231手目 内縁の妻
将棋サロン『駒の音』の洗い場。
コップを洗いながら、私はぼんやりと考えごとをしていた。
橘先輩が朽木先輩に仕えているのは、保険金狙い
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ふだん忠実なのは、朽木先輩が不審死しても疑われないようにするため
↓
そろそろ実行に移そうと思っている
うーん、昼ドラみたいな展開を妄想してもなぁ。
そもそも、状況証拠すらないのよね。あるのは検索履歴だけ。あんなの証拠でもなんでもない。それに、松平がだいじなことを指摘してくれた。それは、太宰くんの自作自演なんじゃないか、ってこと。そっちのほうが保険金殺人よりもよっぽどありそうだ。あの生命保険のパンフレットだって、アパートから持って来たなんて嘘よ。捨てるなら、家のゴミ袋に入れたらいいだけ。大学に持って来る必要がないもの。
太宰くんは、私たちからなにか情報を引き出したかった?
それとも……太宰くんが聖生?
ううん、よくわからない。大谷さんのいうように、もう宗像くんが本命になってきていると思う。ほかのひとを疑うのは、時間のムダだ。そもそも証拠がない。
「裏見さーん?」
うわッ!? 私はびっくりして、コップを落としてしまった。
洗い場で、カランという陶器の音がした。私はあわてて確かめる。
割れては……いないわね。よかった。
宗像さんはすこしおどろいて、
「あ、すいません、いきなり声をかけてしまいまして」
と謝った。
私はコップの水を切って、籠に入れた。
「なんでしょうか?」
「クリスマスシーズンに、シフトを入れていただけますか?」
あ、うーん……私は返答に迷った。
断るのは確定なんだけど、理由をどうしましょ。
「すみません、その日はちょっと用事が……」
私は理由を告げないことにした。
松平とデートするにせよ、王座戦を観に行くにせよ、宗像さんに伝える必要はない。
とくに後者は、宗像さんに反応される可能性があった。
ちょっと失礼かな、と思ったけど、宗像さんはにっこりと笑って、
「そうですよね。空いてないですよね。こちらこそ失礼しました」
と言い、話はそれっきりになった。
○
。
.
というわけで、この件はなかったことに──したかったわけなのですが。
話をむしかえされたのは、その週の土曜日だった。
新宿でララさん、火村さんと遊んで、有縁坂でコーヒータイム。
今回は店の一番奥、窓ぎわのいい席がとれた。
壁の抽象画を横目に、渋谷の交差点をみおろす。んー、上京してるって感じ。
火村さんはいつものように、トマトジュースをチューチューしていた。
グラスのなかの赤い液体が、ストローを通ってくちびるに消えていく。
「毎回おなじもの頼んでない?」
私の質問に、火村さんは、
「これが一番おいしいのよ」
と返した。
ほかのドリンクと比べたことがないのに、一番とは。
それとも、私の知らないところで、メニューをあらかたチェック済みなのかしら。
そんなことを考えていると、左どなりのララさんが、
「香子だって、ブレンドコーヒーが多くない?」
と、つっこみを入れてきた。
うーん、そう言われると、そうかも。
「オリジナルブレンドって、お店のひとのオススメってことでしょ。味が毎回ちょっとずつ違う気がするし、これでいいかな、って」
今日は、前回よりもすこしコクがあるような気がした。たぶん。
「へぇ、香子、コーヒーの味のちがいがわかるんだ。やるね。ララはさっぱり」
「地元にある喫茶店が、わりと凝ってたのよ。ララさんは、あんまり飲まないの?」
「ブラジルだと、エスプレッソに砂糖をいっぱい入れて飲むんだよ。だから、香子が飲んでるみたいなやつって、ちょっと苦いかな、とか、ちょっと濃いいかな、とか、そういうことくらいしかわかんない。キライじゃないけどね」
へぇ、そうなんだ。
そういえば、暑い地域は砂糖をたくさん消費するって聞いたわね。
どの講義だったかしら。そういう雑学みたいなのは、なんとなく覚えてしまう。
「ララさんはいろいろ頼んでるわよね。なにが一番好き?」
ララさんは、ホットキャラメルミルクのグラスを持ったまま、
「うーん、ここのお店はなんでもおいしいかなぁ」
と、あいまいな返事。
「店員さん的な回答?」
「ちがうよぉ。ララはもともと好き嫌いないしぃ」
ふむ、まあそういうタイプかな、という気はする。
「ちなみに、これって佐田店長がメニューを作ってるの?」
「ううん、工藤さん」
『白熱列島』で挨拶してたひとか。
どうも、彼女が仕切ってるっぽいのよね。カウンターにいつも立ってるし。
私がカウンターのほうを向きかけた瞬間、ララさんがもういちど話しかけてきた。
「ところでさ、香子、今日ちょっと暗くない?」
「え……? そんなことないわよ?」
「ほんと? なんか考えごとしてる気がするんだけど?」
嘘をついたつもりはなかった。
例の件は、さっきまですっかり忘れていた。
ただ、無意識に出ちゃったのかな、という気も。
「ま、学業とか、いろいろね」
ララさんはグラスをかたむけながら、目を細めて、
「ほんとかなぁ……カミーユは、どう思う?」
とたずねた。
対面の火村さんは、窓のそとをみていたらしい。
ふりかえって、
「ん? なにが?」
と、たずねかえした。
「香子、ちょっと暗くな〜い? って話」
「あれじゃない、えーと、なんて言うんだっけ……カレピ?」
ララさんはパチリと指をはじいた。
「それ」
あのさぁ、このメンバーは他人のプライバシーにあれこれと。
あきれてしまう。
「香子ぉ、カレピッピの話をするのだぁ」
「はいはい、ララさん、ここはそういうお店じゃないでしょ」
私が軽くあしらっていると、火村さんが口をはさんだ。
「あたしはだれがだれと付き合ってるとか、興味ないんだけど、橘は気になるのよね」
私とララさんは、きょとんとなる。
ララさんは、
「タチバナ……? あ、晩稲田のメイドさん? カミーユ、lésbicaだったの?」
と言い、テーブルに身を乗り出した。
火村さんは右手でララさんを押しとどめる。その目は真剣だった。
「そういう意味じゃなくて、あいつ、朽木とつきあってないの?」
「クチキ? ……香子、クチキってだれだっけ?」
「晩稲田の主将よ。おかっぱ頭で、つぎはぎのあるスーツを着たひと」
「ああ、あのひとか……で、カミーユ、そのふたりがなんで気になるの?」
「あのふたり、同棲してるんでしょ? それでつきあってないって、おかしくない?」
だから、それは他人のプライバシーなわけで──ん?
……………………
……………………
…………………
………………
私はなんとなく、不安な気持ちになった。
ララさんは、横合いから私の顔をのぞきこむ。
「ほら、やっぱり暗い顔してる。どうしたの?」
「あ、えっと……同棲してるのにつきあってないのって、たしかに変だな、と……」
「そうかな? 男女でルームシェアしてるだけでしょ?」
それはララさんの感覚だと思う。
日本だと、同性でルームシェアをすることはあっても、異性では少ない気がする。
まったく恋愛関係じゃないのにルームシェアをしてる、っていうのは、とくに。
火村さんも、私とおなじところに引っかかっているらしく、
「同棲してる理由が、ほかにある気がするのよね」
と言った。
私はすこし考えを整理しつつ、
「むかしは専属メイドだったから……かしら」
と答えた。
ところが、火村さんはまったく納得せずに、
「その時点で変じゃない? メイドってただの契約関係でしょ。契約先が潰れたら、ふつうは乗り換えるわよね。なんでボランティアみたいなことしないといけないの? しかも同居までして? なにか特別な理由があるんじゃない?」
と、矢継ぎ早に質問をとばしてきた。
私はコーヒーカップに手をかけ、それからまた離した。
……………………
……………………
…………………
………………マズいわね。
私のなかで、保険金の話が蒸し返されている。
同棲する理由は? 保険金を受け取るとき、疑われないようにするため。
サスペンスドラマなら、そういう設定になるだろう。
でも、さすがに連想ゲームだ。
私はこの話題を打ち切りたくなった。
そして、そのタイミングを見計らったかのように、テーブルに影が差した。
見上げると、メガネをかけた爽やか系の青年──慶長の児玉先輩が立っていた。
「やあ、3人そろって深刻な顔してるけど、どうしたの?」
私たちはおたがいに目配せしあった。
火村さんが対応する。
「女子会に首をつっこむのは、ちょっと失礼なんじゃない?」
「ハハハ、ごめんごめん。でも、朽木くんと橘さんの話をここでするのも、どうなの?」
これは一本とられた。火村さんも返答に窮する。
というか、ぜんぶ聞かれてたっぽい。最悪。
どこに座ってたのかしら。入店したときは気づかなかった。
火村さんは、すこしツンとして、
「同棲なんてめずらしいわね、って話をしてただけよ」
と言い、ごまかすようにトマトジュースを飲んだ。
児玉先輩は、急にしたり顔になった。
「それはアレじゃないかな、保険金の同居要件でしょ……ん? どうしたの?」
児玉先輩は、私の顔をみた。私は動揺して、
「あ、いえ……急に保険の話になったので……」
と、うやむやに返した。
児玉先輩は笑って、先をつづけた。
「ごめん、話が飛躍しちゃったね。生命保険の受取人には、制限があるんだよ。具体的には、配偶者か2親等以内の血族。妻とか両親とか子どもとか、そういうひとしか受取人にはなれないんだ。保険金詐欺の防止が目的。でも例外的に、同居してる異性のパートナーにはかけられる。内縁関係ってやつ。あのふたりのどっちかが生命保険に入って、どっちかが受取人に指定されてるんじゃないか、というのが僕の読み」
どんぴしゃすぎる。
児玉先輩の推理力に、私はびっくりしてしまった。
「裏見さん、どうかしたの? 僕の説明、なにかまちがってた?」
「いえ……私は経済学部なので、勉強になるな、と……」
「ハハハ、リップサービスと受け取っておくよ。それじゃ、邪魔して悪かったね」
児玉先輩はそう言って、カウンターへ移動した。
工藤さんになにかを注文している。
先輩がジョークを言ったのか、工藤さんは愛想笑い。
その談笑風景が、私にはとても不穏なものに感じられた。