藤堂司の休息
※ここからは、藤堂くん視点です。
幹事の懇親会も終わり、俺はひとりでバーに来ていた。
去年たまたま見つけた店だ。
あのときは先輩の幹事と一緒だった。今夜はひとり。
俺が入り口を開けたとき、他の客はいなかった。クリスマスシーズンだからだろうか。家庭がある者は帰宅し、カップルはもっとべつの場所で過ごしているのかもしれない。
すっかり白髪になった老年のマスターは俺をみて、
「こんばんは……おひさしぶりですね」
とあいさつした。
すこし驚いてカウンターに座ると、
「今年も将棋のイベントですか?」
とたずねてきた。
覚えているものなんだな。
「ええ……ウイスキーをストレートで。銘柄はお任せします」
マスターはグラスを取り出した。
俺は店内を見回す。
色とりどりの酒瓶が、やわらかな照明に輝いていた。
グラスとチェイサーが出されて、俺は早速口に含んだ。
ドライで、すこしばかり刺激が強かった。ウイスキーの香りが鼻に抜ける。
マスターは、
「今夜はおひとりですね。昨年いらしたご友人は、ご卒業なさいましたか?」
とたずねた。
「いえ、まだ4年生ですが、今年は来ていません」
「あのかたはお酒を飲まれませんでしたが、愉快なかたでしたね」
そう、あの先輩は下戸だった。
俺が酒好きだから、気を利かせてくれたのだろう。
今になってそう思う。いつも感謝が遅過ぎるな、俺は。
チェイサーに口をつけた瞬間、入り口の鈴が鳴った。
ふりむくと、意外な人物が立っていた──関東の前会長、入江だった。
入江は、
「おっと、これは奇遇だ」
と言い、勝手に俺の右隣に座った。
俺はメガネをなおしながら、
「どういう風の吹き回しだ?」
とたずねた。
「二次会なしで解散しちゃったからさ、飲み足りなくてね……あ、すみません、こっちにもウイスキーのストレートください」
マスターが準備をしているあいだ、俺は入江に小声で、
「だれから聞いた?」
とたずねた。
「なにを?」
「とぼけるな。奇遇じゃないんだろう」
入江は答えなかった。
店の情報をどこからか仕入れて来たのだろう。
こいつが関東の会長で一番怖かったのは、その情報収集能力だった。
グラスとチェイサーが出る。
入江はグラスを持ち上げて、
「とりあえず、乾杯しようか」
と言った。
「乾杯? 申命館の優勝でも願ってくれるのか?」
「会長という重荷から解放されたお祝いさ」
俺は苦笑した。
今朝まで会長だったのに、すっかり失念していた。
「わかった……おつかれさん」
ふたりでグラスを合わせる。入江はひと口飲んで、
「ふぅ、やっぱりストレートはキクね」
とつぶやいた。
「おいおい、はったりで注文したのか?」
「ウイスキーは好きだよ。今夜は酔っても大丈夫だ。明日は風切くんに任せる。藤堂前会長こそ、2日目はレギュラーから外れるつもりなのかい?」
「ウイスキーの1、2杯で、翌日の将棋に支障は出ない」
俺はグラスを置いた。
以前から気になっていたことをたずねる。
「風切は自分で復帰したのか?」
もうひと口飲もうとしていた入江は、手をとめた。
「自分で? ……ああ、自発的に復帰したのかってこと? そうなんじゃないかな」
「くわしいことは知らん、というわけか?」
入江は笑った。
「そりゃそうだよ。僕は風切くんのストーカーじゃないから」
「率直に訊くが、風切の復帰と聖生の復帰は関係があるのか?」
入江は、すこしばかり韜晦めいた表情になった。
グラスを持ったまま、カウンターにひじをつく。
視線を酒瓶の棚にむけた。
「……ずいぶんと率直に訊いたね」
「東西に関所があるわけじゃないんだ。いろいろと情報は入ってくる」
「うーん……わからない、としか言いようがないかな」
俺は入江をみた──嘘をついているようには見えなかった。
が、実際には分かりっこない。
「事件性があるのか?」
「それは事件性の定義次第だ」
たしかに、正論だ。
だれかが逮捕されたという話は聞いていない。
警察が介入したという噂もない。
ただのイタズラかなにかで、大したことがないのだろう。
それとも、だれかが退学になったというオチか。
いや、それならさすがに噂が立つ。
入江はまた酒を飲んで、それから、
「関西にアレは出てないの?」
とたずねてきた。
「そういう話は聞かん」
「さっきのやり返しってわけじゃないんだけど……宗像くんの登場とアレの復帰には、なにか関係があるのかい?」
痛いところを突いてくる。
そういう疑いが出ているのは耳にしていた。
俺は答える代わりに、
「なにか食べるか?」
とたずねた。
入江は笑った。
「それはごまかしとして露骨過ぎるでしょ」
「答えないとは言っていない……すこし考えさせてくれ」
「了解。じゃあ……チーズプラトーってチーズの盛り合わせですよね? これください」
遠目に立っていたマスターは、入江の注文にうなずいた。
チーズが切り分けられるのをよそに、俺は思考をめぐらせていた。
宗像が聖生かどうか──疑ったことがないといえば、嘘になる。
入江が訊いて来たってことは、なにか情報があるのかもしれない。
じぶんの意見がまとまらないうちに、黒い正方形の焼き皿が出された。
ゴーダ、カプリス、ミモレット、それに口直しのクラッカー。
入江はすぐには手をつけず、
「で、考えはまとまった?」
とたずねてきた。
「……疑ったことはある」
「その言い方だと、今は疑ってない?」
「証拠がなにもない。あいつが長期的に行方不明になったことはないし、関東へこっそり移動していたのは1回だけだ。そのときの経緯は、おまえも知っているだろう」
「知ってる。あのときは僕も捜索を手伝ったからね」
入江はそう言って、カプリスをひとつ摘んだ。ウイスキーで流し込む。
俺もゴーダをつまみながら、
「手伝った? ……あのとき、おまえの姿は見なかったぞ?」
と探りを入れた。
「これ美味しいね」
ごまかされたな、と思いきや、テーブルのうえにメモ用紙が出された。
筆談
筆談? ……どういうことだ?
俺は胸ポケットからボールペンを取り出して、返答した。
わかった で?
ホテルのデータベースをハッキングしてた
……………………
……………………
…………………
………………なるほど、道理で筆談なわけだ。
結果は?
宗像くん名義で1週間分の予約があった 高級ホテルだよ
俺はその一文にハッとなった。
顔をあげると、入江はマジメな面持ちでこちらを見ていた。
俺は続けようとしたが、入江が先に、
宿泊費の出所はつきとめられなかった 知ってる?
と書いてきた。
俺は悩んだ──入江の正直さには、報いる必要があるか。
筆談はまどろっこしい。
ここからの話は口頭でも大丈夫だと思った。
「俺があいつをスカウトした経緯は、聞いているか?」
「もちろん」
「俺はあのとき、あいつの身だしなみがきちんとしていたことに驚いた。風呂にも入っているみたいだった……ようするに、一定の時間帯だけ橋の下にいた、ってことだ」
「浮浪者を装ってたって意味?」
俺はうなずいた。
入江は「自宅はどこに?」とたずねてきた。
「わからん。ただ……ホテル住まいだった可能性がある」
「根拠は?」
「高卒認定試験を受けさせるとき、サボらないように迎えに行った。待ち合わせ場所は駅だったが、ホテル街の方向から来た記憶がある」
入江は、筆談用のメモ帳をくるくると丸めた。
それを灰皿に入れて、店のマッチ箱に手をやる。
シュッという音を立てて火がつき、灰皿の中に放られた。
メモはあっという間に燃えあがった。
入江はウイスキーを口にふくんだ。
「……パトロンがいるのかもしれないね。大学の保証人の名前は分かる?」
「それは俺の親戚だ。頼み込んで引き受けてもらった」
入江は眉を持ちあげた。
「きみの親戚が保証人? ……どうしてそこまでしてあげるんだい?」
俺は両ひじをテーブルについて、手を組み、そのうえにあごを乗せた。
むずかしい質問だ。
「……才能が腐るのを見ていられなかった、っていうのはカッコつけすぎか?」
「べつに茶化すつもりはないよ。でもさ、今日の試合には出していなかったね」
「明日はどうなんだ、と訊くつもりか? 内偵ならこの話題は打ち切りだ」
「今日、彼が姿を消した理由はなんだったの?」
「それは俺が聞きたいくらいだ」
宗像自身は、N古屋で遊んでいたと言った──が、俺は信じていない。
N古屋を往復していたら、遊ぶ時間などほぼなかったはずだ。
雰囲気的に、駒込がなにか知っているような気がしたが……オーダー会議のとき、なぜか宗像を擁護してたしな……あいつはあいつで考えてることがよく分からんが……。
俺はチェイサーを手に取り、
「もう俺たちは会長じゃない。聖生の始末は後輩に任せればいい」
と締めくくった。
「なるほど……それにしても、関西は会長、副会長ともに女子とは、思い切ったね」
「その見方はおかしい。男ふたりで問題ないなら女ふたりでも問題ない」
「ハハッ、たしかに、今のは失言だったか」
入江はもういちどグラスをあげた。
「それじゃあ、後輩たちの健闘を祈って」
「……」
俺はグラスを合わせた。
こういうのは卑怯というのだろうか。
俺も入江も、けっきょくこの事件には深入りしなかった。
宗像のパトロン──そいつが聖生である可能性は、あるというのに。




