24手目 落ちぶれたぼっちゃま
同桂、7四歩、8五桂。
「7三歩成」
橘さんは手を引っ込めて、チェスクロを押した。
私の棋力が試されている。
「どうしました? 読み抜けですか?」
「……」
読み抜けなわけがない。自分の構想の確認をしているだけだ。
私は黙って読み進める。返事がないことを、橘さんはどう受け止めたのか。
弱いと思った? それとも、警戒してる?
「宗像さん、電気をつけていただけませんか?」
橘さんは私から目を離して、そうお願いした。
あたりは既に、暗くなっていた。盤面に濃い影が映る。
宗像さんは邪魔にならないように、黙って電気をつけてくれた。
影が消えると同時に、私は盤面に手を伸ばす。
「4二飛」
一番普通の手。この手だけ見たら、読み抜けかどうかは、分からないはず。
それに、この局面をどう捉えるか自体、ひとによって違うと思う。中級者なら、飛車が閉じ込められた時点で、後手不利と判断するかもしれない。でも、有段者なら、難しいと感じるんじゃないかしら。少なくとも、私はそう感じる。というのも、先手陣が意外と危ないからだ。
例えば、単純に6三となら、7七歩、同桂、同桂成、同金寄、8五桂打か、あるいは、6九角と一回溜めて、5三銀に9二飛(4一飛は5二角、3一飛、6四とで、以下、7七歩、同桂、同桂成、同玉のとき、角筋が利いてるのが気になる)と逃げておきたい。前者は7七歩、同桂、同桂成に同玉もあって上が広いから、後者をメインに考える。
パシリ
橘さんは、全然違う手を指した。予想は外されたけど、軌道修正はできる。
「7七歩」
同桂、同桂成、同玉。
「王様を脱出する順か……」
私は、放置されていたお茶を飲む。ぬるい。この局面とは正反対だ。
その分、クールダウンできた気がした。続きを読む。
7七同玉は、8五桂と打ち直せないのを見越している。
でも、7四角は一長一短。というのも、次の手がある。
「9五角」
角で王手。これが成立するのは、6三ととせずに7四角と打ったからだ。と金を動いていないから、7三角と取れるのが、ひとつ。もうひとつは、7四角それ自体が、王様の逃げ道を狭めていること。
橘さんは、じっと角を睨んだ。
「この手が指せますか……どうやら、級位者ではないようですね」
当たり前でしょ。ここまでの流れで察してくださいな。
「とはいえ、際どい順を選んだものです。この手に、どう対処します?」
橘さんは、8六歩と突いた。一番省エネの受け。
「それは、こうよ。7五銀」
脱出経路を、がっつり塞ぐ。放置は8六角から押し返して優勢。
8七金には7六歩を想定している。同金右、同銀、同金or同玉に6四桂で勝てないかしら。7六同金の場合に6四桂、6三と、7六桂、5二とが若干気になるくらい。これでダメなら、6四桂とせずに7三角と引いて、と金を払っておきましょう。
「8七銀」
おっと、手堅く来ましたか。だけど、これも7六歩でしょ。
攻めるに限る。
「7六歩」
同金、同銀、同銀、7三角で、と金を払った。
橘さんは、6三角成としてくる。角当たりだから、受けないといけない。
「6二角」
橘さんは、持ち駒の銀を手にした。
「スキだらけです。4一銀」
うまい。5二の地点がガラ空きなのを見越してる。
放置は3二銀成じゃなくて、5二銀成からの飛車角取りだ。
「でも、これを見落としてないかしら? 5一桂ッ!」
私の桂打ちに、橘さんの早指しが止まった。
「……」
橘さんはじっと盤面を見つめ、それから宗像さんに、お茶を所望した。宗像さんは、階下に降りて行く。遠ざかる足音を聞きながら、私は応手を待った。なかなか指さない。
結局、宗像さんが戻って来るほうが早かった。湯のみを受け取った橘さんは、ひと口飲んでから、10秒ほど黙考した。
「前評判が間違っているということですか……」
「前評判? なんのこと?」
橘さんは、私の質問を無視して、湯のみを置いた。4一の銀に指を添える。
「3二銀成」
金取り――おそらく、最善。5二銀成は、6三桂と馬を消して、4二成銀、同金引のあとに7五歩の叩きが残っている。先手がマズい。駒損だし。4二成銀のところで6二成銀もあるけど、7五歩から攻め潰せるというのが、私の判断だった。
私は同玉と取ってから、チェスクロを確認する。
残り時間は、私が2分、橘さんが1分。
「8一馬」
まあ、逃げるわよね……ここで、どうするか……見えてる筋はある。4四角と出て、次に6二飛と回る手だ。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
この手の狙いは、見た目よりもかなり厳しい。というのも、次に6五歩と打って、これを同歩とはできないし、かと言って同銀は同飛がある。この飛車も取れないから、このままだと銀の丸損。受けるなら、6五香か6五桂と、がっちり打つしかない……ん、6五香と打たれたら、困るわね。6四歩、同香は馬の紐が……6二飛と回るまえに、8二銀、9二馬の交換を入れておきましょう。4四角、9一馬、8二銀、9二馬、6二飛。ここで6五香は、6四歩、同香、同飛に8二馬とできない。それは、6六角で後手の勝ち。
残り時間が1分を切った。私は4四角と出た。
「6七金」
え? 外された? ……いや、香車を取らないなら、むしろ歓迎だ。
私は銀打ちを省略して、6二飛と回った。
「6五金」
……予定と違う。
金打ちの狙いは? 6四銀でやぶ蛇だと思うんだけど?
6四銀、同金、同飛、6五銀打……あ、これか。でも、先手は桂馬だけになるから、6二飛と引くくらいで、いいはず。以下、9一馬、6三桂、6四香(7五歩は同桂、同銀、6五飛があるからムリ)として、ここで7五歩と叩けば攻めが続く。
ピッ
あうち、30秒将棋になっちゃった。
せっかくだから29秒まで考えて、私は6四銀と打った。
その途中で、どうもイヤな筋が思い浮かんだ。
「同金」
「同飛」
橘さんは持ち駒に手を伸ばさず、馬をひとマスだけずらした。
「9一馬」
これなのよね……6一飛に9二馬として、6五の地点に利かせる作戦だと思う。
でも、6一飛、9二馬、6五歩、同銀、7五金があるから……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6一飛ッ!」
9二馬、6五歩、同銀、7五金。
攻めが切れたら負け。必死に食らいつく。
「7六銀打」
いやあ……堅い……6五金は同銀じゃなくて、同馬で止まる。
ただ、先手はうしろがスカスカだから、同馬に同飛、同銀でも……ムリか。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6三桂」
駒を足す。これしかない。
橘さんも30秒将棋に入ったけど、秒読みを苦にしている気配はなかった。
私は懸命に、繋げる順を考える。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6四香」
一番イヤなのが来た。でも、これはまだ続く。
「7六金」
同銀と清算させてから、私は5三金と寄った。攻め駒を攻める。
香車を手に入れたら、7筋に打てる。これはまだ切れ筋じゃない。
橘さんも、マジメに考え込んだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「8三馬」
飛車に当てて来た。攻め駒の攻め合い。
7一飛、8二馬。
「6四金」
飛車馬交換を挑む。7一馬、同角、7二飛の王手角は、6二銀で何とかする。6一金には8一金で飛車を取りに行って、7一金、同金、5三角、7二金、6四角成。このとき、後手陣は飛車打ちにモロいから、どうにかなりそう。
問題は、橘さんがこの挑発に乗るかどうか。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6四馬」
ぐッ、そっちか。私は、入手した香車を7二に打った。これも厳しいはず。
打った途端、橘さんのほうから圧が消えた。
「そちらを選択しましたか……では、そろそろ……」
橘さんは、2四桂と打ち込んだ。いきなりの王手。
4三玉は、3二金が詰めろだから……あれ? 2四同歩も同歩で詰めろ? 2四同歩、同歩、7六香、同金、7五桂打、2三歩成、4三玉、3三と、同角(同桂は4二金、同玉は4二銀、3二玉、2二金、4三玉、5三金、同角、同馬まで)、5三金、3二玉、4三金打、4一玉、3二銀、5一玉、5二金直まで……ぜ、全部詰む。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同歩ッ!」
橘さんは、音もなく同歩と取り込んだ。
受けを考える。2二歩と打てないし、かと言って金駒を打つのは……桂馬は頭が丸いから、何の受けにもなってない……となると……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「ど、同銀」
顔面受け。同飛とさせてから弾いて、一手稼ぎたい。
10秒と経たないうちに、橘さんは持ち駒へ手を伸ばした。
「4二金」
これは……2三玉だと詰むか。2四飛、同玉、2五歩と叩いて、同玉は1五金で詰むから2三玉と下がるしかない。以下、2四銀、1二玉、2三金まで。4二金に2二玉と逃げるのは、2四飛、2三歩合、同飛成、同玉、3二銀以下で詰み。
ん……ってことは、3三玉以外に逃げ道がない?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
私は3三玉と逃げた。
「4三金打」
……………………
……………………
…………………
………………
橘さんは、お茶をすすった。
私は苦吟しながら、2三玉と寄る。
4四金、7六香、同金、7五桂打。
「こちらも詰めろですが……2四飛」
私はこめかみに指を添えて、10秒ほど考えた……詰んでるわよね、これ。
同玉、2五歩、1四玉、1五歩、2三玉、2四香、1二玉、2三銀までだ。
私はお茶を飲み干してから、頭を下げた。
「負けました」
「ありがとうございました」
私は悔しさを押さえて、この一局をふりかえった――このひと、強い。フロック負けしたという感覚は、微塵もなかった。力負けした気がする。
「最後、受けたほうが良かったですか?」
「7五桂打ではなく、2二金など?」
「具体的にどうってわけじゃないんですけど……」
私たちは局面をもどして、2二金と打った。
【検討図】
「あまり、受けになっていないと思います。2五歩がいきなり詰めろですから」
「そうですね……2五歩、同銀、同飛、2四歩だと、3四金、同玉、3五飛のスライドまであって、一直線に寄りですか……攻めの構想にムリがありました?」
「なかなか迫力のある攻めでしたよ」
うーん、抽象的に褒められた。
仕掛けのところまで検討するかどうか悩んでいると、自転車の音が聞こえた。それは駐輪場に消えて、今度は階段をのぼる音がする。お客さんかしら。
ガチャリと、ドアノブが回った。
「すまない、遅くなった」
ドアがひらき、スーツ姿の男子が顔をのぞかせた。前髪ぱっつんのショートヘアで、細い眉毛が綺麗に整えられていた。全体的に細身で、気品のある青年だった。
「もう指しているのか?」
そのひとは敷居を跨いで、私たちの対局を覗き込んだ。
「……ああ、感想戦か。可憐、こちらのお嬢さんは?」
「ぼっちゃまの枠を奪おうとしたので、成敗しておきました」
は? あのさぁ……初対面の相手に、その言い方はないでしょ。
一方、青年はこちらに向き直って、
「そうか……お名前は?」
とたずねてきた。私は、裏見香子だと答えた。
「ウラミ……都ノの新入部員か?」
ん? なんで知ってるの?
「はい、そうですけど……あなたは?」
「失礼した。僕の名前は、朽木爽太。晩稲田の将棋部に在籍している」
晩稲田……あ、橘さんと同じ大学ってことか。
で、このひとが、橘さんのご主人さまなわけね。多分、彼氏だと思うけど。
「橘さんとは、将棋部でお知り合いになられたんですか?」
「いや、可憐は僕のメイドだ」
……は? メイド? ……危ないプレイかしら。
そのとき私は、クチキくんの着ているものが、ずいぶん高級なスーツであることに気づいた。と同時に、継ぎはぎだらけなことにも気づいた。
「僕のスーツが気になるのか?」
「あ、え、その……」
「いやはや、落ちぶれてしまって、もうしわけない……僕の実家は、朽木証券という有名な証券会社だったのだが、リーマンショックのあおりで破産してしまってな。会社を建て直すため、晩稲田で経営学を勉強している。可憐は幼い頃から僕の専属メイドで、破産後も親切に世話してくれているのだ」
んー、もとボンボンってことか。
「というわけで、ぼっちゃま、駒の音のバイト枠は、私たちのものに……」
「実はその件で、相談がある」
クチキくんは、ポケットからチラシを1枚取り出した。
「ここの定食屋が、アパートから近いうえに、まかない付きらしい。電話をかけてみたところ、脈ありのようだ。僕はここでバイトしようと思う」
橘さんは、一瞬だけエッ?という顔をした。
「で、では、わたくしもそちらへ」
「いや、募集は1名のみだ。可憐は、ここのバイトを頼む」
橘さんは、私のほうをじっとりと見つめた。
なんですか? 私と働くのがイヤなんですか?
「……承りました。ぼっちゃまのお言い付けとあれば」
橘さんが折れたところで、宗像さんはポンと手を叩いた。
「これで、円満に解決しましたね。おふたかたとも、よろしくお願いいたします」
こうして、私はアルバイト先を見つけることができた。
一緒に働くひとが、なんだか気になるけど……ま、いっか。
場所:将棋サロン『駒の音』
先手:橘 可憐
後手:裏見 香子
戦型:矢倉
▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲6六歩 △6二銀
▲5六歩 △5四歩 ▲4八銀 △4二銀 ▲5八金右 △3二金
▲7八金 △4一玉 ▲6九玉 △7四歩 ▲6七金右 △5二金
▲7七銀 △3三銀 ▲7九角 △3一角 ▲3六歩 △4四歩
▲3七銀 △6四角 ▲6八角 △4三金右 ▲7九玉 △3一玉
▲8八玉 △2二玉 ▲1六歩 △8五歩 ▲2六歩 △7三銀
▲4六銀 △7五歩 ▲同 歩 △4五歩 ▲3七銀 △8四銀
▲7四歩 △7五銀 ▲2五歩 △8六歩 ▲同 銀 △同 銀
▲同 歩 △同 角 ▲同 角 △同 飛 ▲8七歩 △8二飛
▲7三歩成 △同 桂 ▲7四歩 △8五桂 ▲7三歩成 △4二飛
▲7四角 △7七歩 ▲同 桂 △同桂成 ▲同 玉 △9五角
▲8六歩 △7五銀 ▲8七銀 △7六歩 ▲同 金 △同 銀
▲同 銀 △7三角 ▲6三角成 △6二角 ▲4一銀 △5一桂
▲3二銀成 △同 玉 ▲8一馬 △4四角 ▲6七金 △6二飛
▲6五金 △6四銀 ▲同 金 △同 飛 ▲9一馬 △6一飛
▲9二馬 △6五歩 ▲同 銀 △7五金 ▲7六銀打 △6三桂
▲6四香 △7六金 ▲同 銀 △5三金 ▲8三馬 △7一飛
▲8二馬 △6四金 ▲同 馬 △7二香 ▲2四桂 △同 歩
▲同 歩 △同 銀 ▲4二金 △3三玉 ▲4三金打 △2三玉
▲4四金 △7六香 ▲同 金 △7五桂打 ▲2四飛
まで119手で橘の勝ち