226手目 将棋の時間
会議室に、重たい空気がながれる。
風切先輩は、壁とテーブルのあいだを通って、奥へとむかった。
そして、氷室くんの対面の椅子をひいた。
椅子のあしが、床をこする。風切先輩は腰をおろした。
「聞こえないな……と言いたいところだが、対局開始まえに蒸し返されてもめんどうだ。今のうちに答えとくぜ。ノーだ」
「ノー、というのは?」
「そんな賭けには応じられない」
氷室くんは視線をそらして、
「そうですか……会長選に出るということは、否定しないんですね」
とつぶやいた。
これには、何人かのメンバーが反応した。
けど、意味が分からない、という感じではなかった。むしろ、意味が分かっていないのは私だけで、ほかのメンバーは心当たりがあるようだった。大河内くんも太宰くんも真顔になっていたし、橘先輩も三和先輩も、口をはさもうとはしなかった。
ただひとり、八千代先輩だけは、あわてて会議室を出て行った。
風切先輩はうしろ髪をなでて、
「いったん否定してから後で認めるのは、好きじゃない」
と答えた。
「政治家の鑑ですね」
「いまは政治の時間じゃない。将棋だ」
氷室くんはそれっきり黙った。
そこへ、入江会長が駆け込んでくる。
「きみたち、なにをやってるんだい?」
これに対応したのは、三和先輩だった。
三和先輩は椅子にすわり、平然とした顔で、
「ああ、べつになにも起きてないよ」
と答えた。
「なにか賭けを……」
「なんでもない。ところで、この大会が終わったら、臨時役員会するから」
入江会長は眉間にしわをよせた。
「臨時役員会……? 議題は?」
「議題はあとでやってくるさ。予約しとく」
「これから召集をかけても、間にあ……」
「役員の過半数の出席でしょ。私、入江、八千代ちゃん、もこっち、公人、しょーちゃんの6人がいるから、足りてるよ。以前も即席役員会したじゃん」
入江会長は反論しなかった。
そして、質問もしなかった。ただひとこと、
「再開は15時からだ。それまでは休憩しておいてくれ」
とだけ言い、会議室を出て行った。
ドアが閉まり、ふたたび重たい空気がながれる。
しばらくして、橘先輩が口をひらいた。
「遍さん、どういうおつもりですか?」
三和先輩は、椅子に座ったまま、
「べつに、どうもしないよ」
とだけ答えた。そして、ふと思い出したように、
「しまったな。大会終了後に入江がバックレるっていう裏技もあるか……でも、そのときは副会長の私が司会でいいよね」
とつぶやいた。
橘先輩は、これを聞きとがめて、
「その場合は、過半数の要件を満たさないのでは? 役員は10名のはずです」
とたずねた。
「どうせ爽太は来るんでしょ? それでまた過半数になる」
「……」
……………………
……………………
…………………
………………え? 橘先輩、なんで否定しないの?
朽木先輩、ここから来るの? 橘先輩が負けてるのに? なんで?
霧のなかに放り込まれたみたいで、私は大いに混乱した。
○
。
.
15時ジャスト──八千代先輩は、こほんと咳ばらいをした。
「それでは、振り駒をお願いいたします」
三和先輩と風切先輩が、それぞれ振った。
三和先輩は歩が3枚、風切先輩は0枚。
「後手か」
風切先輩は駒をもどした。
八千代先輩は腕時計をみる。
「……それでは、始めてください」
「よろしくお願いします」
初手を指すまえに、氷室くんは小声で、
「そういえば、先輩と公式戦で指すの、小学生のとき以来ですね」
と言った。
風切先輩はなにも気にせず、
「中高は奨励会にいたからな」
と答えた。
「失礼がないように指します」
氷室くんはそう言って、7六歩と突いた。
3四歩、2六歩、4四歩、4八銀、9四歩、9六歩。
「3二飛」
三間飛車。すこし意外なチョイスだった。
端歩の対応をみて判断したのか、それとも最初から用意していたのか。
私たちは進行を見守る。
2五歩、3三角、6八玉、4二銀、7八玉、6二玉、5六歩。
先手はどうする気なのかしら?
7二銀、5七銀、4三銀、7七角、7一玉、8八玉。
これは……もしかして穴熊?
端を突いたうえで穴熊を選択したのかもしれない。
すくなくとも、急戦はなくなっている。
これをみた太宰くんは、
「決勝だし、当然に持久戦だよね」
とつぶやいた。私は、
「序盤の端歩はフェイク?」
とたずねた。
「どうだろ。大学将棋だとふつうにみるよ」
そんなものかしら。
5二金左、5八金右、8二玉、6六歩、6四歩。
後手はいたって普通に組んでいる。
ここで氷室くんのほうが変化をみせた。
「8六角」
高美濃を強要。
6三金に9八香で、先手は穴熊を明示した。
7四歩、9九玉、8四歩、8八銀、7三桂。
ちょっと心配になってくる。
「オーソドックスに組み過ぎのような……」
太宰くんもうなずいた。
「だね。これだと7八金型じゃなくて7九金型にできる」
しかも、三間にした意味合いが薄れている。
3筋は伸びていない。
7九金、8三銀、6八金寄、7二金、7八金寄。
ほんとふつうになっちゃった。
7九金型穴熊vs銀冠。
氷室くんは、
「言いわけなしのかたちになりましたね」
とささやいた。
そう、これはもう、勝っても負けても言いわけがきかない。
トリッキーなところはどこにもない。
風切先輩は4五歩と開けた。
3六歩、4二飛(振りなおし)、5九角、1四歩、1六歩、4一飛、2六角。
「1二香」
太宰くんは、
「いやぁ、振り飛車のお手本がつまってるような局面だな」
と評価した。
ここからは、おたがいに様子見。
4八角、5四銀、3七角と、微妙な入れ替えがあった。
風切先輩は端に手をのばす。
「9二香」
これには、氷室くんも微妙に反応した。
手がとまる。
私は太宰くんに、
「もしかして……地下鉄飛車?」
とたずねた。
太宰くんは口もとにこぶしをあてて、じっと考え込む。
「……なるほど、このレベルだとそうなるのか」
こらこら、質問に答えなさい。
「やっぱり地下鉄飛車っぽい?」
「たぶん、ね。端を突いてあるから、先手は8六歩〜8七金で受ける必要がありそう。学生将棋の中堅くらいまでだと、端を突いてあろうがなかろうが、影響はない。でも、このレベルは、端攻めのパターンを熟知してるからね」
「8七金? 8七銀じゃなくて?」
「うーん、むずかしいな……8七銀だと一瞬王様がむきだしになるし……」
ところが、局面は太宰くんの解説どおりにはならなかった。
氷室くんは6七金とあがった。
あッ……これはさすがに私でもわかる。
7八飛〜7五歩だ。
風切先輩はこの手をみて、
「いいのか、それで?」
と挑発した。
氷室くんはなにも答えない。
風切先輩は4三銀ともどし、7八飛に4四銀と組み替えた。
「7五歩」
同歩、同飛、7四歩、7八飛、5四歩、7六金。
うーん、先手が攻勢に出た。
後手も立ち回りがむずかしそう。
というのも、9二香で防御力が下がっているからだ。
風切先輩はそれを承知しているから、5三銀と引いた。
6八銀、4四角、1八香、4二飛、2八角。
風切先輩は、ここで長考した。
もどかしい。派手に始まりそうで、始まらない。
ギャラリーも、めいめいに読んでいるようだった。
私の予想だと、攻めるなら3五歩、様子見なら4一飛。
ただ、あんまり飛車の屈伸運動をしてもなあ。棋風の問題かもしれないけど。
「……3五歩」
攻めたッ!
ところがこの瞬間、太宰くんは、
「いや、これは遅い」
と即断した。
氷室くんも手抜く。
6五歩から攻め合いになった。
同歩、7五歩、同歩、同金、7四歩。
氷室くんは6筋にくさびを打ち込む。
「6四歩です」
ぐッ……これは先手の攻めが続きそう。
2八に角がいる。
7五歩、6三歩成、同金の取り合いから、7五飛と走られる。
7四歩、7八飛。
私の読みでは、5五歩の止めが入るはずだった。
けど、風切先輩は8五歩と伸ばした。
6筋はだいじょうぶっていう読みかしら……あ、そっか、6四歩なら同銀で、同角と切られてもすぐには寄らなさそう。反対に、先手は8六歩、同歩、8七金(!)という強襲がある。8五歩の伸ばしは、先手陣にとってかなりのプレッシャーだ。
氷室くんは両手をふとももに乗せ、じっと盤をみつめた。
ここまでで、先手ののこり時間は18分、後手は20分。
7五歩の攻めを長考したところが差かしら。
氷室くんはさらに1分使って、5五歩と突いた。
同歩、1七角、5六歩、3五角。
後手の角を消しにいく。
風切先輩はノータイムで、角にゆびをそえた。
「悪いが、交換はしないぜ。5五角だ」