256手目 揉めたオーダー
感想戦が終わったところで、歩美先輩は藤堂さんに声をかけた。
「なんだ、駒込?」
「次のオーダーでちょっと相談があるんだけど」
藤堂さんはサッと周囲に視線を走らせた。
「わかった。べつの場所で話そう」
「御手と叶ちゃんもお願い」
藤堂さんは申命館の主要なメンバーを呼んで、会場を出て行った。
これはアレですね、次の帝大戦がヤマってことか。
全勝は申命館と帝大しか残っていない。
ここで八千代先輩のマイクアナウンスが入った。
《全対局が終了しました。第5局は16時10分から開始とします》
1日目の最終局をまえに、休憩時間が入った。
いやはや、ほんとに長丁場。
会場がざわつくなか、私は日高くん、新田くんと雑談をしていた。
日高くんは、
「そういえば今夜の都ノはどうするんだ?」
とたずねてきた。
「どうするっていうのは?」
「どっかで食事とか飲み会でもするのか?」
あ、そういう……脇くんが来てることを伝えていいのかしら。
あのチケットをどうするのかも決まってないんだけど。
「えーと……このあと考える感じ?」
てきとうにごまかしておいた。
日高くんは、
「そっか……役員は役員で、食事会があるみたいなんだよな」
と言った。
え、初耳なんですが、それは。
「関東の役員で、ってこと?」
「いや、ほかの地域も来るらしい。俺もさっき聞いたからよく知らない」
んー、風切先輩は今夜拘束されちゃう感じかな。
先輩も段取りがよくわかってないみたいだったし。
そんなことを考えていると、ふいに火村さんから声をかけられた。
「香子、昼間はいなかったけど、どこ行ってたの?」
ドキリ──気づかれてたか。
「大谷さんとランチしてたの」
「ふぅん……ところでさ、申命館はなんで宗像を出してないの?」
連続で返答に窮する質問をしないでくださいな。
「そもそも来てないんじゃない?」
火村さんは怪訝そうな顔をして、
「あいつ、会場にいるっぽくない? そんな気配がするんだけど?」
と、よくわからないことを口走った。
ひとの気配を読む方法があるなら、教えて欲しいくらいだ。
そもそも間違ってるし。
さすがに火村さんの勘も百発百中じゃないわけね。
とりあえずこの話はナシナシ。
話題を変えようとした矢先、申命館のメンバーが対局会場へもどってきた──ん?
なんかあった? みんな微妙に機嫌が悪そう。
これをみた日高くんは、
「オーダーで揉めたっぽいな」
と小声で言った。新田くんも同意しつつ、
「御手を氷室にぶつけるかどうかだろう」
と解釈した。
なるほど、御手くんが一番ムスッとしてるし、それっぽい。
ということは、御手くんの希望が通らなかったのかしら。
私は火村さんに、
「どっちに転んだと思う?」
と遠回しにたずねた。
「んー、だいたい想像がつくけど、言わないでおく」
なんですかそれは。
後出しジャンケンで当たっても、信用してあげないわよ。
そうこうしているうちに休憩時間も終わり、オーダー交換が始まった。
申命館は、晩稲田戦と変わらない布陣。
御手くんはさっきと同じ席に。
太宰くんが座っていた席には氷室くんが着席した。
氷室くんは私たちと目を合わせただけで、あいさつもなにもなかった。私たちも応援の言葉は口にしなかった。帝大の応援に来たわけじゃない、っていうのもあるし、日高くんと新田くんは役員だからえこひいきになるというのもあった。それに、氷室くんはあまり応援を求めてるタイプでもないような気がした。
日高くんはざっと並びをみて、
「帝大は相手のオーダーを読みやすかったと思うが、これで五分五分くらいだな」
とコメントした。
宗像くんが抜けてオーダーもうまくいってるのに五分、か。
帝大と申命館のあいだには、もとから少し差があるらしい。
ここで八千代先輩のマイクが入った。
《対局準備はよろしいでしょうか? ……では、始めてください》
よろしくお願いしますの大合唱から、1日目最後の対局が始まった。
私は氷室くんのうしろ、やや左寄りにつけた。
【3番席 先手:御手篤(申命館) 後手:氷室京介(帝國)】
相掛かり? ……いや、単純な戦いにはならなさそう。
7六歩、3二金、7七角、3四歩、6八銀、7七角成。
角換わりへ移行した。
御手くんは同銀と取りながら、
「相掛かりでもよかったんだがな」
と言った。
氷室くんは黙って2二銀。
以下、3八銀、6四歩、1六歩、1四歩、7八金、3三銀。
となりで観ていた火村さんは、
「御手って変則的な将棋なんでしょ?」
とたずねてきた。
「そうね……何局も観てるわけじゃないけど、そうみたい」
変化するなら御手くんのほうからかな、という気はする。
6八玉、6二銀、3六歩、6三銀、4六歩、4二玉。
氷室くんはもたれて指す方針にみえる。
4七銀、7四歩、3七桂、7三桂、2九飛。
あやしい飛車引きが来た。
これは4局目と同じ右玉の可能性がある。
氷室くんも指先を飛車にそえた。
「僕も付き合うよ。8一飛」
9六歩、6二金、4八金、4四歩、9五歩。
御手くんは端を詰めた。
5四銀、5六銀、3一玉、3八金、4二玉。
この王様の戻りに、御手くんは小考した。
日高くんは小声で、
「右四間もありえるぞ」
と言った。
たしかに4二玉は挑発っぽい。4筋に飛車を回って来いという手だ。
「……4九飛」
当たった。
氷室くんはすかさず5二玉と寄った。
御手くんはすぐに4五歩とは仕掛けず、6六歩を入れた。
氷室くんの手が伸びる。
「6五歩」
後手から速攻ッ!
これにはギャラリーも驚き。
新田くんは、
「果敢なのはいいが、王様をわざわざ近づけたのはどうなんだ?」
と疑問を呈した。
火村さんはこれに対して、
「それよりも3五歩、同歩、3六歩の筋が残ってるのが気にならない?」
と指摘した。
たしかに、そこは気になる。
先手は6五同歩、同桂の時点で一歩手に入る。
けど、新田くんはすぐに、
「6五同歩、同桂、6六銀に6四歩と打つしかない。後手はまた歩切れになる」
と返した。
火村さんは、
「その次に8六歩だと?」
と反論した。
【参考図】
新田くんは自慢の太い腕を組んだ。
「むッ……その手があるか」
「でしょ? 3五歩を先に入れるかどうかはともかく、6六銀と上がっちゃった時点で8六歩が効くようになるわよね。だから歩は盤上に落ちてるのと同じ」
火村さんの解説には、十分納得できるところがあった。
でも御手くんがそんなミスをするかしら?
まあ人間だからするときはするだろうけど。
ギャラリーが見守っていると、御手くんは急に顔をあげた。
申命館の部員らしきひとに「コーヒー買って来て」と頼んだ。
あとで精算することになっているのか、その部員はサッといなくなった。
それから御手くんは6五同歩と取った。
同桂、6六銀、6四歩、6七歩。
後手に手番を渡した。
3筋の傷があるから、なにか受けるかな、と思ったけど。
まあ2七金とも4七金ともできないから、受けようがないのもあるか。
氷室くんは30秒ほど考えて、3五歩を先に決めた。
同歩、8六歩、同歩、同飛、8七歩、8一飛。
パシリ
うわぁ、それで止めるのか。
私は「後手が一本取った感じ?」とたずねた。
日高くんはすこし首をかしげて、
「いや……俺は先手を持ちたいな」
という回答だった。理由をたずねると、
「後手はかたちが悪い。先手に角を手放させてもまだ釣り合ってない」
という返答。
新田くんと火村さんも同意見っぽかった。
ふむ、言われてみればそうだ。後手は陣形がバラバラすぎる。
さすがに氷室くんもそう感じているのか、4三金と上を厚くした。
ここでさっきの買い出し部員が帰還。
ブラック無糖の缶コーヒーを渡した。
御手くんはサンキュと言ってすぐにタブを開けた。ひと口飲む。
私もなにか買ってくればよかったかしら。じつはちょっとお腹が──
グゥ〜
「//////」
火村さんは、
「もうお腹空いたの? まだ4時半よ?」
とたずねてきた。
「お、お昼を食べてないのよ」
「え? ひよことランチしたって言ってなかった?」
いかーん、口が滑った。
「ランチって言っても、パンケーキを食べただけだから」
これは嘘じゃない。T羽からの帰り道、コンビニのパンケーキをおごってもらった。
だけどあちこち歩き回ったエネルギーは補えなかった模様。
火村さんは半信半疑の表情で、
「あんまり偏った食事だと体に悪いわよ」
と言った。
おまいう。火村さんだっていっつもトマトジュース飲んでるじゃないですか。
いや、それともトマトジュースは健康にいい?
カラン
コーヒーの缶がテーブルに置かれた。
それが攻めの合図だと、私たちは察した。
御手くんは両手の指を組み合わせて、手のひらが上になるように伸ばした。
「角は打たされたが、主導権はこっちだ。7七桂」
ぶつけた。これは激しくなる。
氷室くんも長考に入った。
私は「同桂成しかないわよね?」とたずねた。
火村さんは、
「同桂成のあと、銀で取るか金で取るか、後手は桂馬をどこに使うか、このあたりがポイントになりそうね。個人的には7七桂成に同金と取りたいわ」
とコメントした。
んー、同金はどこかで8八の打ち込みがあるような。大丈夫かしら。
一方、日高くんは、
「やっぱり先手持ちだな。氷室が崩れると帝大に勝ち目はない」
と、だいぶ冷めたコメントをした。
私はそれに乗じて、
「ここの対局がポイントになりそうなの?」
と確認した。日高くんはうなずいた。
「申命館の当て馬が尾平と当たってるのが痛い。尾平は今日1−3で調子が悪いんだが、さすがに当て馬には負けないだろ。宗像がいなくてオーダーがこじれたのはマズかったな」
「俺ならここにいるよ」