25手目 スパイがいる?
大教室の真ん中で、私は講義を受けていた。ミクロ経済という科目だった。難しい話が始まるのかと思ったら、そうでもないみたい。それとも、1年生の初っぱなで、簡単にしてくれてるだけかも。とりあえず、ノートを取りながら、先生の話を聞いた。
「私たちは日常生活で、いろいろな物を欲しがります。例えば、今日の昼ご飯について考えてみましょう。都ノには、たくさんの学生がいます。そのうち100人が、今日の昼ご飯にラーメンを食べたいと仮定しましょう。このラーメンに対する100人分の欲求を、需要と言います。他方で、学食のラーメンは、1日95玉だと仮定しましょう。この95玉の提供を、供給と言います。さて、この100人分の需要と95玉の供給とのあいだには、どのような関係があるのか、考えてみましょう」
1年生の4月だけあって、教室はヤル気に満ちている。こいうのは、雰囲気で分かる。将棋の会場だって、静かでも熱気が伝わってくるから。
「……というわけで、需要と供給は、価格を決定する作用を持つことが分かりました。このような作用を研究する分野を、受給理論と言います。次回は、需要供給曲線の書き方について、もうすこし詳しく説明してみたいと思います……なにか質問はありますか?」
特に質問はあがらなかった。こういうのって、一部のマジメな学生が、あとで個人的に訊きに行くだけよね。ちょうどチャイムが鳴って、解散になる。私は荷物をカバンに入れて、教室を出た。そのまま、学食へ向かう。昼休みということで、さすがに混んでいた。
「裏見さん、こちらです」
入り口のところで、大谷さんが待ってくれていた。
「遅くなってごめん」
「いえ、拙僧も来たばかりです」
「これ、座れそう?」
「座れない場合は、広場で食べればよろしいかと」
「それも、そうね。とりあえず、並びましょう」
私たちはカウンターに並んで、注文をする。私はラーメンで、大谷さんはそば。レジで支払を済ませて、席を探した。でも、見つからなかったから外に出た。公園に移動。公園も人が多かったけど、芝生のうえに適当な場所をみつけた。こういうエリアが立入禁止になっていないのは、都ノのいいところだと思う。
私はお盆をひざのうえに乗せて、箸を割った。
「いただきます」
ラーメンの麺をすくいながら、私はスープの色を確認した。
「ラーメンとだけ書いてあったけど、醤油ラーメンなのね」
「なにか、間違えましたか?」
「単にラーメンって言ったら、とんこつじゃないの?」
「たしかに。T島では中華そばと言いますが、普通はとんこつベースです。醤油ラーメンのときは、メニューでそう断り書きがあります」
うーん、食文化の違いなのかしら。大谷さんが食べている天ぷらそばも、なんだか醤油を足したような色をしている。汁が黒い。
「そのそば、美味しい?」
「味が讃岐うどんと違いますね」
「そっか……」
東の味にも慣れないとね。住めば都。実際に都だけど。
「裏見さん、アルバイトのほうは、大丈夫だったのですか?」
「おかげさまで、あっさり内定しちゃったわ」
「他に応募者はいなかったのですか?」
私はラーメンをすすりながら、空を見上げた。青空がまぶしい。
「それがね、晩稲田の将棋部員2名とバッティングしてて、いろいろ揉めたんだけど、肝心の男子が辞退して解決しちゃった」
「晩稲田の将棋部員? 個人戦で見かけたひとですか?」
……………………
……………………
…………………
………………
あれ? そう言えば、あのふたり、個人戦の初日には見かけなかったわね。嘘を吐いてるとは思えないし……席主の宗像さんの前だから……でも、あれだけ強くて非正規の部員とも考えられない。というか、考えたくない。それとも、Aクラスの大学って、それくらい強いのかしら?
「名前は、覚えてらっしゃいますか?」
「男女のペアで、男のひとが朽木くん、女のひとが橘さんだったわ」
「クチキ……タチバナ……クチキという名前は、聞いたことがあります」
私は、スープを飲む手をとめた。
「え? どこで?」
「拙僧が全国大会に出たとき、男子の名簿に朽木という名前がありました」
大谷さんは、朽ちるに木だ、と付け加えた。どんぴしゃだ。
「でも、初日にいなかったわよ? アルバイトしてて、棄権したとか?」
「アルバイトで棄権するくらいなら、将棋部に在籍しないのでは……」
それも、そっか。晩稲田の事情は知らないけど、部費は取られるだろうし。
「じゃあ、橘さんって言うひとも、いたんじゃないの?」
大谷さんは箸を持ったまま、じっと虚空を見つめた。こういうときの顔は、なんだか男のひとに見える。首から上だけだと。化粧もしてないみたいだし。
「……いえ、記憶にありません。下の名前は?」
「可憐だったと思う」
「タチバナカレン……それだけインパクトのある名前なら、記憶に残ったと思います。おそらくは、会場にいなかったのでしょう」
大谷さんは、そう言いながら箸を置いて、
「やはり、情報量で私たちは遅れをとっていますね」
と締めくくった。同意。
「そのへんは、個人戦の2日目以降と団体戦で、情報収集するしかないわよね」
「そうでしょうか? 他の大学は、もっと積極的に情報を集めているのでは?」
私は、どういう意味かとたずねた。
「タチバナさんは、『事前評価が間違い』とおっしゃったのですよね? それは、裏見さんのことを、事前に調査していたということではないのですか?」
「まさか……何のために?」
「タチバナさんは、3日目の女流戦にいらっしゃるのではないでしょうか」
……その可能性が、頭からすっぽり抜け落ちていた。反省。
「でも、どうやって? うちが他校にアクセスできないのと同じで、他校もうちにはアクセスできないんじゃないの? スパイがいるってことになっちゃうわよ?」
「情報の横流しがあるなら、もっと正確に裏見さんの棋力を知っていたはずです。内部から情報を得ているのではなく、外部同士で情報を回しているのではないかと」
「外部同士で? だれとだれが?」
「ひとつ考えられるのは、日センです。交流戦は、やはり名目だったのでは?」
私は一瞬、その意見に同意しかけた。だけど、最後は首を振った。
「それは違うんじゃないかしら」
「なぜですか?」
「速水先輩は、七将でしょ。私と指した以上は、もっと正確に分かると思う」
「なるほど……一理あります。ということは、奥山くんなどの、サイドメンバーでもないということになりますね。速水先輩に確認できるポジション以外、ということですか」
そもそも、日センがそこまでスパイ好きなら、入手した情報を他校と共有しているのもおかしい。情報が不正確なことを考えると、もっと遠距離の関係者に思えた。
私はスープが冷めるのも放置して、じっくりと考え込んだ。
「お、裏見と大谷じゃないか」
顔をあげると、風切先輩が立っていた。
「こんにちは」
私たちが挨拶すると、先輩は照れくさそうに頬を掻いて、
「このまえは、悪かったな。泥酔しちまって」
と謝った。
「いえ、かまいません……それより、ちゃんと家に帰れたんですか?」
「ああ、三宅が送ってくれた。起きたら書き置きがあった」
えぇ……それって、鍵閉めないで帰ったってことよね……大学生のセキュリティ感覚が問われそう。
「風切先輩も、食事ですか?」
先輩は生協のビニール袋を携えていた。
「ああ、3限があるから、教室で食べるつもりだ」
私は、一緒に食べましょうと誘った。先輩は、なぜか1回断った。
人付き合いが悪いのかな、と思ったら、2回目には了承してくれた。
大谷さんのとなりに座る。
「ふたりして、なんの話してたんだ?」
こらこら、ガールズトークの中身を聞いちゃダメでしょ。ま、いいんだけど。
私たちは、これまでの推理を先輩に披露した。
先輩は、コーヒー牛乳のパックをストローで吸いながら、
「ふぅん……なかなか、いい線行ってると思うぜ」
と褒めてくれた。
「先輩は、どこか心当たりはありませんか?」
「べつに、特定する必要もないだろう」
「ずいぶんと、あっさりしてますね」
「他校の情報を調べるのは、悪いことでもなんでもない。それに、調べた情報が間違ってるなら、かえって好都合だろう。勝手に勘違いしてくれてればいいさ」
うーん、ポジティブシンキング。
「ただ、ひとつだけ気になることがある」
「なんですか?」
「調査が杜撰過ぎる。普通は、もっと慎重を期すだろう。もしかすると……」
風切先輩は、そこで言葉を切った。私は、先をうながす。
「もしかすると、故意にデマを流している連中がいるのかもしれない」
「デマ……? デマなんか流して、どうするんですか?」
先輩はコーヒーを飲み切って、パックを潰した。
「さあな、俺の勘だ」
私は先輩の勘を、信頼したい気持ちがあった。将棋界で長く生きてきたのだから、おかしいところがあれば、察知できるのかもしれない。
とはいえ、将棋に関するデマなんて、なんのメリットも……ん?
「どうした、裏見? さっきから、箸が止まりっぱなしだぞ?」
「あの……あんまり深く考えないで欲しいんですが……」
私は、日曜日にトイレで耳にした会話を、風切先輩に伝えた。
風切先輩は潰れたパックを握ったまま、真剣に話を聞いてくれた。
「聖ソフィアの選手がわざと負けた……?」
「そこは、なんとも言えません。聞き間違いかもしれませんし、話し手も、断言はしていませんでした……それよりも重要なのは、全員が出てないっぽいことです。都ノには7人いると読んでいて、『私たちもそうですから』って言ってました」
「自分たちも7人いるってことか……たしかに、聖ソフィアっぽいな。団体戦でうちの人数を気にするのは、Dクラスの大学しかありえない。その明石ってのが親玉か?」
「いえ……会話の調子だと、電話の相手が格上みたいな雰囲気でした」
風切先輩は、芝生のうえに座り、左膝を立てた格好で、じっと遠くを見つめた。
「妙だな……ここ数年、聖ソフィアに学生強豪は入っていないはずだ」
「強豪とは限らなくないですか?」
「明石の棋力は分からないが、自分より弱いやつに、へいこらするかね」
言われてみれば、そうだった。私は、なんとも反論しにくくなる。
「ところで、裏見、バイトしたがってたよな? 生協で募集が出てたぞ」
「あ、それは決まりました」
「へぇ、どこだ? コンビニか? それとも、ファーストフード?」
「駒の音っていう、将棋サロンです」
スッと、先輩の顔から血の気が引いた。
「駒の音? ……高幡不動にある道場か?」
「はい……ほかにも、あるんですか?」
「いや……」
先輩は、明らかに動揺していた。結んだ髪を引っ張ってから、軽く舌打ちをする。
「ひとつ頼みがある……俺が将棋部に復帰したことは、道場のだれにも言わないでくれ」
「え……なにかあったんですか?」
質問した直後に、私はしまったと思った。素直にハイで良かったのに。
私が撤回するまえに、風切先輩は苦笑いして、
「昔、賭け将棋で出禁になったんだ。裏見の評判にかかわるとマズいからな」
と弁解した。
「あ、そういう……分かりました。だれにも言いません」
と約束したものの、土御門先輩あたりがしゃべるんじゃないかしら。
私に口止めする理由が、よく分からなかった。
「邪魔したな。2日目に会おう」
風切先輩は立ち上がって、理工学部棟のほうに消えた。
その背中を見送る私のそでを、大谷さんが引いた。
「さきほどの弁明、なにやら嘘の気配がします」
私は肯定も否定もしないで、ラーメンをすする。
春風には、まだどこかしら寒々しいところがあった。