240手目 ゲノム
「ええ、じつはわけあって、都ノ大学のことを調べているんです」
え……どうして? もしかして、聖生のまわし者……?
私はちょっと引いてしまった。
和泉プロは、私の反応にすこしあわてて、
「あ、すみません。大学に行きたいな、と思ってるんです。お店の経営との兼ねあいで、近いところしか選べないもので……都ノだけが候補ではないのですが……」
とつけくわえた。
あ、そうなんだ。私は安心感から、うっかり変な質問をしてしまう。
「和泉プロは高校を卒業したあと、すぐにプロになられたんですか?」
場の雰囲気が変わる。
え? なんで?
和泉プロはもうしわけなさそうな表情で、
「僕は高校を出ていないんです」
と答えた。
うわぁ、やらかした。
「す、すみません、知らなかったもので……」
「いえ、お気になさらずに。中卒にコンプレックスを持っているわけではありません」
そっか……謝ったのは、かえって失礼だったかも。
二重にやらかしてしまった。
私が恐縮していると、不破くんが話題をふってくれた。
「涼プロ、どうしていまさら大学なんですか? タイトルホルダーなのに」
「煌、それはちがうよ。僕は就職のために大学へ行きたいわけじゃないんだ」
「じゃあ……純粋にガクモン?」
和泉プロは「そうだ」と答えた。
それから、
「煌はどうして高校に通ってる?」
とたずねかえした。
「むずかしい質問ですね……麻雀プロで一生食えるのか、っていうのはあります」
和泉プロは痛快そうに笑った。
「それはそうだ。おおよそ堅気のしごとじゃないからね」
「涼プロも、半分くらいは保険で大学に行きたいんじゃないですか?」
「いや、僕はほんとうに勉強したいんだよ……たとえば、ゲノムってあるよね」
「はい」
「人間のけっこうな部分は遺伝で決まっている、ということが最近分かっているらしい。高校でそういうことも習うのかな? 中学だと、規則性くらいしかやらなかった」
「いえ、さすがに高校でもやらないと思います。俺はまだ1年生ですけど」
若いなあ……いや、高1を若いと感じてしまうじぶんが情けない。
不破くんは、もうひとつ質問をした。
「人間の能力は先天的だ、ということに、なにか思うところがあるんですか?」
すこしだけ間が空いた。
和泉プロは両手を組んで、しばらく黙った。
話題のわりに、ちょっとだけ深刻な待ち時間に思えた。
「……そうだね、気にならないといえば、ウソになるかな」
不破くんは空気を読まないタイプなのか、
「涼プロは顔ヨシ、頭ヨシ、銀行の口座残高ヨシの役満じゃないですか。なにが気になるんです? ギフテッドの仕組みを知りたいとか?」
とたずねた。
うーん、あの不破楓さんの親戚なだけのことはある。
不破さんもかなり空気読まないし……あ、これも遺伝子ってやつ?
和泉プロは、淡々と答えた。
「たとえば生物学的な性別は、遺伝子の仕組みで決まるね?」
「えーと、染色体がXXなら女性、XYなら男性ですか」
「そう、しかもこの組み合わせは、必ずしも生殖器の構造とは一致しないらしいんだ……っと、お嬢さんたちのまえで、この話はマズいか。もっとフラットな例にしよう。煌は、男性脳と女性脳っていう言葉を知ってるかな。一時期流行ったけど、じつは擬似科学らしい。でも、それがなぜ疑似科学なのかは、いまの僕の知識じゃわからない」
不破くんも茶化すつもりはないらしく、納得顔でうなずいた。
「南原さんに訊いてみたらどうですか?」
「晩稲田の政経じゃなかったかい? すくなくとも理系ではなかったように思う」
「あ、そういう意味じゃなくて、入試制度とか……あのひと大卒ですよね?」
そのときだった。
裏口のドアがひらき、ひとりの女性が入ってきた。
スーツにカバンを持った、ちょっと目つきの悪いアラサーの女性。
私たちはアッとなる。
和泉プロがまっさきに立ち上がった。
「な、南原プロ、おはようございます」
南原プロ──私のなかでは、くわえタバコおばさん──は、カバンを置きながら、
「そのあわてぶり、女の子をつれこんでなにかしてたの?」
とたずねた。
和泉プロは事情を説明した。
南原プロは、私のことを思い出したらしく、
「あら、あなた、将棋を指した子じゃない」
と言った。
全員の視線が集まる。
マズいマズい。
「あ、はい、おひさしぶりです……」
不破くんはポケットに手をつっこんで、
「あれ? 南原プロ、お知り合いですか?」
とたずねた。
「2回ほど将棋を指してもらったの。ここで3回目のリベンジマッチかしら?」
かんべんしてください。
私はやんわりとことわりを入れる。
「私はコーヒーをいただいているだけで……」
「コーヒーを飲みながらでもいいわよ」
すかさず和泉プロが助け舟を出してくれた。
「南原プロ、今日は研究会ですから、将棋はまたこんどでお願いします」
あ、研究会で集まってるのか。
さすがにそういうのは理解できる。将棋のプロも研究会はやっている。
それからすぐに、4人目のプロが入ってきた。
派手めのマッシュウルフでキメた、我の強そうな青年だった。
このひともけっこうかっこいいわね……もしかして、南原さんが男を囲うための会?
いや、そういう勘ぐりは失礼か。
4人目の青年も私と粟田さんの存在に気づいて、
「新しい女流の子ですか?」
とたずねた。和泉プロは、
「いや、お客さんだよ……おふたりとも、すみません、今から研究会を始めますので、本日はここまでということで。またお越しください」
と言い、私たちを店外に案内しようとした。
すると、粟田さんは、
「あ、あの、サインをいただけますでしょうか?」
と言い、学生手帳をとりだした。
粟田さんは、和泉プロ以外からもサインをもらうことに成功した。
おなじページに合計4人のサインがならぶ。
私たちはそのあと、すぐにお店を出た。
粟田さんは学生手帳を抱きしめて、
「うーん、今日ってすごくツイてる」
とつぶやき、目を閉じてうっとりした。
さいですか。
推しとの思い出ができてうれしいんだろうな、というのはわかる。
エスカレーターで下に降りるとき、粟田さんは、
「そういえば、南原プロと将棋を指したって、どういうこと?」
とたずねてきた。
私は新宿将棋大会のことだけを答えた。
巣鴨の将棋道場で遭遇した件はヒミツ。
「へぇ、南原プロ、将棋してるんだ。雑誌にも載ってない裏情報かも」
そうかもしれない。
いずれにせよ、私は今回の遭遇に、あまりいい気がしていなかった。
つながりがあちこちにありすぎじゃない?
ただの偶然とは思えないんだけど。
ともかく、ショッピングモールの1階に到着。
私は粟田さんとそこで別れた。
「じゃ、粟田さん、また来週のゼミで会いましょ。おつかれさま」
「香子ちゃんも、おつかれさま。またね」
私はモノレールのほうへ移動した。
改札を通って、ホームへあがる。
そろそろ帰りのビジネスパーソンも増えてきた。
私は今日一日のできごとを、順番に思い出す。
大学生らしいことをしたなぁ、という気持ちが半分。
もう半分は、聖生の影がちらつくことに対する不安感。
ま、ただの気のせいでしょ、と思っていたんだけど──
そのアクシデントは、意外と早くおとずれた。
講義に遅れそうになった私と穂積さんは、構内の裏道をとおっていた。
林のあいだを進むと、サークル棟からショートカットできるのだ。
完全なケモノ道ってわけでもない。地面が踏みしめられて、細い小道ができていた。私は三宅先輩から教えてもらったけど、そこそこ有名らしい。
「穂積さん、あんまり走ると危ないわよッ!」
「出席回数がギリなのッ!」
それはふだんのおこないでしょ。
林を抜けると、理学部棟の裏に出る。ボイラーや室外機が回っていて、そのそばに喫煙所が設けられていた。林から出た瞬間に事務員さんと出会って、気まずいイベントが起こる場所だ。とりま、背に腹は変えられないので……ん?
みると、喫煙所のベンチにだれかが座っていた。
白いダウンを着込んで、白いニット帽をかぶっていた。
タバコを吸っているんだろうな、と思った。
でも、なんだかようすが変だ。お腹を押さえて背を丸めている。
私は足をとめて、ベンチのほうへ歩み寄った。
「あの、どうかしましたか……!」
私は喫驚した──和泉プロだったからだ。
うつむきかげんなうえにサングラスをかけていたから、気づかなかった。
和泉プロは目を閉じて、ずっとお腹を押さえている。腹痛?
穂積さんは大慌てで声をかけた。
「い、和泉プロ、なんでここに……急病ですかッ!?」
「だ、だいじょうぶです……気にしないでください……」
いやいやいや、気にするでしょ。
だいじょうぶそうにみえない。声がかなり苦しそうだ。
私たちは、大学の保健センターへつれて行くと申し出た。
和泉プロは拒否した。けど、もう本人の意思がどうこうじゃない。
私は「そこにいてください」と言ってから駆け出した。穂積さんに留守番を任せる。
さいわいなことに、保健センターは理学部棟のすぐむこうにあった。
受付のひとに説明すると、すぐに年配の女性のお医者さんが出てきてくれた。
私は現場に案内する。
和泉プロの容体は悪くなっていて、穂積さんが肩をさすってあげていた。
お医者さんも和泉プロのようすをみて、緊急事態だと判断したらしい。
「救急車を呼びましょう……あなたたちの友人?」
私は「知り合い」という表現を使った。
名前と、どこに連絡すればいいのかはわかる、とも答えた。
お医者さんはスマホで救急車を呼び、私はその場で質問を受けた。
和泉プロの名前と、立川に職場があること、あとは発見の経緯。
救急車が到着した。和泉プロが乗せられる。
すると、救急隊員さんのひとりが、
「どなたか、つきそわれますか?」
とたずねた。
穂積さんが名乗りをあげた。
「あたしがつきそいますッ!」
私はおどろいて、
「え? 穂積さん、講義は?」
とたずねた。
「麻雀界の一大事だわ。MINEで代返頼んどく」
いやいや、ダメでしょ。
それに身内じゃないんだから、出すぎたマネはよくない。
ちょっと穂積さん……ああ、乗っちゃった。
救急車は、そのまま走り去ってしまった。
遠ざかるサイレンに重なって、チャイムが鳴る。
私は心配になりながらも、教室へと急いだ。