23手目 メイド将棋指し、現る
月曜日の夕方、私は買ったばかりの自転車で、高幡不動を目指した。入学祝いに、おじいちゃんに買ってもらったものだ。東京だからあんまり使わないんじゃないかな、と思っていたら、交通費がバカにならないのと、意外に歩くことが多いので重宝している。東京出身の子に聞いたら、都会のほうが1日の歩数は多いらしい。車で移動しないから。
自宅から野猿街道に入って、そのまま日センのそばを通過。トンネルを抜けると、下りの坂道が続いていた。帰りはちょっと大変かな。ま、元陸上部の香子ちゃんにかかれば、この程度の坂なんて、ちょちょいのちょい……っと、見えてきた。
【将棋サロン 駒の音】という看板がみえたところで、私は減速した。モノレール駅からは、少し離れた場所だった。自転車で来て、正解だったみたい。
駐輪場は、建物と併設されていた。どんな道場かな、と思っていたら、3階建てのコンクリビルで、1階はアクセサリーショップ、2階は将棋道場になっていた。ずいぶんと変わった構造。それとも、ビルの所有者が別で、間借りしてるだけなのかしら。3階は、看板が出ていなかった。居住スペースっぽい。2階への階段は……どこ?
道場の入り口が見当たらなかったので、とりあえず1階に入ってみた。すると、黒髪ロングの、爽やかな店員さんが出て来た。こういうお店だと、アクセサリで着飾ったひとが出て来がち。でも、この店員さんは、前掛けをしているだけで、その下に紺のジーンズがのぞいていた。サンダル履き。20歳くらいかな。さすがに年上だと思う。
「いらっしゃいませ」
「すみません。2階の将棋道場へ上がるには、どうすればいいんでしょうか?」
お客さんじゃないから、イヤな顔をされるかな、と思いきや、お姉さんは笑って、
「それでしたら、こちらの階段をお上がりください」
と教えてくれた。まさかの、アクセサリ店から直通。どうりで見つからないわけだ。
私はお礼を言って、そのまま階段を上がった。高齢者向けなのか、ちゃんと手すりがついていた。上がりきると、右手のほうにドアが見えた。ノブを回して、なかを覗く。明かりのついていない空間が、目の前にひらけた。20人は入れそうなフロアだった。テーブルの上に盤とチェスクロ。出入り口の近くには、受付。壁には、【○段昇段おめでとう】みたいな紙が、たくさん貼られていた。全体として清潔な感じ。
……………………
……………………
…………………
………………
あれ? だれもいない……ことはなかった。
奥のほうに、立ったまま背中を向けているひとがいた。メイド服だった。
女性……よね? 疑問に思った瞬間、そのひとは振り返った。
「どちらさまですか?」
ショートの、目付きの鋭い子だった。小顔で、前髪が眉間にスッとかかっている。
年齢は、私と同じくらいに見えた。
「どちらさまですか?」
「え……あ、バイトの応募に来ました」
私はそう答えて、うっかりしたと思った。だってこれ……メイド喫茶っぽくない?
土御門先輩の性格からして、変なバイト先を紹介された可能性が、なくもなかった。まさか、私もこの子みたいな格好で接客しないといけないとか? お客さんがいないのも、実は営業が夜だからとかで……絶対イヤ。
「すみません、店を間違えた気がします。またあとで……」
そう言って引っ込もうとしたとき、うしろで足音が聞こえた。
さっきの店員さんが、お盆にお茶を乗せて、階段を上がっていた。
「あら、どうなさりました?」
「お店を間違えたんじゃないかな、と……」
店員さんはきょとんとして、
「裏見香子さんでは、ないのですか? 土御門さんからご紹介いただいた?」
ちょっと、先輩、なんで勝手に連絡入れてるんですかッ!?
こ、これは帰りにくくなった。名前をごまかして帰ると、ドタキャンになる。
私はしぶしぶ、道場に入った。
「どうぞ」
「お、おかまいなく」
椅子に座った私は、お茶をごちそうになった。手をつける前に、確認。
「あの……店員さんは、どちらさまで?」
「あ、自己紹介が遅れました。駒の音サロンの席主代理、宗像ふぶきと申します」
えぇッ! このひとが席主なのッ!?
や、やっぱりここは、店員が女性ばかりの、いかがわしいお店なのでは。
どぎまぎする私をよそに、話は進んだ。
「来ていただけて、たいへん光栄です。履歴書などは、お持ちですか?」
「いえ……あの……」
私は、メイド服の女性を盗み見た。椅子に座らず、窓際に立っていた。
そして、目が合った。
「私の顔に、なにか?」
しゃべりかたも怖いなあ……私は、それがスタッフの正装なんですか、と尋ねた。
「ちがいます。これは私の普段着です」
うっそ……メイド服が普段着とか、ナイでしょ、さすがに。
私が唖然とするなか、宗像さんはお盆を胸に抱いて、
「こちらも、バイトに応募してくださったかたです」
と教えてくれた。
「はじめまして、わたくしは、橘可憐と申します」
メイドさんは、そう言って自己紹介した。
これ、私も自己紹介しないといけないのかしら。
「私は、うら……」
「裏見香子さん、ですね?」
「……なんでご存知なんですか?」
「わたくし、晩稲田の将棋部におりますもので」
こ、このひと、大学生なんだ……いや、年齢的にはそうだろうけど……外見が……東京には変なひとがいっぱいいるって聞いてた通り……裏見香子、落ち着け……。
「よ、よろしくお願いします」
お互いに自己紹介を終えたところで、宗像さんはにっこり微笑んだ。
「形式的には、履歴書を提出していただいてから面接なのですが、橘さんは私もよく存じ上げていますし、裏見さんは土御門さんのご紹介ですので、実質内定ということに……」
「お待ちください」
橘さんが、いきなり割り込んだ。
「どうか、なさいましたか?」
「ぼっちゃまも、応募致します。応募者は2名ではなく3名です」
ぼっちゃま? ……だれ? このひと、もしかして本物のメイドさん?
困惑する私をおいて、会話は進んだ。
「朽木さんは、いらしていないようですが?」
「ぼっちゃまは、5限に講義が入っているため、まだいらしていません」
「そうでしたか……しかし、裏見さんのほうが早くいらしたので……」
「先着順とは、うかがっておりませんが?」
うーん、ごねてるごねてる。
宗像さんは、お盆を抱いたまま、
「困りましたね……内輪の募集でしたから、まさかバッティングするとは……」
とつぶやいた。
「将棋の強い順から、ではいけませんか?」
橘さんは、強い順に雇えと言い始めた。これには、私も反応せざるをえない。
「強い順って……指して決めるってことですか?」
「裏見さんは、なにかご不満でも?」
「不満っていうか……時間がかかりませんか? 3すくみになったときとか……」
橘さんは、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「勘違いなさっているようですが、わたくしと裏見さんが指すだけです」
はぁ? このひと、なに言ってんの。
「クチキって言うひとは? 無勝負で内定ですか? アンフェアですよね?」
「あなたは、ぼっちゃまに勝てない……これが将棋界の真理です」
なーにが、真理よ。腹立たしいわね。
ぼっちゃまかじっちゃまか知らないけど、ほんとは彼氏かなんかでしょ。
H島高校竜王戦優勝の香子ちゃんを、舐めないでくださいな。
「あなた、そう断言できるほど強いんですか?」
「わたくしですか? ……強いですよ」
ほほぉ、自称強者――これは受けて立たざるをえない。
「あ、あの、橘さん、裏見さん、もうすこし平和に話し合いを……」
「「将棋で決着をつけます」」
「……分かりました」
私たちは、盤を挟んで座った。夕日が室内に差し込む。
「ルールは?」
「裏見さんの、お好きなように」
完全に格下扱いね。腹立たしいけど、ここは冷静に考える。はったりでないなら、この子は有段者のはずだ。級位者で、自分が強いということは滅多にない。それに、宗像さんが、彼女のことを知っているのも気になった。
「……15分30秒で」
「無難なチョイスです」
大事な勝負だから、30分60秒でもいいんだけど、時間がかかり過ぎる。
それに、一発勝負なら、どのみち水物だ。
「では、わたくしが振り駒を」
橘さんが振り駒をして、表が4枚。先手を引いた。
後手番の私は、チェスクロを右に置かせてもらう。
「それでは、宗像さん、立会人をよろしくお願いいたします」
「は、はぁ……」
橘さんのひとことで、対局が始まった。
「よろしくお願いします」
私はチェスクロを押す。橘さんは、7六歩と突いた。
「8四歩」
居飛車を選択。さっきの会話からして、棋風がバレているのかもしれない。
だったら、得意な戦法へ誘わせてもらう。相手が振り飛車党でも、8四歩が損になることはない。早石田なんかの奇襲も封じられる。得だと思った。
その一手をみて、橘さんは10秒ほど考え、6八銀と上がった。矢倉だ。
お互いに居飛車党と分かってからは、指し手が速かった。
3四歩、6六歩、6二銀、5六歩、5四歩、4八銀、4二銀、5八金右。
早囲いの兆候もないわね。
3二金、7八金、4一玉、6九玉、7四歩、6七金右、5二金。
矢倉急戦も一瞬考えたけど、私は放棄した。
ここまでの指し手、スピード、ためらいのなさに、相手の実力を感じたからだ。
「7七銀」
「3三銀」
7九角、3一角、3六歩、4四歩。
24手組は終わって、分岐点に入った。
「なるほど、裏見さんも、なかなかやられるようですね……3七銀です」
一番オーソドックスな、3七銀。
どうやらこのメイドさん、がっぷり四つで押し切る自信があるらしい。
それなら、私も小細工なしで押し切る。
「6四角」
6八角、4三金右、7九玉、3一玉、8八玉、2二玉。
「1六歩」
橘さんは、端歩を突いた。突き返すのもありだけど……ここは構想力をみせる。
「8五歩」
「ほぉ……森内流ではないわけですか……2六歩です」
私は30秒ほど確認してから、7三銀と上がった。
高校生のときに流行っていた、5三銀からの総矢倉模様を拒否。
ここで先手は、4六銀と上がるか、4六角と上がるか。
橘さんは、初めて小考した。
「……4六銀」
銀上がりを選択。私も、こっちを本線で読んでいた。
私は7五歩と突いて、同歩に4五歩、3七銀と下がらせてから、8四銀と出た。
「7五銀〜8六歩から、玉頭で総交換ですか。受けて立ちましょう」
橘さんは、7四歩と伸ばした。私は7五銀とすり込む。
「2五歩」
ずいぶんと悠長……いや、最善か。他に動かす駒がない。
私は、1分使って攻め筋を確認。
「8六歩ッ!」
開戦――同銀、同銀、同歩、同角、同角、同飛。
「8七歩」
「8二飛」
私がチェスクロを押した途端、橘さんは7四の歩に手を添えた。
「まさか、これを見落としではありませんよね? 7三歩成」