239手目 優等生の意外な趣味
その日、私はゼミの粟田さんといっしょに、立川で遊んでいた。
用事があって、というわけじゃなかった。ただ、将棋部のメンバーとばっかり行動しているのも、なんだか窮屈かな、と思ったのだ。すこしは交友関係をひろげないとね。粟田さんは上京組じゃないらしく、立川の地理に私よりもくわしかった。
ショッピングをして、ランチを食べて、それから本屋さんに寄った。例のショッピングモールにある本屋さんだった。粟田さんは、
「私、近所の本屋でアルバイトしてるの」
と教えてくれた。
私は、先日の松平との会話を思い出して、ちょっぴりテンションダウン。
アルバイトを変える──うーん、そうかんたんじゃないわよねえ。
もちろん、ほかの学生の話を聞いていると、数週間でやめたとか、数日でやめたとか、そういうのもちらほら。でも、私はそういうことが性格的にダメなのと、もうひとつ重要な点があった。
今ここでやめたら、宗像さんにかえってあやしまれるんじゃないか、ってこと。
私は宗像さん=聖生説は、あんまり信じていない。
だけど、仮にそうだとしたら?
宗像さんは、私たちの調査に気づいていることになる。
そこでいきなりバイトをやめたら、かえって逆効果じゃないかしら。
それとも、私が深読みしすぎなのか──
「香子ちゃん、どうしたの? 本がみつからない?」
私はハッとなった。
意識が本屋にもどる。
「な、なんでもない……いろんな本があるな、と思って」
【経済学】というプレートの本棚。
いろとりどりの背表紙。厚さもバラバラで、軽いタイトルから○○学というアカデミックなものまで、ひととおりそろっていた。
粟田さんもうなずいて、
「これだけ本があると、ちょっと気が滅入っちゃうかも。まだ教科書くらいしか読めてないし……あ、香子ちゃんは、もっと読んでるかもだけど」
と言った。
私は首をふる。
「ううん、私も教科書と、あとは演習本くらいしかできてないわ」
「演習本っていいよね。じっさいに計算してみるのは、だいじだと思う。香子ちゃんは、なにを使ってるの?」
「竹熊先生の『ミクロ経済学演習』」
「有名なやつだね。私は上鳥先生の『ミクロ経済学のパワー』」
「帝大の若い先生だっけ?」
「そうそう。ゲーム理論で有名なひと」
こういう本って、どうやって選べばいいのかしら。
私は大学の生協で、一番多く平積みされていたものにした。
ようするに、売れ筋で大外れはないでしょ、方式。
粟田さんはタメ息をついて、
「1日やって1ページも進まないことがあるし、ちょっと不安になる」
とつぶやいた。
「粟田さんならだいじょうぶよ。GPA、すごくいいんでしょ?」
「でも、GPAはただの数字だし……終わりがみえないまま勉強するのも苦痛……」
まあ、それはそうよね。
24時間勉強するわけにはいかないし、そうするために生きているわけでもない。
粟田さんみたいな優等生でも、やっぱりそうなんだな、と思った。
「息抜きがだいじでしょ。粟田さんは、どういう息抜きをしてるの? 趣味は?」
粟田さんは、すこしもじもじし始めた。
「じ、じつは、香子ちゃんに告白しないといけないことがあって……」
なんですか? そのまえふりは?
粟田さんは、なんだか恥ずかしそうなようすだった。顔が赤い。
……………………
……………………
…………………
………………ちょっと待ってッ!
あなたのことが好きなんです、って流れじゃないでしょうねッ!?
わ、私は男が好きで、彼氏いるし……いる? 松平は彼氏?
いや、ともかく、対応をまちがえないようにしないと、ご時世だし──
「わ、私……麻雀が趣味なの……」
……………………
……………………
…………………
………………え? 麻雀?
「あ、粟田さん、麻雀が趣味なの?」
「う、うん……だから、香子ちゃんと打ってみたいな……って」
「え?」
「え?」
おたがいに顔を見合わせる。
「香子ちゃん、麻雀打てるんだよね?」
「わ、私、麻雀はできないわよ」
「将棋はできるのに?」
いや、それ関係ないでしょ。
「粟田さんだって、将棋はできないんじゃないの?」
「うん、だけど……今まで会った子は、将棋ができたらみんな麻雀もできたから……」
それは単なる経験則じゃないですか。
相関関係ですらないし。統計学。
粟田さんはすこしがっかりしたみたいで、
「そっかぁ、香子ちゃん、麻雀できないのかぁ……今からおぼえない?」
とさそってきた。
おぼえません。あれだけは、とにかくやらないと決めた。
おぼえた瞬間、めちゃくちゃ呼び出されそうな気配がするから。
「ごめんなさい、学業と将棋以外は、もう時間が……」
「あ、そうだよね……私も、もうひとつしてって言われたら、むずかしいし……」
うーん、穂積さんが麻雀をやってるのはしっくりくるけど、粟田さんが麻雀をやってるのは、なんかイメージとちがった。偏見かしら。
粟田さんはニガ笑いした。
「残念だなぁ。香子ちゃんが麻雀できたら、このあとディジットで打ちたいな、と思ってたんだけど」
私はびっくりした。
「粟田さん、ディジットのこと知ってるの?」
「あれ? 香子ちゃんこそ知ってるの? 麻雀できないのに?」
いかん、口がすべった。
「喫茶店でケーキを食べたの」
「あ、そうなんだ。おいしいよねぇ。今から、どう?」
私は、本屋の時計を確認した──午後3時。ちょうどいい時間帯になっている。
ただなあ、あの店はあの店で、なんか不穏なのよね。
佐田店長のこともあるし……とはいえ、それは言えないから、行くことにした。
私たちは本屋を出る。のぼりのエスカレーターに乗った。
飲食店街は、夕食どきまえだから、まだ空いていた。
ディジットのほうへ足を運ぶ……ん? 閉まってるっぽい?
CLOSEDの札がかけてあって、入り口にはチェーンが張られていた。
奥のカウンターには、鉄格子タイプのシャッターも降りていた。
よくみると【定休日】の札もあった。
ふーん、水曜が定休日なんだ。
さらに観察していると、もうひとつ張り紙があることに気づいた。
スタッフの募集だった。
粟田さんはそれを読みあげた。
「喫茶店フロア、麻雀フロア、随時募集中……か」
「応募するの?」
「ううん、私、麻雀は好きだけど、接客は苦手だから……」
たしかに、好きなことを仕事にするイコール楽しい、じゃないわよね。
穂積さんのほうが向いてそう。
私がそんなことを考えていると、ふいに声をかけられた。
「応募者のかたですか?」
ふりむくと、和泉プロが立っていた。
あまりに不意打ちだったから、私のほうはうまく反応できなかった。
いっぽう、粟田さんは、
「い、和泉涼プロですか?」
と、甲高い声でたずねた。
「はい」
「わ、私、大ファンで、ネネネネット対戦でも何回か打っていただいたことが……」
と言いながら、学生手帳をとりだした。
「さ、サインしていただいても、いいですか?」
「ええ、けっこうですよ」
和泉プロは、こういうことには慣れっこらしい。
ちゃんとサインペンを携帯していた。
すらすらとサインをする。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。宝物にします」
「都ノの学生のかたなんですね」
いかん、学生手帳とか見せるから……和泉プロは、私のほうにも視線をむけた。
「あなたも都ノのかたですか? 将棋道場でお見かけしましたね?」
うわぁ、顔バレしてる。
このひと、記憶力がいいタイプか。やっかいだ。
和泉プロは、営業スマイルとはすこしちがう、やわらかい感じでほほえんだ。
「いかがですか、おふたりとも、雀荘でアルバイト、というのは?」
「すみません、私は麻雀ができないので……」
「当店では、入門講座も設けています。働きながら学べます」
なんかよくわからないけど、勧誘されてる。
どう答えたものか迷っていると、こんどはべつの少年があらわれた。
「涼さん、お客さんが困ってますよ」
紺のジーンズに、白いジャケット。ロゴ入りのスポーツキャップ。
ちょっと生意気っぽくて、それでいながらクールなまなざし。
ふ、不破くんだッ! 助かった。年下だけど、ここは助けてもらう。
「不破くん、こんにちは」
私があいさつすると、和泉プロはすこしおどろいて、不破くんに、
「煌、知り合いなのか?」
とたずねた。
不破くんはポケットに手を入れたまま、
「親戚の子の先輩」
と答えた。
和泉プロは私のほうに向きなおって、
「そうでしたか。失礼しました。煌をお待ちだったんですね」
と言って、謝った。
いや、それはそれで誤解なんだけど。
さすがに不破くんも、男女関係を疑われるといけないと思ったのか、
「ちがいますよ、待ち合わせてたわけじゃないです」
と返した。
和泉プロは、ますます混乱してしまったらしく、
「待ち合わせていない知り合い同士が、僕のお店のまえでばったり……?」
と、くちびるにゆびをそえて、考え込んでしまった。
うーん、和泉プロ、もしかしてちょっぴり天然さん?
それはそれで、なんだかホッとする。
伝聞のかぎり、機械みたいなひとかと思っていた。
不破くんも笑って、
「和泉プロ、べつにそんなことで悩まなくていいんですよ。さ、入りましょ」
と言った。
どうやら待ち合わせていたのは、不破くんと和泉プロのようだった。
和泉プロはポケットから鍵をとりだしながら、
「おふたりとも、お引き留めして失礼しました。おわびにコーヒーはいかがですか?」
と誘ってきた。
私ひとりなら、ことわるつもりだった。けど、さすがに粟田さんが乗ってしまった。
正規の出入り口じゃなくて、お店の裏口から通される。
目のまえに現れた雀荘とやらに、私はなんだか新鮮な感じがした。
というか……変わってるわね。これが、麻雀専用のテーブル?
青いプラスチック製のテーブルのうえに、緑色の布が貼ってあった。そこに、いくつかの切れ込みが入っている。中央には、サイコロの入ったケース。ボタンがあれこれ。
どう使うのか、どう動くのかも見当がつかなかった。
「そちらの待ち合い席へ、どうぞ」
私と粟田さんは、入り口近くのソファーに腰をおろした。
和泉プロと不破くん(彼もプロだけど)は、スタッフルームに消えた。
私がキョロキョロしていると、粟田さんが話しかけてきた。
「香子ちゃーん」
ふりむくと、粟田さんはメガネの奥から、ジーッとこちらをみている。
「なに?」
「ほんとに麻雀できないの?」
「できないわよ」
「じゃあどうしてプロと面識があるの?」
ん……疑われてるっぽい? 香子ちゃん、私としたくないからできないって言ってるのかなぁ、みたいな? マズいマズい。女の友情にヒビが。
「不破くんが言ってたように、彼の従姉妹が同郷なの」
「和泉プロは?」
「あのひとは、私のバイト先の道場に、一回来たことがあるのよ」
粟田さんは納得したらしく、うーんとうなって、
「将棋をすると麻雀プロと会える……将棋っていいかも」
と言い出した。
そうそう、どうですか、将棋なども。
なーんてやりとりをしていると、和泉プロと不破くんがもどってきた。
ふたりとも、コーヒー皿を両手に持っている。
私たちはあわてて立ち上がって、
「手伝います」
と言ったけど、和泉プロは、
「お客様ですから、どうぞ、おくつろぎください」
と返した。
コーヒーがテーブルにおかれる。
私たちは恐縮してしまった。
和泉プロと不破プロは、私たちの向かいのソファーに腰をおろす。
私たちが気兼ねしないようにか、和泉プロたちはすぐにコーヒーを飲み始めた。
まず、和泉プロが、
「おふたりとも、都ノの学生さんですよね?」
と確認してきた。
いやぁ……正直に言うしかないわよね。
「はい」
「お名前は?」
私たちはそれぞれ自己紹介をした。これもごまかせない。
「大学生活は、いかがですか?」
まあまあです、とお茶をにごしておく。
和泉プロは、大学生活のことを根掘り葉掘り訊いてきた。
学部はどこか、とか、どうしてその大学にしたのか、とか、いろいろ。
私はさすがにちょっと気になって、
「あの……都ノにご関心があるんですか?」
とたずねた。
和泉プロは、さわやかな笑顔で答えた。
「ええ、じつはわけあって、都ノ大学のことを調べているんです」