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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第5章 香子ちゃん、アルバイトを始める(2016年4月18日月曜)
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25手目 スパイがいる?

 大教室の真ん中で、私は講義を受けていた。ミクロ経済という科目だった。難しい話が始まるのかと思ったら、そうでもないみたい。それとも、1年生の初っぱなで、簡単にしてくれてるだけかも。とりあえず、ノートを取りながら、先生の話を聞いた。

「私たちは日常生活で、いろいろな物を欲しがります。例えば、今日の昼ご飯について考えてみましょう。都ノみやこのには、たくさんの学生がいます。そのうち100人が、今日の昼ご飯にラーメンを食べたいと仮定しましょう。このラーメンに対する100人分の欲求を、需要と言います。他方で、学食のラーメンは、1日95玉だと仮定しましょう。この95玉の提供を、供給と言います。さて、この100人分の需要と95玉の供給とのあいだには、どのような関係があるのか、考えてみましょう」

 1年生の4月だけあって、教室はヤル気に満ちている。こいうのは、雰囲気で分かる。将棋の会場だって、静かでも熱気が伝わってくるから。

「……というわけで、需要と供給は、価格を決定する作用を持つことが分かりました。このような作用を研究する分野を、受給理論と言います。次回は、需要供給曲線の書き方について、もうすこし詳しく説明してみたいと思います……なにか質問はありますか?」

 特に質問はあがらなかった。こういうのって、一部のマジメな学生が、あとで個人的に訊きに行くだけよね。ちょうどチャイムが鳴って、解散になる。私は荷物をカバンに入れて、教室を出た。そのまま、学食へ向かう。昼休みということで、さすがに混んでいた。

裏見うらみさん、こちらです」

 入り口のところで、大谷おおたにさんが待ってくれていた。

「遅くなってごめん」

「いえ、拙僧も来たばかりです」

「これ、座れそう?」

「座れない場合は、広場で食べればよろしいかと」

「それも、そうね。とりあえず、並びましょう」

 私たちはカウンターに並んで、注文をする。私はラーメンで、大谷さんはそば。レジで支払を済ませて、席を探した。でも、見つからなかったから外に出た。公園に移動。公園も人が多かったけど、芝生のうえに適当な場所をみつけた。こういうエリアが立入禁止になっていないのは、都ノのいいところだと思う。

 私はお盆をひざのうえに乗せて、箸を割った。

「いただきます」

 ラーメンの麺をすくいながら、私はスープの色を確認した。

「ラーメンとだけ書いてあったけど、醤油ラーメンなのね」

「なにか、間違えましたか?」

「単にラーメンって言ったら、とんこつじゃないの?」

「たしかに。T島では中華そばと言いますが、普通はとんこつベースです。醤油ラーメンのときは、メニューでそう断り書きがあります」

 うーん、食文化の違いなのかしら。大谷さんが食べている天ぷらそばも、なんだか醤油を足したような色をしている。汁が黒い。

「そのそば、美味しい?」

「味が讃岐うどんと違いますね」

「そっか……」

 東の味にも慣れないとね。住めば都。実際に都だけど。

「裏見さん、アルバイトのほうは、大丈夫だったのですか?」

「おかげさまで、あっさり内定しちゃったわ」

「他に応募者はいなかったのですか?」

 私はラーメンをすすりながら、空を見上げた。青空がまぶしい。

「それがね、晩稲田おくてだの将棋部員2名とバッティングしてて、いろいろ揉めたんだけど、肝心の男子が辞退して解決しちゃった」

「晩稲田の将棋部員? 個人戦で見かけたひとですか?」

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

 あれ? そう言えば、あのふたり、個人戦の初日には見かけなかったわね。嘘を吐いてるとは思えないし……席主の宗像むなかたさんの前だから……でも、あれだけ強くて非正規の部員とも考えられない。というか、考えたくない。それとも、Aクラスの大学って、それくらい強いのかしら?

「名前は、覚えてらっしゃいますか?」

「男女のペアで、男のひとが朽木くちきくん、女のひとがたちばなさんだったわ」

「クチキ……タチバナ……クチキという名前は、聞いたことがあります」

 私は、スープを飲む手をとめた。

「え? どこで?」

「拙僧が全国大会に出たとき、男子の名簿に朽木という名前がありました」

 大谷さんは、朽ちるに木だ、と付け加えた。どんぴしゃだ。

「でも、初日にいなかったわよ? アルバイトしてて、棄権したとか?」

「アルバイトで棄権するくらいなら、将棋部に在籍しないのでは……」

 それも、そっか。晩稲田の事情は知らないけど、部費は取られるだろうし。

「じゃあ、橘さんって言うひとも、いたんじゃないの?」

 大谷さんは箸を持ったまま、じっと虚空を見つめた。こういうときの顔は、なんだか男のひとに見える。首から上だけだと。化粧もしてないみたいだし。

「……いえ、記憶にありません。下の名前は?」

可憐かれんだったと思う」

「タチバナカレン……それだけインパクトのある名前なら、記憶に残ったと思います。おそらくは、会場にいなかったのでしょう」

 大谷さんは、そう言いながら箸を置いて、

「やはり、情報量で私たちは遅れをとっていますね」

 と締めくくった。同意。

「そのへんは、個人戦の2日目以降と団体戦で、情報収集するしかないわよね」

「そうでしょうか? 他の大学は、もっと積極的に情報を集めているのでは?」

 私は、どういう意味かとたずねた。

「タチバナさんは、『事前評価が間違い』とおっしゃったのですよね? それは、裏見さんのことを、事前に調査していたということではないのですか?」

「まさか……何のために?」

「タチバナさんは、3日目の女流戦にいらっしゃるのではないでしょうか」

 ……その可能性が、頭からすっぽり抜け落ちていた。反省。

「でも、どうやって? うちが他校にアクセスできないのと同じで、他校もうちにはアクセスできないんじゃないの? スパイがいるってことになっちゃうわよ?」

「情報の横流しがあるなら、もっと正確に裏見さんの棋力を知っていたはずです。内部から情報を得ているのではなく、外部同士で情報を回しているのではないかと」

「外部同士で? だれとだれが?」

「ひとつ考えられるのは、日センです。交流戦は、やはり名目だったのでは?」

 私は一瞬、その意見に同意しかけた。だけど、最後は首を振った。

「それは違うんじゃないかしら」

「なぜですか?」

速水はやみ先輩は、七将しちしょうでしょ。私と指した以上は、もっと正確に分かると思う」

「なるほど……一理あります。ということは、奥山おくやまくんなどの、サイドメンバーでもないということになりますね。速水先輩に確認できるポジション以外、ということですか」

 そもそも、日センがそこまでスパイ好きなら、入手した情報を他校と共有しているのもおかしい。情報が不正確なことを考えると、もっと遠距離の関係者に思えた。

 私はスープが冷めるのも放置して、じっくりと考え込んだ。

「お、裏見と大谷じゃないか」

 顔をあげると、風切かざぎり先輩が立っていた。

「こんにちは」

 私たちが挨拶すると、先輩は照れくさそうに頬を掻いて、

「このまえは、悪かったな。泥酔しちまって」

 と謝った。

「いえ、かまいません……それより、ちゃんと家に帰れたんですか?」

「ああ、三宅みやけが送ってくれた。起きたら書き置きがあった」

 えぇ……それって、鍵閉めないで帰ったってことよね……大学生のセキュリティ感覚が問われそう。

「風切先輩も、食事ですか?」

 先輩は生協のビニール袋を携えていた。

「ああ、3限があるから、教室で食べるつもりだ」

 私は、一緒に食べましょうと誘った。先輩は、なぜか1回断った。

 人付き合いが悪いのかな、と思ったら、2回目には了承してくれた。

 大谷さんのとなりに座る。

「ふたりして、なんの話してたんだ?」

 こらこら、ガールズトークの中身を聞いちゃダメでしょ。ま、いいんだけど。

 私たちは、これまでの推理を先輩に披露した。

 先輩は、コーヒー牛乳のパックをストローで吸いながら、

「ふぅん……なかなか、いい線行ってると思うぜ」

 と褒めてくれた。

「先輩は、どこか心当たりはありませんか?」

「べつに、特定する必要もないだろう」

「ずいぶんと、あっさりしてますね」

「他校の情報を調べるのは、悪いことでもなんでもない。それに、調べた情報が間違ってるなら、かえって好都合だろう。勝手に勘違いしてくれてればいいさ」

 うーん、ポジティブシンキング。

「ただ、ひとつだけ気になることがある」

「なんですか?」

「調査が杜撰過ぎる。普通は、もっと慎重を期すだろう。もしかすると……」

 風切先輩は、そこで言葉を切った。私は、先をうながす。

「もしかすると、故意にデマを流している連中がいるのかもしれない」

「デマ……? デマなんか流して、どうするんですか?」

 先輩はコーヒーを飲み切って、パックを潰した。

「さあな、俺の勘だ」

 私は先輩の勘を、信頼したい気持ちがあった。将棋界で長く生きてきたのだから、おかしいところがあれば、察知できるのかもしれない。

 とはいえ、将棋に関するデマなんて、なんのメリットも……ん?

「どうした、裏見? さっきから、箸が止まりっぱなしだぞ?」

「あの……あんまり深く考えないで欲しいんですが……」

 私は、日曜日にトイレで耳にした会話を、風切先輩に伝えた。

 風切先輩は潰れたパックを握ったまま、真剣に話を聞いてくれた。

「聖ソフィアの選手がわざと負けた……?」

「そこは、なんとも言えません。聞き間違いかもしれませんし、話し手も、断言はしていませんでした……それよりも重要なのは、全員が出てないっぽいことです。都ノには7人いると読んでいて、『私たちもそうですから』って言ってました」

「自分たちも7人いるってことか……たしかに、聖ソフィアっぽいな。団体戦でうちの人数を気にするのは、Dクラスの大学しかありえない。その明石あかしってのが親玉か?」

「いえ……会話の調子だと、電話の相手が格上みたいな雰囲気でした」

 風切先輩は、芝生のうえに座り、左膝を立てた格好で、じっと遠くを見つめた。

「妙だな……ここ数年、聖ソフィアに学生強豪は入っていないはずだ」

「強豪とは限らなくないですか?」

「明石の棋力は分からないが、自分より弱いやつに、へいこらするかね」

 言われてみれば、そうだった。私は、なんとも反論しにくくなる。

「ところで、裏見、バイトしたがってたよな? 生協で募集が出てたぞ」

「あ、それは決まりました」

「へぇ、どこだ? コンビニか? それとも、ファーストフード?」

こまっていう、将棋サロンです」

 スッと、先輩の顔から血の気が引いた。

「駒の音? ……高幡不動にある道場か?」

「はい……ほかにも、あるんですか?」

「いや……」

 先輩は、明らかに動揺していた。結んだ髪を引っ張ってから、軽く舌打ちをする。

「ひとつ頼みがある……俺が将棋部に復帰したことは、道場のだれにも言わないでくれ」

「え……なにかあったんですか?」

 質問した直後に、私はしまったと思った。素直にハイで良かったのに。

 私が撤回するまえに、風切先輩は苦笑いして、

「昔、賭け将棋で出禁になったんだ。裏見の評判にかかわるとマズいからな」

 と弁解した。

「あ、そういう……分かりました。だれにも言いません」

 と約束したものの、土御門つちみかど先輩あたりがしゃべるんじゃないかしら。

 私に口止めする理由が、よく分からなかった。

「邪魔したな。2日目に会おう」

 風切先輩は立ち上がって、理工学部棟のほうに消えた。

 その背中を見送る私のそでを、大谷さんが引いた。

「さきほどの弁明、なにやら嘘の気配がします」

 私は肯定も否定もしないで、ラーメンをすする。

 春風には、まだどこかしら寒々しいところがあった。

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