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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第42章 1年の終わりへ(2017年1月1日日曜)
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259手目 願いごと

※ここからは、香子きょうこちゃん視点です。

 というわけで、けっきょく申命館しんめいかんがあっさり優勝してしまったわけですが……2日目はとくに見どころもなく終了。晩稲田おくてだが2位、帝大ていだいが3位という結果だった。宗像むなかたくんは最後まで出てなかったけど、2日目の申命館は下位陣営との対局しか残ってなかったから、どこも止めようがなかった。私たちは閉会式のあと、すぐに東京へもどった。

 くりかえしになるけど、収穫はあった。宗像くんはおそらく聖生のえるJrで……たぶん関東の事件の犯人じゃない。すくなくとも直接手はくだしていない。佐田さだ店長が聖生のえるの追跡をやめた以上、あとは私たちで解決するしかなくなった。それとも、もう解決しなくてもいいのかしら。それすらもよくわからなくなってしまった。

 いずれにせよ年も明けまして、ここはこがらし吹きすさぶ、冬の高尾山たかおさん

 私たちは初詣に来ていた。

 メンバーは私と松平まつだいら三宅みやけ先輩と風切かざぎり先輩、それにララさん。

 大谷おおたにさんは不在。ほかに先約があるらしかった。

 おそらく神崎かんざきさんでしょうね。

 穂積ほづみ兄妹は、両親の家へ帰省しているらしい。当然といえば当然の過ごし方。

 星野ほしのくんはほかの友だちに誘われていると言っていた。

 というわけで、残りのメンバーで午前中に集合。

 みんな厚着はしていたけど、ラフなかっこうだった。

 私も普段着のスカートに冬物のニット、そのうえにコートとマフラー。

 せっかくだから登ろうか、という案もあったけど、風切先輩がムリそうなので却下。

 去年の合宿でも、ちょっと坂を登ったらバテてたし。

 ケーブルカーで途中まで上がって、そこから徒歩に。

 ところがこのルートもアウトみたいで、薬王院やくおういんについた風切先輩は、

「ハァハァ……もうダメだ」

 と、疲れ切っていた。

 完全にインドアなのね。それともなにか体質なのかしら。

 ひとの健康にはあまり突っ込まないほうがいいか。

 薬王院は伊勢神宮とちがって、彫刻の多い建物だった。

 なんというか、ザ・神社って感じ。

 すごい人出で、前に進むのも大変。

 先頭の三宅先輩は、

「迷子になるなよー」

 と言って、ルートを確保。

 常香炉じょうこうろで煙を浴びて、階段を牛歩。ようやく本堂のお賽銭箱前に到着。

 お金を入れて、二礼二拍手。

 今年もいい年でありますように。それから──

 あれこれお願いをして、それから売店へ移動。

 ララさんは物珍しそうにしながら、

「ねえねえ、このテングってなに? 日本のモンスター?」

 と訊いてきた。

「んー、妖怪の一種みたいだけど……大谷さんに訊いたほうがよくない?」

「Sim, isso é verdade……おばあちゃんの知恵袋」

 お、おばあちゃんがじゃないと思うんだけど。

 とりあえず、おみくじでも引いて行きますか。

 筒を振って棒を出すタイプだった。どれどれ。

「……81番」

 将棋のマス目だ。

 店員さんから渡された紙をひらく──ぐはッ、凶!

 【前途多難】の文言。

 となりからのぞきこんだ松平は、

「ん、凶か……かえって縁起がいいんじゃないか?」

 と、これまたテキトウなコメント。

 もう、ひとごとだと思って。

 おみくじを結ぶ専用の紐があったので、そこに結んでおく。

 それから下山して、ちょうどお昼どきになった。

 三宅先輩は、

「せっかくだから、なにか食べてかないか?」

 と提案した。

 こういう流れになるかな、と思っていたので、お腹は空かせてある。

 私たちは近くのお蕎麦屋さんに入った。

 そういえば高尾山は、お蕎麦で有名だった気がする。私はうどん派だけどね。

 めいめい注文をした。

 私は松平のとなりで、メニューをみていた。

「……私はとろろ蕎麦かな」

「俺は天ぷら蕎麦」

 全員注文を終え、しばらく雑談。

 ララさんはテーブルのうえに身を乗り出して、

「ねえねえ、みんなこういうところでなに願いしてるの?」

 とたずねてきた。

 こらこら、そこは言い出しっぺの法則でしょ。

 私は「ララさんはなにをお願いしたの?」とたずねた。

「ブラジルのみんなの元気、かな。でもブラジルは日本のカミサマの圏外かも」

 んー、どうなんだろ。

「香子は?」

「今年もいい年でありますように、よ」

「ごまかされた気がするぅ」

 細かく詮索しない。

 三宅先輩は「俺は単位だな」とのこと。切実。

 松平もなんかあいまいに「いい一年だといいな」と答えた。

 最後、風切先輩の番になった。

 風切先輩は答えにくそうな顔をしていたので、ララさんは、

「あ、べつにナイショならナイショでいいよ〜」

 と言った。

「べつにナイショってわけじゃないんだが……あんまり他言しないでくれ」

「だいじょうぶだよ。そもそもララ、数学科に知り合いいないし」

「いや、こういうのはどこで漏らしても最後は伝わるからな……俺は日頃、資格試験を目指してるって公言してる」

 え、そうなんだ。数学の資格ってなにがあるのかしら。

 三宅先輩も疑問に思ったらしく、

「数学の資格ってなんだ?」

 と質問した。

「数学の資格じゃなくてアクチュアリーっていう保険の資格だ」

「保険? ……保険に興味があるのか?」

 いやいや、三宅先輩、そこは驚くところですよ。経済学部でしょ。

 私は、

「金融関連の最難関資格ですよね?」

 とコメントした。

「ああ……ほかと比べてどれくらい難しいかは言えないんだが、平均的に8年くらい勉強しないと取れない資格らしい。たしか日本だと五千人もいないはずだ」

 三宅先輩もようやく察して、

「なるほどな、それなら食いっぱぐれないか……だけど、金融には興味ないって言ってなかったか? 俺の記憶違いかも知れんが」

「いや、部室でも言った覚えがあるから*、記憶違いじゃないぞ。金融に興味はない」

 ん? ……話がよくわからなくなってきた。

 風切先輩は、うしろで束ねた髪をなでた。

「ほんとうは院進したいんだよ」

 あ、そういう……それは悩ましそう。

 松平は、

「修士はいいんじゃないですか? 俺も修士は行く予定なんですが」

 と言った。

 え? それは初耳なんだけど。

 私は思わず、

「松平、院進するなんて言ってた?」

 とツッコミを入れた。

 松平は「え?」ときょどって、

「いや、まあ3年後のことだしな……」

 と弁明。

 すると三宅先輩が、

「おーい、そこのふたり、将来設計はちゃんとしておけよ」

 と、またいらぬお節介。三宅先輩はそろそろお仕置きが必要ですね。

 周囲のノイズをよそに、風切先輩はタメ息をついた。

「俺は博士まで行きたい」

 松平はちょっと気が引けたような顔をした。

「そうですか……余計な心配かもしれませんが、ドクターコースは就職が……」

「ないんだよな。ただ、行かないと後悔する気がしてる」

 そのひとことに、みんな押し黙った──そう、風切先輩は一度後悔している。

 奨励会を続けなかったことに。じぶんが好きなことを一度捨ててしまったという経験。その経験が、風切先輩の迷いに現れているような気がした。

 風切先輩はうしろ髪を撫でるのをやめた。

 パッと雰囲気を変える。

「ま、俺の個人的な話だ……っと、蕎麦が来たぞ」


  ○

   。

    .


 【問題】

 (1)購買力平価が成り立つと仮定する。

    自国の物価水準が2、外国の物価水準が4のとき、

    自国通貨建てレートで名目為替レートはいくらになるか?

 (2)購買力平価が成立しないようにみえる場合、

    その要因にはどのようなものが考えられるか?

    

 うーん……(1)は瞬殺で、(2)も見当がつくんだけど……。

 休み明け図書館で、私は問題集を解いていた。

 しばらく頭をひねっていると、うしろにひとの気配がした。

 ふりかえると、粟田あわたさんが立っていた。

「ごめん、香子ちゃん、邪魔しちゃった?」

「ううん、ちょっと考え事してただけ」

 粟田さんも教科書とノートを持っていた。

 私はとなりの席を勧めた。

 粟田さんはちらりと問題をみて、

「……PPPだね。基礎問?」

 と言った。

「そうなんだけど、いろいろわかんないことがあるのよね」

 粟田さんはちょっと意外そうな顔をして、

「香子ちゃんなら簡単じゃない?」

 と言った。

「んー、答えは分かるんだけど……(1)は2分の1だし……」

「だよね、購買力平価が成り立ってるなら、自国の物価水準を外国の物価水準で割ったものが、自国通貨建ての為替レートだよ」

 そう、そこは分かる。

 例えば日本とアメリカで同じジュースを売っていると仮定する。

 このとき、日本では100円、アメリカでは1ドルだと仮定する。

 同じジュースだから、価値は一緒。

 よって日米間の為替レートは1ドル=100円で均衡する。

 これが購買力平価の基本的な発想。

 そしてその問題点も明確。

 私はペンを置きながら、

「じっさいには財の価格を直接比較できないから、物価指数で比較するのよね。物価指数は計算のウェイトが各国で違ってて、正確な比較になってないわ」

 と(2)の解答を説明した。

 粟田さんもうなずきながら、

「そうだね。それに現実の貿易はコストもかかるし、なにを貿易するのかについても制限があるから、短期では購買力平価は成立しにくいよ」

 と言った。

 ここまではいい。けど、この先がよくわからない。

「日本が低インフレで円安なのも、短期のギャップなのかしら?」

「え、どういうこと?」

 私はペンをとって、ノートに書き込んだ。

「例えば、ものすごく単純化してこう仮定するわね」


 2006年のジュースの価格

  日本100円 アメリカ1ドル

 2016年のジュースの価格

  日本100円 アメリカ1.2ドル

  

 粟田さんはこれをみて、

「10年で日本はインフレなし、アメリカは20%インフレだね」

 と理解してくれた。

「この場合、購買力平価が成立すると仮定したら、2006年の円建て名目為替レートは1ドル100円よね。2016年は1ドル80円くらいにならない?」

「……そうだね」

「だけど、実際の為替レートの推移は逆なのよね。日本は低インフレなのに、ここ数年はずっと円安傾向になってるわ。日米間のインフレ率が逆転したわけじゃないでしょ。円高傾向はもっと続いていないとおかしくない? IMFの発表では、去年の購買力平価が1ドル103円くらいらしいの。でも、一時期120円を超えてなかった?」

 粟田さんは、ちょっと考え込んだ。

「……それはアレじゃないかな、民民みんみん党のときに円高を放置した反動じゃない?」

「『円高を放置した』っていう言い方はおかしくない? 放置されたら均衡に向かうだけなんだから、政府が不自然な状態を作ってたわけじゃないと思うんだけど?」

「んー、そっか、仮に反動だとしても、均衡レートに戻るだけで、それよりも円安になる理由にはならないね……じゃあ金融緩和かな?」

「貨幣量は為替レートに直接影響を与えなくない?」

「……だね。物価水準を押し上げたときに間接的に影響を与えるだけだね」

 粟田さんも疑問を共有してくれたみたいで、

「日米間では短期的に逆の傾向が発生してるのか……不思議」

 とつぶやいた。

 そうなのよね、不思議。

 モデルと現実が一致していないのって、なんだかもやもやする。

 まあマクロ経済の基礎なんて、じっさいには経済学者が研究しているものをだいぶ簡略化したものだとは思う。使ってるパラメータが少ないし、モデルと実証研究では差が出るということも、くりかえし強調されていた。けっきょくここ数年の円安だって、短期的にギャップが発生しているだけ、という説明でカタがつく。

 けど、数学みたいにもっとパッと割り切れないのかしら。

 大学生になって、ものごとがますます分からなくなった気がする。

 なぜ? 私がタメ息をつくと、粟田さんは、

「人生も短期と長期だよ。ひとまず短期は期末テストだね」

 と、残酷な笑みを向けてきた。

 ぐぅ、とりま単位を取るしかないか。

 期末テストたち、覚悟しなさーいッ!

*194手目 聖生の正体?

https://ncode.syosetu.com/n0474dq/194/

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