260手目 大いなる遺産
期末試験最終日──
*** ミクロ経済1 ***
【問1】
(1)限界効用を数学的に定義しなさい。
(2)第1財xと第2財yについて、効用関数u=x^2y^3が成り立つと仮定する。
第1財の限界効用はいくらか。
(3)限界代替率を数学的に定義しなさい。
(4)(2)の式について、xに対するyの限界代替率を求めなさい。
えーと、まず限界効用っていうのは、効用関数の特定の財に着目して、その財の消費量について偏微分したもの、よね。視覚的に考えると、その財の消費量と効用の関係を表すグラフを描き出して、その接線の傾きを求めたもの。これが(1)の答え。
(2)の答えは、xで偏微分するわけだから、
∂u/∂x = 2xy^3
ね。複雑な関数じゃなくて助かる。
(3)はこれを応用して、xとyの無差別曲線を考える。で、その無差別曲線の接線の傾きが限界代替率……あ、これじゃ足りないか。その無差別曲線の接線の傾きの【絶対値】が限界代替率だ。これが解答。書き書き。
(4)はこの定義から求まる。つまり、
(∂u/∂x)dx + (∂u/∂y)dy = 0
のときに効用が変化しなくなるから、
(∂u/∂y)dy = -(∂u/∂x)dx
dy/dx = -((∂u/∂x)/(∂u/∂y))
dy/dx = -(2xy^3)/(3y^2x^2)
dy/dx = -2y/3x
この絶対値だから2y/3x
次の問題は──
○
。
.
かくして成敗完了……したはず。
ふぅ、疲れた。
最後の試験科目を終えた私は、そのまま部室へ寄った。
しばらく来てなかったけど、だれかいるかしら。
ドアを開けると……風切先輩がソファーで寝ていた。
ほかには星野くんと穂積お兄さんがいて、将棋を指していた。
穂積お兄さんは顔をあげて、
「あ、ひさしぶり、テスト終わったの?」
とたずねてきた。
「はい……静かにしたほうがいい感じですかね?」
「え、どうして?」
「風切先輩が寝てるので……」
「ああ、隼人ならそろそろ起きるんじゃないかな」
そのときだった。ソファーのほうから、
「もう起きてるぞ」
と言う声が聞こえた。見ると、風切先輩が上半身を起こしていた。
先輩は大きく背伸びをして、
「ふぁああ……よく寝た」
と言い、ほどいていたうしろ髪を結び始めた。
私は「おはようございます」と言ってから、
「午前中にテストがあったんですか?」
とたずねた。
「いや、テストは昨日で終わってる……重信、頼んでたやつはできたか?」
穂積お兄さんはノートパソコンを指差して、
「できてるよ。最終チェックをよろしく」
と言い、また将棋を再開した。
風切先輩は立ち上がって、テーブルについた。
パソコンを操作し始める──なにをやってるのかしら。
怪しい動画を観てるんじゃないでしょうね。ちらり。
画面には、白黒のよくわからない画像が映し出されていた。
幾何学模様っぽい? でもアートには見えない。
「……なんですか、これ?」
風切先輩はマウスを操作しながら、
「タンパク質の拡大写真だ」
と答えた。
「タンパク質? ……タンパク質でなにをしてるんですか?」
「構造を機械学習させてる」
??? よく分からない。
私は根掘り葉掘り聞いてみた。
風切先輩の回答は、
「ようするに、タンパク質の配列を学習させてるんだ」
というものだった。
「学習させるとなにが起こるんですか?」
「させるとだな……星野、説明してくれ」
なぜか急に丸投げに。
星野くんはチェスクロを止めて、
「あ、えーと、僕もよく分かってないんだけど……ゲノミクスに使えるらしいよ」
と教えてくれた。
「ゲノミクス?」
「ゲノムを研究する分野」
ゲノム……ゲノミクス……なるほど、エコノミクスと同じ感じか。
「ゲノムを研究するって、なにをするの?」
「有名なのはゲノム解読だよね。ウイルスなんかのゲノムを全部解読して、その遺伝情報を突き止めるんだよ。どの配列がどの機能とつながっているか、そういうことが分かればいろいろと嬉しいよね」
……ふむ、なんとなく理解した。
たとえば私の遺伝情報を解読すると、どうしてこういう身長とか顔つきになっているのかが分かる、というわけか。人間だと難しいかもしれないけど。
ただ、かえって疑問が生まれた。
「風切先輩は、どうしてゲノミクスに興味を持ったんですか?」
「頼まれ仕事だ。転向したわけじゃないぜ」
頼まれ仕事? またずいぶんと難しいことを引き受けてるのね。
そう思った瞬間、私はハッとなった。
「もしかして、例のわりのいいバイト……ですか?」
「ああ、そうだ。帝大のプロジェクトで、ゲノムと機械学習をやりたいらしい。いろいろ外注してるんだとさ。俺は統計担当で、実装は重信に下請けしてもらった」
なるほど、そういうツテだったのか。
どこからお金が湧いているのか謎だったけど、ちゃんとしたところなのね。
ただ、ちょっと気になることがあった。
「風切先輩、氷室くんのお父さんと親しいんですか? 依頼されたんですよね?」
「んー、親しいっていうか、氷室経由で昔から知ってる」
なるほど……まあそうでないと頼まないわよね。帝大にも数学専攻の学生はいるだろうし、わざわざ外注する必要もない。しかも学部生に。風切先輩がよほど信頼されてるってことだ。データとか横流しされたらマズそうだし。
私がそんなことを思っていると、うしろで将棋の決着がついた。
穂積お兄さんが投了。
「負けました。最後、受けたほうがよかったかな」
「そうですね。金を打って……」
感想戦が続くなか、風切先輩はデータのチェックに余念がない。
そして、ひざをパンと叩いた。
「よしッ! 完璧だ、サンキュ」
風切先輩はパソコンをカバンに仕舞った。
「それじゃ、帝大のキャンパスへ行って来る。また今度な」
はーい、お気をつけて。
風切先輩は退室し、あとには3人だけが残った。
私はカバンから教科書を取り出して、テストの自己採点。
感想戦もだいたい終わったところで、穂積お兄さんはスマホを確認した。
「そろそろ八花のテストも終わりかな……じゃ、僕もこのへんで」
あいかわらずですね。
こうして、部室には私と星野くんだけになった。
ひさびさに対人で指しますか。
「一局指す?」
「そうだね」
駒を並べて対局開始。30秒の練習将棋。
角換わりに誘導したところで、星野くんは、
「裏見さんって、H島出身だよね?」
とたずねてきた。
「そうよ」
「お正月はこっちにいたの? 高尾山で初詣したって聞いたけど?」
「試験勉強があるから、帰るのは春休みにしようかな、って」
「そっか……新幹線代もあるしね。それとも夜行バス?」
女の子ひとりで長距離バスは、ちょっとためらわれる。
となりに誰が来るか分かんないし。
「そう言えば、星野くんって実家通い? それともどこかに下宿してるの?」
「僕はS玉から通ってる」
あ、そうなんだ……自然な成り行きで訊いちゃったけど、初耳だ。
「どのくらいかかるの?」
「2時間くらい」
遠ッ! それともこれが都会の感覚?
通勤電車ならぬ通学電車。
それにしてもS玉だったのか……これで出身地が不明なのは、ひとりだけになった。
「……風切先輩がどこ出身か、星野くんは知ってる?」
こっそりと尋ねてみた。
星野くんは、「ん?」という顔をして、
「風切先輩は……分かんない。東京じゃないと思うけど」
「どうして?」
「この近くにマンション借りてるんでしょ? K奈川でもないと思うな」
そっか……たしかにそうだ。
私は王手をかけながら、今の指摘について考えをめぐらせた。
○
。
.
入学前から知ってるひと
松平 同郷
三宅 同郷
大谷 T島県
入学後に会ったひと
風切 不明 東京近辺ではない?
穂積兄妹 東京(祖父母の家に下宿。実家は都内)
星野 S玉
ララ ブラジル
うーん……最後のピースが埋まらない。
手帳を見ながら頭を抱えてしまう。
すると正面に座っていた松平が、
「さっきからなに見てるんだ?」
と尋ねてきた。
ここは立川の喫茶店。
とりま試験明けのデートなわけですが……どうも気になることがある。
「聖生を名乗ってる人物は、やっぱり関東にいると思うの」
松平は、飲みかけのコーヒーを皿に置いた。
「状況証拠的には、そうだろうな。遠隔でこっちを監視するのは難しい」
「ただ、オリジナルの聖生は関西で活動してたっぽいのよね」
「折口はK都で会ってるもんな」
「結婚相手もM重出身だし」
松平は「たしかに」と言ったあと、
「別の地域から関西に来てただけ、って可能性はあるけどな」
とつけくわえた。
そう、そこなのよね。
佐田店長の話によると、オリジナルの聖生に訛りはなかったらしい。
偏見かもしれないけど、関西の人は訛りが抜けにくい印象がある。
K都やO阪にずっと住んでいた、ってことはないんじゃないかしら。
私は手帳をひらいたまま、
「佐田店長の発言を信じるなら、オリジナルの聖生は方言が身につかない地域、例えば東京かその周辺の出身だと思う。K都にいたのはたまたま、かな」
と推測した。
「そこまで絞れるか?」
「宗像さんが東京で道場を経営してるのも、それで説明がつかない?」
松平はこの指摘に意表をつかれたらしい。
すこし考え込んでしまった。
「そうか……宗像さんが聖生の娘なら、家出をしてたわけだよな。そんな状況であの古い建物を手に入れられるとすれば、もともと聖生が持っていた不動産を相続した……というのが一番現実的か」
「でしょ。宗像さんは席主代理を自称してる。でも席主が実際に現れたことはないの。前の所有者だった父親のことを、そうごまかしてるだけかもしれない。そう考えると、宗像くんの私生活にも説明がつくと思う」
「というと?」
「彼、お父さんから大金を相続してるんじゃない?」
私の推理はこうだ。
オリジナルの聖生、つまりリーマンショックを当てた聖生は死んだ。
奥さんはおそらく先に亡くなっている。
この場合、宗像姉弟が遺産を総取りできる、と穂積さんに教えてもらった。
聖生はリーマンショックを予言しただけで、自分では投資しなかった──とは考えられない。おそらくかなりの額を儲けているはずだ。それを2人で折半したら? 宗像さんも宗像くんも、すごいお金持ちなのかもしれない。銀行口座に何億……ひょっとして何十億と入っている可能性もあった。
私の推理を聞き終えた松平は、
「仮にそうだとしたら、今関東に現れている聖生は単なる愉快犯になるよな」
と言った。
「そこが疑問なのよね……オリジナルの聖生に知り合いがいた可能性は?」
「知り合い? ……佐田と折口以外にもいるってことか?」
「聖生は世捨て人みたいな生活をしていたけど、そのふたりとしか面識がなかったとは考えられないわ。むしろ将棋界にだれか知り合いがいてもおかしくなくない?」
松平は、ちょっと唖然としていた。
もちろん、この推理が突拍子もないことは分かる。
でも、当たっているとしたら? 宗像姉弟と聖生のつながりを知っているひとが、ほかにもいて……そしてふたりが莫大な遺産を相続したことを突き止めているとしたら?
松平は深刻そうな顔で、コーヒーを飲み直した。
「……ただ、うちを狙ってたこととつじつまが合わなくないか?」
「ううん、逆よ」
「逆?」
「むしろつじつまが合うの。犯人は都ノ大の将棋部を潰したかった……なぜ? 風切先輩が将棋を通じて、宗像さんとヨリを戻すのを嫌ったんじゃない?」
「ヨリを戻すのを嫌った? ……まさか、それって……」
そう……ここまでの推理から導き出される結論は、ひとつ。
そしてその結論は、これまでの私たちの憶測が、楽観的過ぎたことを意味していた。
「犯人は聖生の遺産を狙ってる……そう考えられない?」