234手目 需要供給曲線
※ここからは、香子ちゃん視点です。
大学の小教室。
コの字型にならんだ白いテーブルに、10人の学生が座っていた。
男子が6人、女子が4人。
私は窓際の1番前、粟田さんの左どなりだった。
最初の授業でたまたまここに座ったら、席を固定されちゃったのよね。
まあ、となりの粟田さんと仲良くなれたから、いいんだけど。
先生はいつもスーツを着ているアラフォーの男性だった。眼鏡をかけている。髪型は、なんというかあんまりセットしてなくて、いかにも大学の先生という感じだった。先生は学生の発表の邪魔にならないように、教壇ではなく、私の真正面の席に座っていた。
「今日の発表は、反時計回りにしますか……裏見香子さんからお願いします」
「は、はい」
まさかのトップバッター。
私はホワイトボードのまえに立った。緊張する。
「私の発表は、すこし変わっているかもしれませんが……将棋道場についてです」
そこの男子、「え?」みたいな顔しない。
さすがに先生は、表情を変えなかった。
「面白そうですね。私は将棋を知らないので、すこし丁寧に教えてもらえますか」
「あ、はい……将棋道場というのは、将棋を指すスペースを提供する代わりに、その場所代をもらうビジネスです。東京の相場は、だいたい1000円強が目安で、これを支払えば1日中指すことができます。1局につき1000円ではありません」
私はホワイトボードにむかう。
うまく説明できるかなあ。
とりあえず、用意してきたノートを片手にがんばる。
「ここで問題がひとつあります。現在の将棋道場は、席料を一度支払うと、1日中ずっと指すことができます。長時間指せばモトをとれますが、1局だけ指したいな、というお客さんには入りづらい状態です。席料が1日単位なせいで、価格が本来の均衡点よりも高止まりしているのではないか、というのが私の仮説です。そこで、指せる回数の決まった回数券で、この状況を改善できないかどうか考えてみます」
私はホワイトボードに条件を書いた。
・回数券1枚につき1局
・x局分の回数券をy円で売る
・回数券の種類は1種類だけ
「まずは、需要曲線を考えます。1局目の限界効用が400円、2局目が380円、3局目が340円、4局目が280円と下がっていくと仮定します。限界効用の減りが早いのは、遊ぶたびに疲労の蓄積が生じるからです。これを式で書くと、n項目が……」
400−10n^2+10n
「となる数列で表現できます」
何人かの生徒が、ノートで検算を始めた。
合ってるわよね。簡単な階差数列の計算だから、だいじょうぶなはず。
「次に、供給サイドですが……将棋道場は、なにかを生産しているわけではありません。あくまでも場所の提供です。が、お客さんの対局回数が増えるほど、経費は増えるものと仮定します。その限界費用価格を、ここでは次の式で表します」
5n^2−5n+40
「つまり、初期費用が40、1局指すごとに費用が50、70、100と階差的に増えていきます」
ここはあんまり自信がないんだけど、しょうがない。
「これで需要曲線と供給曲線の両方が定まったので、その交点を求めます」
1番目の数式と2番目の数式を、イコールで結んで解くだけ。
400−10n^2+10n=5n^2−5n+40
−15n^2+15n+360=0
n^2-n-24=0
ここで解の公式を適用。プラスの解だけを示す。
「あまり綺麗な数字にはなりませんが……均衡点の対局回数は約5.4回、回数券の1枚あたりの価格は約160円が答えになります。端数のある回数券は出せないので、じっさいには5枚つづりで800円くらいかな、という印象です。これは『1日1000円』という漠然とした価格設定よりも、合理的なのではないかと思いました。以上です」
メモをとっていた先生は顔をあげて、大きくうなずいた。
「はい、ありがとうございます。幸先のいい発表でした。それではみなさん、なにか質問はありますか?」
粟田さんが手をあげた。
むずかしい質問はやめてください。お願い。
先生は粟田さんをあてた。
「はい、粟田さん、どうぞ」
「発表ありがとうございました。私のよく知らない世界だったので、勉強になりました。ふたつ質問があります。将棋道場というのは、将棋だけをする場所なんですか?」
うーん、やっぱりこの手の質問があるわよね。
たぶん、イメージが湧かないんだと思う。
「基本的には、そうです」
「基本的に、というのは?」
「雑談したりお茶を飲んだりすることもありますが、それはサブです」
「ほんとに将棋をするだけなんですね……じゃあ、2つめの質問です。仮に将棋をするだけなら、供給曲線に関しては、固定費だけ考えてはダメですか? 将棋がどういうゲームなのか、私はよく知らないんですけど、二次関数的に経費が増えるというのが、いまいちピンとこなかったので」
うーん、いい質問すぎる。
「たしかに、供給曲線は、ほとんど直線的かもしれません。例えば、初期費用が40で、1局ごとに20ずつ増加するとか……その場合は40+20(n−1)の一次関数です。均衡点は……」
私は即興で計算をする。
400−10n^2+10n=40+20(n−1)
を解けばいい。
式を変形して、解の公式を使って──
「……約5.7局、回数券の1局あたりの価格は約134円です」
粟田さんは、
「ありがとうございました」
と言って、席に着いた。
先生は、ほかの生徒をみまわす。
「ほかにありますか? ……では、私からも質問しましょう。裏見さん、仮に夏や冬の光熱費が高騰し、固定費が増加した場合、均衡点はどうなりますか?」
「供給曲線が上にスライドし、均衡点も移動します。つまり、回数券の価格は高くなり、対局回数は減少します」
「正解です。では、もうひとつ、これはむしろ私が教えていただきたいのですが、将棋道場では、回数券を売らないのが慣行なのですか?」
「正確には……対局回数や対局時間を単位とする回数券は売らない、だと思います。すべての道場がそうとは限りませんが、すくなくとも有名なところでは、そういう券を売っていません。その代わり、5日分など、日数に応じた回数券はあります」
「つまり、営業日数を単位とする回数券だけがあるわけですね?」
「はい」
「では、なぜそうなっているのでしょうか?」
私は、はたと困ってしまった。
「それは……わかりません」
「カルテルのようなものは? 違法ですが、価格を高止まりさせる常套手段です」
「将棋道場のあいだで、そういう談合はないと思います……」
「なるほど、機会があれば、調べてみると面白いかもしれません。これは裏見さんに対するコメントというよりも、ゼミ全体に対するコメントなのですが、ミクロ経済学は一定の仮説を立て、それを数学的なモデルにおいて説明しようとする試みです。しかし、数学的なモデルで説明がつくイコールその仮説が正しい、ではありません。モデルは現実のデータとすり合わせる必要があります。この観点からいえば、日常的に現実と向き合っているビジネスパーソンのほうが、経験的に正しいモデルを持っている可能性もあるのです。したがって、まず現実のビジネスパーソンがやっていることは不合理ではない、という前提から出発することが大切になります……裏見さん、発表ありがとうございました。次は粟田さんです。よろしくお願いします」
○
。
.
その日の夕方、私は駒の音で洗い物をしていた。
道場はすでに閉まっていて、私と宗像さんしか残っていない。
窓の外は夜。ストーブのうえの薬缶が、静かに湯気を吹いていた。
私は、ちらりと宗像さんを盗み見る。
宗像さんは帳簿をつけながら、あれこれと計算をしていた。
テーブルのうえには小銭がたくさん。
……………………
……………………
…………………
………………
昼間の先生の質問、宗像さんに訊いたら悪いかしら?
道場経営者だから、回数券を考えたことだってあるんじゃないかと思う。
でも、導入はされていない。
なぜ? わからない。
「宗像さん、ひとつ質問しても、いいですか?」
「はい」
「将棋道場は、なぜ1局いくらで精算しないんでしょうか?」
宗像さんは帳簿から顔をあげて、こちらをみた。
「賭け将棋の話ですか?」
「い、いえ、1局指すごとに100円とか、なんでそういう方式じゃないのかな、と。あるいは、1時間100円みたいに、時間制限もありな気がするんですが」
「ああ、席料の話ですか。それは、1局の所要時間がバラバラだからです」
……なるほど、理解した。
「たしかに、うっかり十数手負けとかもありますね」
「そうです。反対に200手を超える熱戦もあります。1局100円だと、気軽に投了して指しなおしができません。1時間100円だと、粘ったときに追加料金をとられてしまう恐れがあります。ですから、1日いくら、にしてあるんです」
うーん、先生の言ったとおりだった。
これくらいのことは、とっくに考えられてるのね。
私が感心していると、宗像さんは、
「なぜそのようなご質問を?」
と、たずねかえしてきた。
「あ、その……私、経済学部なので、そういうことに興味が……」
「なるほど、裏見さんがおっしゃるのでしたら、1局精算も、ひとつ考えてみて……」
「い、いえ、宗像さんの経営方針が正しいと思います。気になさらないでください」
私があわてて否定したので、宗像さんはすこしきょとんとしていた。
けど、すぐに話題が切り替わった。
「ところで、裏見さん、橘さんが退院なさる日を、ごぞんじですか?」
「いえ、そこまでは……」
宗像さんは、帳簿にむかったまま、鉛筆の底部を下くちびるにあてた。
「んー……裏見さん、将棋を指せる女性のかたを、どなたかごぞんじですか?」
私は脳みそをフル回転させる。
まず、「はい」と答えていいかどうか。
どうみても紹介させられる流れだ。しかも、短期バイトとして。
それから、「はい」と答えた場合に、だれを紹介するか。
「……はい」
「女子大生のかたですか?」
「はい……ただ、本人のスケジュールがわからないので、この場では……」
宗像さんは、それもそうですね、と言ってペンを回した。
「わかりました。では、明後日までに連絡をつけていただけませんでしょうか。都合がつかなければ、私のほうで手配します。お手数ですが、よろしくお願いします」