階じゃない。ベスト32を目指そう」
ちょうどそのとき、教室に幹事のひとが現れた。
「2日目のトーナメント表を作成しますので、会場に集まってください」
ナイスタイミング……でもないか。松平と風切先輩がもどってきてない。
「私、ふたりを捜して来ます」
「風切のほうは、大丈夫だろう。速水と一緒にいるはずだ。松平を頼む」
私は教室を出て、松平を捜しに行った。飲み物を買うって言ってたわよね。
自販機は、建物のそとにあったと思う。
玄関を出ると、談笑している松平を発見した。相手は日センのメンバーみたい。奥山くんもいて、ふたりでジュースを手にしていた。
「松平、抽選が始まるわよ」
「お、もうそんな時間か。悪い」
奥山くんも64に残っているらしく、一緒に会場へと向かった。会場は、控え室よりも小さな作りだった。今回も複数会場制のようだ。選手が集まったのは、そのなかでも幹事ブースが設けられている場所だった。八千代先輩の姿もあった。
黒板には、トーナメント表がチョークで書かれていた。数枠埋まっている。
「もう始まってるのかしら?」
「いや、アレは幹事枠だよ」
と奥山くん。私は、どういうことかと尋ねた。
「関東将棋連合の幹事は、無条件で2日目から出場なんだ。シードだね」
「え? それってズルくない?」
「そんなことないよ。幹事はほんとに大変だから」
うーん、納得いかない。
ただ、すこしだけ疑問は解けた。というのも、初日のデータを整理していたら、2日目出場者は50人くらいしかいなかったからだ。ベスト8のシードを抜いても足りないな、と思っていた。ようするに、ベスト8+幹事枠の残りを争ってたわけね。
「それでは、大学別に引いていただきます。帝国大学からどうぞ」
ぞろぞろと、ひとが動き始めた。
「これは、なに順?」
「A級1位からだよ」
「あ、そういう……でも、来たひとから引いておけばよくない?」
「1日目と2日目の初戦は、同一大学にならないようにするんだ」
へぇ、個人戦だから所属は全然関係ないと思ったけど、そうでもないのね。
晩稲田、大和、八ツ橋の順に、有名な大学がどんどん消化されて行く。
日センも呼ばれて、奥山くんはそばから去った。
「次は、Bクラスです。慶長からどうぞ」
慶長って、Bなんだ。ほんとに学歴順じゃないのね。
大学数が多いから、Dクラスに回って来るまで、時間がかかった。
待ちくたびれてきたところで、幹事はメモを見ながら、
「えーと、聖ソフィアは……なし、と。最後に、都ノの選手、お願いします」
ああ、ようやく回って来た。残り枠は2で、どちらになるかの選択でしかない。
だけどその選択に、会場は若干ざわついた。
「おいおい、これ、土御門と風切なんじゃないか?」
「初戦から大一番かもな」
私は、トーナメント表を確認した。
残っている枠は、慶長の知らない学生と、八ツ橋の土御門先輩のとなりだけ。
土御門先輩は、窓際で扇子をパチパチさせていた。いつものおどけた感じはない。都ノのメンバーの抽選を、じっと注視していた。
「松平、俺は残りものでいいぞ」
「いえ、先輩が先に」
「……分かった」
幹事のひとが、箱を差し出した。風切先輩は腕を突っ込む。
残りふたつしかない番号札を、あっさりと引き抜いた。
「34」
どよめきが起こる――慶長のほうだ。
慶長のグループからは、「マジかあ」という悲鳴が聞こえた。
一方、最後のひとりになった松平は、
「これ、引く必要ありますか?」
とたずねた。幹事は、念のため、と言って、松平に札を引かせた。
「19です」
案の定というか当たり前というか、松平は土御門先輩の山に入った。
いやあ……こっちも、「マジかあ」って感じ。いきなり七将と対戦。
「それでは、黒板にあるように、分かれてください。担当幹事が手続します」
男性幹事は全員選手だから、女性幹事だけが残った。
この教室の担当者は、八千代先輩だった。
「裏見は、ここの教室を頼む」
三宅先輩はメモ帳を片手に、移動を始めた。
「分かりました」
「松平の応援も、してやれよ」
三宅先輩はそう言ってニヤリとしてから、教室を出て行った。
だから、そういうのは――まったく、私は松平のテーブルへ移動する。
ふたりとも、既に着席していた。
「松平くん、だったかの……よろしく頼むぞ」
土御門先輩は扇子をひらいて、パタパタと扇ぎ始めた。
「こちらこそ」
松平も、気合い負けしている気配はない。頑張れ。七将の肩書きに負けるな。
「それでは、時間も押していますので、振り駒をお願いします」
八千代先輩の指示で、振り駒。松平は土御門先輩にゆずった。
「では、年の功ということで……ほれ」
表が4枚。土御門先輩の先手。
土御門先輩は、純粋居飛車党ってことだけ分かっている。
七将レベルになると、ネットに棋譜の一部が転がっていた。
「対局準備の整っていないところはありませんね? ……それでは、始めてください」
「よろしくお願いします」
お互いに一礼して、対局開始。私は、先に仕事を済ませる。
ベスト64の段階だから、全部で32局。この教室は、11局のみ。
順番に見ていく。ここは相振り、ここは相矢倉、ここは横歩、ここは力戦……よし、これでいいわね。風切先輩は他の会場だし、あとは部員を応援するだけ。
戻ってみると、局面はすこし進んでいた。
角換わり――しかも、腰掛け銀模様。
最初の駆け引きは見ていないけど、このふたりなら高確率でありえるかたちだった。
4七銀、6三銀、6八玉、5二金、5八金、4一玉。
土御門先輩は10秒ほど考えて、9六歩と打診した。
松平は、すぐに9四歩と突き返す。
「こっちは、どうじゃ?」
土御門先輩は、反対側の端歩を突いた。
「それも突き返します」
1四歩、7九玉、3一玉、5六銀、5四銀、3六歩、4四歩。
指し手が早いわね。松平、あんまり上級者のスピードに合わせちゃダメよ。
3七桂、7四歩、6六歩、7三桂、2五歩、3三銀。
ここでようやく、土御門先輩の手が止まった。
扇子をパチリと閉じて、口もとに添える。将棋を指してるときは、やっぱりオーラが違うわね。先輩の衣装は、今日も狩衣。色合いが少し違っていた。赤いラインが、縫い目にうっすらと見えている。考えて首をひねるたびに、紙で結んだ後ろ髪が揺れた。
「ふぅむ……腐るほど指された局面じゃが……先手なら、攻めて損はなかろう」
土御門先輩は、いきなり4五歩と仕掛けた。42173の法則。
「同歩です」
「2四歩」
「同銀」
「これも取るか?」
土御門先輩は、端ではなく7筋に手を伸ばした。
427――1筋を省いた。
松平は、ここで小考した。
土御門先輩の狙いは、4五歩、同歩、2四歩、同歩、7五歩、同歩に4五桂と単に跳ねる順だと思う。そこで7四歩があるから、後手は6三金と受けるか、あるいは8六歩と攻めるのが普通。端歩の省略で、若干後手の方針も変わってくる。
じつは、橘さんに負けたあと、角換わりを勉強し直したのだ。受験勉強のあいだに、将棋界はいろいろと進化したらしい。本譜も、従来の常識とは異なっている。
「……同歩です」
松平は、歩を回収した。当然の一手。
むしろ、先を読んでいたのだと思う。
土御門先輩は、パチリと扇子を閉じた。
「いかなる物の怪が都ノに集うたか……見せてもらおう。4五桂じゃ」