233手目 保険外交員
橘先輩が事故で入院したと知らされたのは、翌週のことだった。
通学路でたまたま出会った風切先輩に教えてもらった。
「橘先輩が事故ッ!?」
私のおどろきように、風切先輩もびっくりしていた。
「あ、ああ……死んだわけじゃないぞ」
私はおそるおそる、
「だれかとケンカした……とかじゃないですよね?」
とたずねた。
まさか、朽木先輩とケンカになって、その拍子に──
「大学で階段から転落して、腕を骨折したらしい。昨日の話だけどな」
「階段から転落……ですか」
「そういえば、バイト先がおなじだったよな。見舞いに行くか?」
私は、病院の名前を教えてもらった。
意外と近かった。もしかして、自宅の近くに移動したのかしら。
ただ、お見舞いに行くのも、なんだか変な気がするのよね。
バイト先でいっしょだから? なんか唐突じゃない?
「……時間があれば、顔を出してみます」
「そうだな。俺もちょっと時間を見つけていくつもりだ」
そのあと、午前の講義を終えた私は、講義室でなやんでいた。
みんなが昼休憩に入るなか、お見舞いにいくかどうか思案する。
今日の午後は、講義がない。時間はある。
それに、例の電話──通称Xからの忠告が気になっていた。
橘先輩を見張れ? 保険金の件を、Xも聞きつけたのかしら?
でも、それって変よね。話があべこべだもの。橘先輩が朽木先輩の保険金を狙ってるんじゃないか、っていうのが、これまでの勘ぐり。ところが、じっさいにケガをしたのは橘先輩のほうだった。ようするに、すべてが邪推だった、と。
私がそう結論づけようとしたとき、そばを学生が通りかかった。
「裏見さん、どうしたの?」
メガネをかけた、すこしおでこの広い女の子。
1年生ゼミでいっしょの粟田さんだった。
「あ……うん、ちょっと考えごと」
「ごめん、邪魔しちゃったかも。ところで、来週のゼミの課題、やった?」
……………………
……………………
…………………
………………あッ、しまった、忘れてた。
「みじかな経済現象をひとつあげて説明しなさい、だっけ?」
「字数がちょっと多いから、早めにやっといたほうがいいかも」
お見舞いは、あとまわしね。橘先輩、ごめんなさい。
私がそう決心したとたん、MINEに通知がはいった。
ほむら 。o O(カレンの件、聞いた?)
げげッ……火村さんも情報をつかんでるのか。
だれ経由?
いぶかしく思いつつ、私は返信をした。
香子 。o O(聞いた)
ほむら 。o O(お見舞いにいかない?)
ん……どういう風の吹きまわしなのかしら。
すこし返信に迷う。
香子 。o O(急にいくとめいわくじゃない?)
ほむら 。o O(突き落とされたって聞かなかった?)
……………………
……………………
…………………
………………え?
香子 。o O(だれから聞いたの?)
ほむら 。o O(明石から。明石は晩稲田の知り合いから聞いたって)
私は荷物をまとめる。
「ごめん、粟田さん、ちょっと急用」
「りょうかーい。またあとでMINEしてね」
○
。
.
病院の空気は、いつも独特なところがある。
薬品の匂いと、奇妙な静けさ。
患者さんを呼び出す声。おじいさんおばあさんたちの会話。
私たちは受付を済ませて、橘さんの病室に入った。女性用の個室だった。
橘さんは右腕にギプスをつけた状態で、ベッドに横たわっていた。
私はまごまごしてしまう。いっぽう、火村さんは、
「可憐、元気してる?」
と、気軽なあいさつをした。
橘さんは顔だけこちらに向けて、
「めずらしいお客さんですね」
と返した。
「大会で指したばっかでしょ。で、どうなの?」
「ご覧の通りです。説明の必要はないかと思いますが」
「突き落とされたって聞いたけど?」
うわッ、ド直球。
ところが、橘さんは、
「そのような気がしただけです」
と、いたって冷静に答えた。
否定はしないのか──それはそれで気になってくる。
火村さんは、さらにずけずけとたずねた。
「どこでケガしたの?」
「お見舞いにいらしたのですか? それとも、野次馬で?」
うーん、つれない返事。
でも、あたりまえよね。お見舞いっぽくないし。
私が代わりに話すことにした。
「バイト先の宗像さんには、私から言っておきます。ゆっくり療養なさってください」
私は、道中で買ったミカンをさしいれた。
橘先輩は、ちらりとカゴをみやる。
「……ありがとうございます」
そのときだった。
急にドアがひらいて、朽木先輩が顔をのぞかせた。
朽木先輩は、私たちの存在にすこしおどろいて、
「裏見くん、火村くん、お見舞いに来てくれたのか?」
とたずねた。
「あ、はい……こんにちは」
「そうか、ありがとう……可憐、入院費の件で、保険会社のかたがいらしたぞ」
朽木先輩はそういって、ひとりの中年女性を入室させた。
ひとあたりが良さそうな、それでいてあんまり引かないタイプの女性にみえた。
服装はグレーのスーツに白のYシャツで、すごくおとなしめだった。
「それと、買い出しもして来た。ここに置いておく」
朽木先輩は、サイドテーブルのうえにレジ袋をおいた。
果物とか洗面用具。
あとは朽木先輩に任せたほうがよさげね。もう聞き込みはできないし。
私は火村さんに、「そろそろお暇しましょ」とうながした。
ちょっと抵抗されるかな、と思ったら、火村さんもあっさり引き下がった。
「じゃ、可憐、またね」
私たちは病室を出る。
廊下でひそひそ話。
「火村さん、ちょっと図々しかったんじゃない?」
「時間がないと思ったのよ。朽木は絶対に来ると思ってたし。まさかこんな早く……」
ガチャリ……
ぬぅうううう、ドアがひらいた。
もしかして壁が極薄?
あたふたする私をよそに、朽木先輩が出てきた。そのままドアを閉める。
「今日は可憐のお見舞いに来てくれて、感謝する」
「あ、いえ、どうも……橘先輩のおそばにいらっしゃらなくて、よろしいんですか?」
「保険会社の外交員は、可憐と話をしたいらしいのだ。席をはずすように言われた」
内密な話ってことか。まあ、お金が絡んでるとそうかな、と思う。
朽木先輩は、1階の待合所でコーヒーでもどうか、と誘ってきた。
これまた迷うお誘いだったけど、火村さんが先にOKした。
私も成り行きでOKする。
1階の待合室は、大手チェーンの喫茶店になっていた。
最近、こういうの多いわよね。非商業施設のなかに有名なチェーン店があるっていう。
朽木先輩は、コーヒーをおごってくれた。
私たちは遠慮したけど、ぜひ、ということだったので、ご馳走になることに。
じゃっかん後ろめたい気分。半分は偵察で来たんだもの。善意ではなかった。
4人がけのテーブル席につく。
朽木先輩はミルクのキャップを開けながら、
「今日はほんとうにありがとう。可憐も喜んでいると思う」
と、3度目の感謝を告げられた。
「いえ、こちらこそ、わざわざおもてなしまでしていただいて……」
橘先輩が転落したとき、朽木先輩はその場に居合わせなかったらしい。
というより、だれも現場を目撃していないとのことだった。
ここで、火村さんがまたストレートに、
「突き落とされたっていうのは、ほんとうなの?」
とたずねた。
朽木先輩は、飲みかけのコーヒーを皿にもどした。
「……それは、だれから聞いた?」
「そのへんで噂になってるわよ」
火村さんは、明石くんから聞いたことを明かさなかった。
朽木先輩も、深くは追及せずに、
「救急車を呼んでくれた学生に、可憐がそう言ったらしい」
と、むしろ情報提供をしてくれた。
「で、あんたは信じてるの?」
「いや、可憐を突き落とすほど恨んでいる学生はいないだろう。それに、犯人は目撃されていないのだ。可憐のかんちがいだと思う。踊り場に消火栓があった。単につまずいてしまったのではないだろうか」
火村さんは、コーヒーに手をつけないまま、
「そう……」
と言って、考え込んでしまった。
朽木先輩はこれをみて、
「おっと、すまない。火村くんはコーヒーが苦手なのだな」
と言い、べつのものを注文するかどうかたずねた。
「いいのよ。嫌いってわけじゃないから。ところで……」
ちょうどそのとき、お店の入り口に、さきほどの外交員さんが現れた。
外交員さんは朽木先輩を呼び出した。
入り口でなにやら話をして、ふたりはどこかへ消えてしまった。
火村さんは椅子から飛び降りる。
「香子、行くわよ」
「え、まだ飲み終わってないでしょ?」
「いいから、早く」
私は手をひかれ、喫茶店を出た。
火村さんは猫みたいにすばやく、朽木先輩たちを追いかけた。
私はそんなにうまく忍べない。ついていくのが精一杯。
火村さんは、白いとびらのまえでようやく静止。
【談話室】のプレート。スライド式のドアに、使用中の赤い札がぶらさがっていた。
火村さんは、爪をドアのあいだにいれて、音もなくスーッとミリ単位で開けた。
私は注意しかけた。
けど、火村さんはひとさしゆびをくちびるにあてて、静かにするように指示した。
私も耳を澄ます──外交員の女性が、なにかを説明しているようだった。
「お時間をとっていただき、ありがとうございます。2点ほど、確認させていただきたいことがございまして……朽木さまは、橘さまとご同居なさっていますね?」
「はい」
「おうかがいしにくいことではありますが……今後、ご結婚なさるご予定は?」
朽木先輩は、すこし答えにくそうに返した。
「それは……今のところありません」
「朽木さまのプライベートに関わりますので、あまり深入りはいたしませんが、死亡保険金の受取人は、原則的に親族のみとなっております。朽木さまの場合は、ご両親の……いえ、弊社と朽木さまとの特別な信頼関係から成り立っておりますので、内縁関係という判断をいたしております。本来であれば、橘さまとの面談も必要ですが、そこも省略いたしました。しかしながら、今後もご入籍なさらない場合は……」
「加入条件の見直し、ということですね。わかりました。それについては、今後誠実に対応させていただきます。もう1点はなんでしょうか?」
「橘さまに、ご親族はいらっしゃらないのでしょうか?」
一瞬、会話がとまった。
「……それは、僕に質問することではないように思いますが」
「もうしわけございません。橘さまご本人のお話によれば、親族はひとりもいらっしゃらないそうなのです。すると、法定相続人がおりませんので、死亡保険金の受け取りについては、特別縁故者……生前の生活関係が密接だったかたに、権利が発生します」
「つまり、僕ですか?」
「もし橘さまがお亡くなりになられて、3ヶ月以内に法定相続人がみつからない場合は、朽木さまのご申請により、受給資格が発生いたします」
「待ってください。可憐は……橘は骨折しただけでしょう?」
「今のは事務的なお話です……おふたりのケースは、弊社におきましても、いわゆる特例のような扱いをさせていただいております。お含みおきいただければと存じます」
「僕からも質問させてください……なにか父に言われたのではありませんか?」
「いえ、そのようなことはございません」
女性の口調は、いたって事務的だった。
そのあとは、朽木先輩の「わかりました」という声だけが聞こえた。
私たちはリネン室に隠れてやりすごす。
保険の外交員さんらしき足音が、すたすたと廊下を通り過ぎた。
さらに朽木先輩の足音が続き、これも消えた。
私たちは外に出る。なんだかスパイごっこみたいで緊張した。
それに、ちょっとした罪悪感をおぼえた。盗み聞きなのはまちがいない。
いっぽう、火村さんは、
「なるほどね」
とつぶやき、小さくうなずいていた。
「なにが、なるほどね、なの?」
「今回の事件の真相がわかったわ」
私はびっくりして、その真相とやらをたずねた。
火村さんは、すこし困ったような顔をする。
「香子には教えてあげてもいいけど、どうやって解決しましょ。あたしたちが犯人を指名すると、あとでこじれる気がするのよね……あいつが自主的に解決してくれないかしら」