238手目 納税者ランキング
「ん〜♪」
私は鼻歌を歌いながら、窓拭きをする。
駒の音の道場は、古いけれど清潔な感じがいい。
こういうのって、バイトの私もしっかり守っていかないとね。
テーブルのうえも拭かなきゃ。バケツの水を替える。
ガチャ
入り口のドアがひらいた。
宗像さんかな、と思いきや──
「あッ……橘先輩、おはようございます」
「おはようございます」
橘先輩は靴を脱いで、従業員用の靴箱へ入れた。
それからコートを脱ぐ。
そこから現れたファッションに、私はあぜんとしてしまった。
なんというか……ふつうのファッションだったのだ。
白いセーターに黒のパンツスタイル。ブランド物じゃなさそう……かな。
とにかく、いつものメイド服じゃなかった。
私がおどろいていると、橘先輩と目があった。
「どうかなさいましたか?」
「あ、いえ……すごく似合ってるな、と……」
橘先輩は、すこし恥ずかしそうだった。
「ありがとうございます……雑巾がけをなさっているのですね。手伝いましょう」
先輩は物置き部屋から雑巾を持ってきて、バケツに入れた。
テーブルを順番に拭く。
だれもいない道場にふたりきり。どう会話をしたものか迷った。
まあ、べつにしなくてもいいというか、橘先輩と日常会話をすることって、あんまりないのよね。だから、黙っててもいいんだけど──そんなことを考えていると、橘先輩のほうから口をひらいた。
「このまえは、お見舞いに来ていただき、ありがとうございました」
「あ、いえ、こちらこそ……無事回復なさって、なによりです」
「これまでわたくしのほうで、裏見さんにいろいろと失礼な態度があったかもしれませんが……謝りますので、よろしければ水に流していただけると助かります」
ちょっと待って、なに、この豹変ぶりは。
かえって怖いんだけど。
橘先輩は、まだなにか言いたいことがあるらしかった。
顔を赤らめて、もじもじしている。
「あの……じつはわたくし、爽太さんと婚約いたしました」
……………………
……………………
…………………
………………ハッ! なにか言わなきゃ。
「あ、え、その……お、おめでとうございます」
「ありがとうございます。式と入籍は卒業後という約束なので、まだ気が早いのですが、裏見さんにはいろいろとお世話になりましたので、先に報告させていただきます」
えぇ、ちょっと待ってぇ。
このまえのごたごたは、けっきょくなんだったの?
私と火村さんのがんばりは? いや、べつにがんばってなかったかもしれないけどさ。
これはあれ? 夫婦喧嘩は犬も食わないってやつ?
ハッピーエンドだから、まあいっか。
私たちはそのあと、テキパキと準備を終えた。
お茶を淹れたところで、宗像さんが1階のアクセサリー店から上がってくる。
「おはようございます……あら」
宗像さんも、橘先輩の様変わりに、すこしばかりおどろいていた。
「イメージチェンジされたんですね」
「はい、少々」
橘先輩は、婚約のことを伝えなかった。
けど、宗像さんは、なんだか察したような気配だった。
「よくお似合いですよ。では、そろそろ開店の準備を」
そのあとの道場は、なんというか、いたっていつもどおりだった。
小・中学生のなかには、「えぇ、今日はメイド服じゃないの?」と、ちょっかいをかけてる子もいたけど、橘さんはうまくあしらっていた。いつもどおりに対局し、いつもどおりに片付けをして終わり。道場を出て階段をおりたときも、特別な感じはしなかった。
橘先輩は白い息をはきながら、
「それでは、お先に失礼いたします」
と言い、自転車でその場を去った。
私は夜空を見あげる。星が綺麗だった。
「婚約か……」
「裏見、俺はいつでも準備がぐほぉ!?」
いきなり出てくるな。
「なんで松平がここにいるの?」
「いてて……迎えに来た」
「頼んでないでしょ」
松平は両手を腰にあてて、タメ息をついた。
「そう言うなって。ちょっと話したいことがあってな」
「なに?」
松平は道場の2階を見あげた。まだ灯りがついている。
「ここだと話しにくい。帰りながらにしよう」
なによ、いきなり思わせぶりで……って、まさか本気で婚約とか言い出すんじゃないでしょうね。ダメダメ。私は先に釘を刺しておく。
「あのね、先走った行動は、高校のときの二の舞に……」
「ちがうちがう、そっち系の話じゃない」
松平の言い方には、どことなく鬼気迫るものがあった。
「……わかった。アパートまで送ってちょうだい」
私たちは自転車を押しながら、道場を離れる。
しばらく進んだところで、松平はうしろをふりむいた。
だれもいないことを確認してから、こう切り出してきた。
「あのあと、三宅先輩たちとすこし調べてみた」
「なにを?」
「和泉プロと聖生との関係だ」
……あ、言いにくいことって、そういう内容なのか。
私も気になっていたから、ちょっと食いついてみる。
「で、どうだった?」
「穂積の言うことは、半分は当たってたが、半分はまちがってた。まず、劉っていう麻雀プロがいることと、劉プロにまつわる噂話があることは、ほんとうだった。ネットでも有名らしい。匿名掲示板で、穂積と似たような話をしてるやつがいた」
「つまり……裏プロってこと?」
「それもあるし、株で当てたんじゃないか、っていう推測をしているやつもいた」
なるほど、穂積さんのオリジナル情報ってわけじゃなかったのか。
「じゃあ、まちがってるほうは?」
「劉プロの羽振りがよくなったのは、実際にはバブルのまえなんだ」
……………………
……………………
…………………
………………ん? どういうこと?
「つまり、バブル崩壊の空売りで儲けたわけじゃない、ってこと?」
「おそらく。これは重信先輩が見つけてくれたんだが、劉プロは、納税者ランキングに一度だけ載ったことがあるんだ」
「納税者ランキング? そんなの、どうやって調べたの?」
「80年代は個人情報っていう概念がなかったから、新聞に載ってた。しかも、総合ランキングだけじゃなくて、いろいろな基準でな。そのなかに【話題のひと】っていうランキングがあって、劉衛民の名前があった。1987年の納税額だ」
「いくら?」
「5000万」
たっかッ! しかも当時の金額だから……えーと、わかんないけど、今の額で換算するともっと多いはず。
「ちなみに何位?」
「【話題のひと】ランキングでは4位だ……ただ、【タレント・俳優】ランキングだと、この額じゃ圏外なんだ。10位が6000万近かった」
私はこの情報の意味を、よくよく考えてみた。
でも、なかなか見えてこなかった。
「うーん……ようするに、お金持ちにはなれたけど、大金持ちになれたわけじゃない、ってこと? しかも、バブル景気のまえだから、聖生とも関係ない?」
松平は頭をかいて、
「っていうのが俺たちのほうの推理なんだが、裏見はどう思う?」
と返してきた。
私は考え込んでしまう。
「……風切先輩には悪いけど、和泉プロは関係ないんじゃないかしら」
「俺も、その考えだ。杞憂だと思う」
松平はそう言ったあと、すこし黙った。
まだなにか言いたそう。
「ねぇ、なにか隠してない?」
「いや、隠してるわけじゃないんだが……ここからは、俺の個人的な意見になる。聖生の行動について、裏見は違和感をおぼえないか?」
「違和感もなにも、最初から犯罪スレスレじゃない。最近はおとなしいけど……」
松平は「そこだ」と言わんばかりに、ひとさしゆびを立てた。
「なんで急におとなしくなったと思う? 後期になってから、なりをひそめたよな?」
「そんなの、わかりようが……ッ!」
私は内心で喫驚した。
松平も、私の直感を察したらしく、先をつづけた。
「俺たちが疑ってる人物のなかに聖生はいて、聖生も俺たちから疑われていることにうすうす感づいている……そう思わないか?」
私は、松平が道場から離れたがった理由を、ようやく理解した。
「つまり……宗像姉弟?」
「今のところ、俺たちの推理はぜんぶあのふたりを指してる。どっちが聖生なのか、まではわからない。もしかすると、ふたりでひとりなのかもしれない。このまえの麻雀カフェの電話も、弟からだった可能性がある。やりとりがラフだった」
そこは、私もすこし気になっていた。
あの電話のあいては、かなり親しいひとだったはず。
言い方からして、家族か友人。
「ようするに、松平は私のことを心配してくれてる、ってわけね」
松平は、気まずそうな顔をした。
「まあ……その……ほんとは他人のバイト先に、口を挟むことじゃないと思うんだが……本音をいうと、あそこでバイトをするのはやめて欲しい……と思ってる」
松平は、じっと私の目を見た。
すこし申し訳なさそう。でも、ほんとうに心配してくれているようだ。
「……このまえも言ったように、私、宗像さんのほうはあんまり疑ってないのよね」
「そうか……」
「ただ、松平の心配もわかるわ。ちょっと考えてみる」
松平は、オヤッという顔をした。
こらこら。
「その顔、私がガンコだから意見変えないと思ってたでしょ?」
「いや、彼女の意志は尊重するつもりだったから、その……」
「あれ? 私と松平って、正式にそういう関係になったんだっけ?」
私は自転車に飛び乗る。
あわてて松平も、じぶんの自転車に飛び乗った。
「裏見ぃ、そんな殺生なッ!」
「手順はだいじって言ってるでしょうッ!」
やんややんやと笑い合いながら、坂道をのぼる。
橘先輩、朽木先輩と婚約かぁ。
私も松平との関係、ちょーっとだけ真剣に考えないといけないかな。