232手目 相思相愛
後日、『駒の音』にめずらしいお客さんがやってきた。
「んー、むずかしいわね」
火村さんは、飛車をパシリと空打ちした。
私もむずかしいと思う。
窓際の席で、ストーブにあたりながらの感想戦。
対局は私の負け。火村さん、あいかわらず強かった。
それにしても、なんで駒の音に来たんだろう。玄関にあらわれたときは、びっくりしてしまった。私の記憶ちがいでなければ、彼女は今日が駒の音デビューのはずだった。
私はお茶をひと口飲んで、
「どうして今日は駒の音に?」
と、率直にたずねてみた。
「香子がバイトしてる道場、どんなところかなぁ、と思って」
ウソくさいなぁ。やみくもに疑ってるわけじゃない。火村さんは、対局中に橘先輩のほうをチラチラ見ていた気がする。つまり、橘先輩の視察に来たってこと。
それをうらづけるように、火村さんは、
「ねぇ、次は可憐と指させてくれない?」
と注文してきた。
「手合い係の宗像さんに頼めば、対局させてもらえるわよ」
「そっか……じゃあ、感想戦はこれくらいにしましょ」
私たちは一礼した。
火村さんはそそくさと席を立った。そのまま、入り口付近にある席主のデスクへ。
私は駒をならべなおし、チェスクロをもどした。
となりで指していた男子小学生が、
「あの子、どこ小? それとも中学生?」
と訊いてきた。
大学生なんだけどなぁ。見た目で判断するの、よくない。
そりゃ、火村さんは女性としても背が低いけど。
いずれにせよ、ほかのお客さんの情報は教えられない。
「プライベートの話は訊いちゃダメよ」
「んー、そっか。香子姉ちゃんに勝ってるやつ、ひさしぶりにみたな」
私も席を立つ──のはいいんだけど、このあとが問題だった。
先日の一件以来、橘さんとまともに会話ができないのだ。
私も、なるべく思い出さないようにしている。けど、どうしても、ね。
橘さんは、給湯室でお茶を淹れているところ。お湯を沸かしている最中。
私は入り口からのぞきこんだ。
「……橘先輩、手伝いましょうか?」
「いえ、ふたりでするほどの作業ではないので……裏見さんは、そちらの……」
そのときだった。
手合い係の宗像さんが、すこし大きな声で、
「橘さん、一局指していただけますか?」
と声をかけてきた。
橘さんはすぐに返事をした。
「承知しました……すみません、裏見さん、お茶をお願いいたします」
橘さんは給湯室を出て行った。
私は、お湯が沸騰するのを待つ。それほど時間はかからなかった。でも、沸騰したてのお湯で淹れるのは、あんまりよくないのよね。適温というものがある。私はすこし冷めるのを待った。そろそろかなと思ったとき、ふいに、給湯室に備えつけの電話が鳴った。
勝手に出るわけにはいかないので、宗像さんに了解をとる。
「宗像さん、お電話です」
「すみません、代わりに出ていただけますか? 列ができているもので」
「あ、はい」
うーん、バッドタイミング。
私は電話に出た。
「もしもし、将棋道場、駒の音です」
「オヒサシブリデスネ」
私は息をのんだ。このボイスチェンジャーは──
「あなた、聖生……じゃないわね。だれ?」
「オヤ ソコハシンジテ イタダケルノデスネ」
私は給湯室のそとを確認しつつ、声を落とした。
「なんの用なの? いたずらなら切るわよ?」
「オオゴエデ ハナセナイノハ ワカリマス ヨウケンダケ オツタエシマス タチバナカレンサンヲ ミハッテクダサイ ワタシハアナタノミカタデスヨ デハ」
そこで電話は切れた。
プーッという機械音を聞きながら、私はぼうぜんとする。
しばらくて、宗像さんが顔を出した。ようすがおかしいと思ったらしい。
「裏見さん、どなたからでした?」
「あ、その……急に電話が切れてしまって、なんの用件なのか……」
「あら、スマホのタッチをまちがえた、とかでしょうか」
「そ、そうかもしれません。切断をまちがってタッチしたとか……」
我ながら、白々しい嘘をついてしまった。
けど、宗像さんは納得してくれたようだ。
「だいじな用件なら、かけなおしてくるでしょう。先にお茶をお願いします」
そのあと、私はお茶を淹れた。
お客さんたちに順番に出す。とちゅう、橘先輩と火村さんの席にも出した。
ふたりは軽くお礼を言っただけで、対局に集中していた。
私はそれを観戦するわけにもいかなかった。どんどん手合いがつく。
何局か終わってみると、火村さんはもういなくなっていた。
あいさつもナシかぁ。って、まあいいんだけど。来るときも連絡なかったし。
こうして夜になり、道場はおひらき。最後のおじさんが帰る。
宗像さんは帳簿をつけつつ、
「おつかれさまでした。今日のゴミ出しは私がします」
と、早めに解放してくれた。
すると、橘先輩はすぐに荷物をまとめ、道場を出て行った。
それを見送った宗像さんは、ちょっと首をかしげて、
「橘さん、ご体調がよろしくなかったのでしょうか?」
とつぶやいた。
私はドキリとしてしまう。
「どうでしょうか……いつもどおりかな、という気も……」
「橘さんは、すこし具合が悪くても出勤してしまうタイプかもしれませんね。冬の道場は密室です。裏見さんも、体調が悪いときは必ず休むようにしてください」
うーん、そう、これなのよね。
やっとわかった気がする。私が宗像さんに対して持つ違和感。
宗像さんは、礼儀正しい。でも、その礼儀正しさには、どこか冷淡なところがある。
今のセリフだって、感染者が出ると経営に支障が出るから、というニュアンスだ。
橘先輩や私の健康を、直接的に心配しているわけじゃない。
宗像ふぶきさんと宗像恭二くん、このふたりは姉弟なのにぜんぜん似ていないと、私は思っていた。それはまちがいだったのかもしれない。ふたりとも、他人に関心がない点では似ている。だとすれば──ううん、ダメダメ。東京に来てから、ものごとに対する見方が、ちょっとスレてしまった。東京という環境の問題ではないのだろう。高校生のときは知らなかった、生の人間関係をみせられているというか。なんだろう、この気持ち。
私はマフラーをして、道場を出た。鉄製の階段をおりる。
そとはすっかり暗い。気分的にも怖いし、松平に迎えに来てもらおうかしら。
ただ、送ってもらうためだけに今から呼び出す、って言うのもねぇ。
「おや、裏見くんではないか?」
私はとびあがりかけた。
ふりむくと、暗闇のなかに、自転車のライト。
朽木先輩だった。
「先輩……どうしてここに?」
「可憐の迎えに来た」
……………………
……………………
…………………
………………え?
「さっき降りて来ませんでしたか?」
「さっき、とは?」
「えーと、10分ほどまえに……」
「いや、僕は今来たところだ」
私はこの状況を、どう解釈したものかなやんだ。
「……ご連絡は、とられてないんですか?」
「7時15分にここで待ち合わせ、という約束だったのだが……」
なんともいえないわね、これ。
ヘタに憶測を入れないほうがいいと思った。
「すみません、ちょっと存じあげないです」
朽木先輩は、すこし顔色を変えたようにみえた。
でも、暗くてよくわからなかった。
「そうか……裏見くんはひとりか?」
「はい」
「家はこの近くだったかな。送って行こう」
……………………
……………………
…………………
………………はい?
いや、朽木先輩、なにをご乱心なさってるんですか。
橘先輩をさがしてくださいな。っていうか、なにこれ? 送りオオカミ?
「いえ、ひとりで帰れますので……」
「じつは、裏見くんとすこし話したいことがある」
いやいやいや、展開によっては私が橘先輩に刺されるから。
ダメ、絶対。
「すみません、ひとりで帰れます。それに、橘先輩と行き違いになりますよ」
「いや、可憐は先に帰ったのだと思う」
なんでそうなるの。
これはもう松平を呼ぶしかない。
「すみません、じつは待ち合わせを……」
「そうそう、あたしと待ち合わせしてるから」
闇の奥に、なにかが光った。
それはアクセサリーの反射で──火村さんの姿がうかびあがった。
これには私がおどろいてしまう。
火村さんは、両手を腰にあてて、前のめりに朽木先輩を威嚇した。
「あんたねぇ、ナンパするならもうちょっと考えてやりなさいよ」
「そのようなことをするつもりはない」
「香子を家まで送ろうとしていたでしょ」
「それは夜道が危ないと思ったからだ……それに、すこし相談したいことがあった」
「相談? なによそれ。じゃあ、あたしが代わりに訊いてあげるわ」
「それでもかまわない。むしろ、火村くんにもぜひ聞いてもらいたい」
え? そうなの? ……無差別ナンパですか?
いや、でも、さっきから朽木先輩、ちょっと雰囲気が深刻なのよね。
それとも、そういう態度を釣り餌にしているのかしら。混乱してくる。
火村さんも不審に思ったのか、両腕を組んで、背筋を伸ばした。
「じゃあ、テーマを言いなさいよ、ここで」
「可憐のことで、すこし聞いてもらいたいことがある。きみたちは、可憐と距離をとっていない数少ない女性だ……どうだろう? 時間をとってもらえないだろうか?」
○
。
.
街灯がポツリポツリとたたずむ、さみしげな夜道。
私たち3人は、ゆっくりと並んで歩いていた。
朽木先輩は、自転車を手押ししたまま、さっきからずっと黙っている。
火村さんはすこしキツめの口調で、
「で、相談ってなんなの? けっきょく連れ出す口実?」
とたずねた。
朽木先輩は自嘲ぎみに、
「相談しようとは決めていたが、いざとなると、心の整理がつかないものだな」
とかえした。
火村さんは、ちょっと口調をやわらげて、
「沈黙につきあうのも、一種の相談みたいなものよね。話したくなったら言って」
と諭した。
その言い方は、押し付けがましくなくて、どことなくやさしさが感じられた。
朽木先輩も、かるくうなずいた。
「そうだな……ひとりで考えていても、頭がおかしくなりそうになる……これから話すことは、だれにも言わないで欲しい。きみたちを信頼する」
うわぁ、そういうプレッシャーをかけないで欲しい。
もしかして、可憐をアパートから追い出したいのだが、どうすればいい、とか?
それはもうアドバイスできないわよ。
私が身構えるなか、朽木先輩は自転車をとめた。
「僕は可憐を愛している」
……………………
……………………
…………………
………………
反応ができない。私はかたまってしまった。
いっぽう、火村さんはふかくタメ息をついた。
「ま、そうだと思ったわ」
「いつから気づいていた?」
「だいぶまえから。あんた、可憐のそばにいると、ちょっと匂いがちがうのよ」
「そ、そうか……態度に出ていたのか……」
いや、ぜんぜん出てなかったと思う。
私が鈍感なだけ?
他人の恋愛に気づかない案件は、高校でもやらかしてたけど。
私はこの場を、火村さんに任せることにした。
火村さんは、淡々と話をすすめた。
「どれくらい本気なの?」
「可憐以外の女性を、好きになったことはない。僕にとって最高の女性だ」
橘先輩が聞いたら、その場で卒倒しそうなセリフだ。
とりあえず内心で、おめでとうございますを言っておく。
ところが、ここから流れがおかしくなった。
「で、可憐本人じゃなく、あたしたちに打ち明けた理由は?」
「……僕は可憐とは結婚できない」
火村さんは目を細めた。
「家柄ってやつ?」
「ちがう……だが、結婚はできない」
「理由は?」
「それは言えない」
肝心なところを隠蔽されてしまった。
火村さんは、すこし考え込む。
「……だったら訊かないことにするわ。内容はそれだけ?」
「このまま黙って同棲しているのは、可憐にとってしあわせなのだろうか? それとも、『僕はきみを愛しているが、結婚できないから別れて暮らそう』と告げるほうが、誠実なのだろうか? ……きみたちは、どう思う?」
難問すぎる。
たぶん正解はない。私たちが決められることでもない。
火村さんも、さすがに間をおいた。
「可憐にとってしあわせなのか……ね。ってことは、あんたはしあわせなわけ?」
「愛する女性と同棲しているのだ。しあわせでないはずがない」
「まあ、でしょうね……でも、可憐は苦しんでるわよ。それはわかってるでしょ?」
朽木先輩は、うしろめたそうな表情でうなずいた。
「わかっている……それに、可憐はここ数日、妙によそよそしくなった気がする。もしかすると、僕に見切りをつけたのかもしれない。それも仕方がないことだ。僕の実家は破産して一文なしだし、今のところ事業も起こせていない。大学生のスタートアップなど、いくらでもあるのにな。才能がないと思われても、言い返す手立てはない。だったら、せめて僕のほうから別れ話をしたい」
冷たい夜風が、白い息を吹き払う。
朽木先輩の問いかけるようなまなざしを、火村さんはおとなびた表情でかえした。
「それは、あんたが決めることだと思うわ」
「そうだな……しかし、もう手遅れかもしれない」
「どうして?」
「可憐はここ数日、衣服の整理などをしているのだ。僕の目を盗んで、こっそりと。おそらくアパートを出るのだろう……今晩かもしれないな。僕は出迎えに来たが、可憐は先に帰ってしまった。すでに、アパートは空っぽになっている気がする。僕はその部屋を見るのが怖くて、裏見さんに声をかけてしまった。現実逃避だった。もうしわけない」
考えがまとまらない。謎の電話は、私の幻聴だったのだろうか。
どこまでが朽木先輩の妄想で、どこまでが現実なのかもわからない。
夜は深まる。いたずらにすべてを覆い隠して。
ただひとつわかったのは──なにか危険なことが起きている、それだけだった。