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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第38章 2016年度秋季個人戦3日目(2016年10月30日日曜)
230/486

226手目 将棋の時間

 会議室に、重たい空気がながれる。

 風切かざぎり先輩は、壁とテーブルのあいだを通って、奥へとむかった。

 そして、氷室ひむろくんの対面の椅子をひいた。

 椅子のあしが、床をこする。風切先輩は腰をおろした。

「聞こえないな……と言いたいところだが、対局開始まえに蒸し返されてもめんどうだ。今のうちに答えとくぜ。ノーだ」

「ノー、というのは?」

「そんな賭けには応じられない」

 氷室くんは視線をそらして、

「そうですか……会長選に出るということは、否定しないんですね」

 とつぶやいた。

 これには、何人かのメンバーが反応した。

 けど、意味が分からない、という感じではなかった。むしろ、意味が分かっていないのは私だけで、ほかのメンバーは心当たりがあるようだった。大河内おおこうちくんも太宰だざいくんも真顔になっていたし、たちばな先輩も三和みわ先輩も、口をはさもうとはしなかった。

 ただひとり、八千代やちよ先輩だけは、あわてて会議室を出て行った。

 風切先輩はうしろ髪をなでて、

「いったん否定してから後で認めるのは、好きじゃない」

 と答えた。

「政治家の鑑ですね」

「いまは政治の時間じゃない。将棋だ」

 氷室くんはそれっきり黙った。

 そこへ、入江いりえ会長が駆け込んでくる。

「きみたち、なにをやってるんだい?」

 これに対応したのは、三和先輩だった。

 三和先輩は椅子にすわり、平然とした顔で、

「ああ、べつになにも起きてないよ」

 と答えた。

「なにか賭けを……」

「なんでもない。ところで、この大会が終わったら、臨時役員会するから」

 入江会長は眉間にしわをよせた。

「臨時役員会……? 議題は?」

「議題はあとでやってくるさ。予約しとく」

「これから召集をかけても、間にあ……」

「役員の過半数の出席でしょ。私、入江いりえ、八千代ちゃん、もこっち、公人きみひと、しょーちゃんの6人がいるから、足りてるよ。以前も即席役員会したじゃん」

 入江会長は反論しなかった。

 そして、質問もしなかった。ただひとこと、

「再開は15時からだ。それまでは休憩しておいてくれ」

 とだけ言い、会議室を出て行った。

 ドアが閉まり、ふたたび重たい空気がながれる。

 しばらくして、橘先輩が口をひらいた。

あまねさん、どういうおつもりですか?」

 三和先輩は、椅子に座ったまま、

「べつに、どうもしないよ」

 とだけ答えた。そして、ふと思い出したように、

「しまったな。大会終了後に入江がバックレるっていう裏技もあるか……でも、そのときは副会長の私が司会でいいよね」

 とつぶやいた。

 橘先輩は、これを聞きとがめて、

「その場合は、過半数の要件を満たさないのでは? 役員は10名のはずです」

 とたずねた。

「どうせ爽太そうたは来るんでしょ? それでまた過半数になる」

「……」

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………え? 橘先輩、なんで否定しないの?

 朽木くちき先輩、ここから来るの? 橘先輩が負けてるのに? なんで?

 霧のなかに放り込まれたみたいで、私は大いに混乱した。


  ○

   。

    .


 15時ジャスト──八千代先輩は、こほんと咳ばらいをした。

「それでは、振り駒をお願いいたします」

 三和先輩と風切先輩が、それぞれ振った。

 三和先輩は歩が3枚、風切先輩は0枚。

「後手か」

 風切先輩は駒をもどした。

 八千代先輩は腕時計をみる。

「……それでは、始めてください」

「よろしくお願いします」

 初手を指すまえに、氷室くんは小声で、

「そういえば、先輩と公式戦で指すの、小学生のとき以来ですね」

 と言った。

 風切先輩はなにも気にせず、

「中高は奨励会にいたからな」

 と答えた。

「失礼がないように指します」

 氷室くんはそう言って、7六歩と突いた。

 3四歩、2六歩、4四歩、4八銀、9四歩、9六歩。

「3二飛」


挿絵(By みてみん)


 三間飛車。すこし意外なチョイスだった。

 端歩の対応をみて判断したのか、それとも最初から用意していたのか。

 私たちは進行を見守る。

 2五歩、3三角、6八玉、4二銀、7八玉、6二玉、5六歩。

 先手はどうする気なのかしら?

 7二銀、5七銀、4三銀、7七角、7一玉、8八玉。


挿絵(By みてみん)


 これは……もしかして穴熊?

 端を突いたうえで穴熊を選択したのかもしれない。

 すくなくとも、急戦はなくなっている。

 これをみた太宰だざいくんは、

「決勝だし、当然に持久戦だよね」

 とつぶやいた。私は、

「序盤の端歩はフェイク?」

 とたずねた。

「どうだろ。大学将棋だとふつうにみるよ」

 そんなものかしら。

 5二金左、5八金右、8二玉、6六歩、6四歩。

 後手はいたって普通に組んでいる。

 ここで氷室くんのほうが変化をみせた。

「8六角」


挿絵(By みてみん)


 高美濃を強要。

 6三金に9八香で、先手は穴熊を明示した。

 7四歩、9九玉、8四歩、8八銀、7三桂。

 ちょっと心配になってくる。

「オーソドックスに組み過ぎのような……」

 太宰くんもうなずいた。

「だね。これだと7八金型じゃなくて7九金型にできる」

 しかも、三間にした意味合いが薄れている。

 3筋は伸びていない。

 7九金、8三銀、6八金寄、7二金、7八金寄。


挿絵(By みてみん)


 ほんとふつうになっちゃった。

 7九金型穴熊vs銀冠。

 氷室くんは、

「言いわけなしのかたちになりましたね」

 とささやいた。

 そう、これはもう、勝っても負けても言いわけがきかない。

 トリッキーなところはどこにもない。

 風切先輩は4五歩と開けた。

 3六歩、4二飛(振りなおし)、5九角、1四歩、1六歩、4一飛、2六角。

「1二香」


挿絵(By みてみん)


 太宰くんは、

「いやぁ、振り飛車のお手本がつまってるような局面だな」

 と評価した。

 ここからは、おたがいに様子見。

 4八角、5四銀、3七角と、微妙な入れ替えがあった。

 風切先輩は端に手をのばす。

「9二香」

 これには、氷室くんも微妙に反応した。

 手がとまる。

 私は太宰くんに、

「もしかして……地下鉄飛車?」

 とたずねた。

 太宰くんは口もとにこぶしをあてて、じっと考え込む。

「……なるほど、このレベルだとそうなるのか」

 こらこら、質問に答えなさい。

「やっぱり地下鉄飛車っぽい?」

「たぶん、ね。端を突いてあるから、先手は8六歩〜8七金で受ける必要がありそう。学生将棋の中堅くらいまでだと、端を突いてあろうがなかろうが、影響はない。でも、このレベルは、端攻めのパターンを熟知してるからね」

「8七金? 8七銀じゃなくて?」

「うーん、むずかしいな……8七銀だと一瞬王様がむきだしになるし……」

 ところが、局面は太宰くんの解説どおりにはならなかった。

 氷室くんは6七金とあがった。


挿絵(By みてみん)


 あッ……これはさすがに私でもわかる。

 7八飛〜7五歩だ。

 風切先輩はこの手をみて、

「いいのか、それで?」

 と挑発した。

 氷室くんはなにも答えない。

 風切先輩は4三銀ともどし、7八飛に4四銀と組み替えた。

「7五歩」

 同歩、同飛、7四歩、7八飛、5四歩、7六金。


挿絵(By みてみん)


 うーん、先手が攻勢に出た。

 後手も立ち回りがむずかしそう。

 というのも、9二香で防御力が下がっているからだ。

 風切先輩はそれを承知しているから、5三銀と引いた。

 6八銀、4四角、1八香、4二飛、2八角。

 風切先輩は、ここで長考した。

 もどかしい。派手に始まりそうで、始まらない。

 ギャラリーも、めいめいに読んでいるようだった。

 私の予想だと、攻めるなら3五歩、様子見なら4一飛。

 ただ、あんまり飛車の屈伸運動をしてもなあ。棋風の問題かもしれないけど。

「……3五歩」


挿絵(By みてみん)


 攻めたッ!

 ところがこの瞬間、太宰くんは、

「いや、これは遅い」

 と即断した。

 氷室くんも手抜く。

 6五歩から攻め合いになった。

 同歩、7五歩、同歩、同金、7四歩。

 氷室くんは6筋にくさびを打ち込む。

「6四歩です」


挿絵(By みてみん)


 ぐッ……これは先手の攻めが続きそう。

 2八に角がいる。

 7五歩、6三歩成、同金の取り合いから、7五飛と走られる。

 7四歩、7八飛。

 私の読みでは、5五歩の止めが入るはずだった。

 けど、風切先輩は8五歩と伸ばした。

 6筋はだいじょうぶっていう読みかしら……あ、そっか、6四歩なら同銀で、同角と切られてもすぐには寄らなさそう。反対に、先手は8六歩、同歩、8七金(!)という強襲がある。8五歩の伸ばしは、先手陣にとってかなりのプレッシャーだ。

 氷室くんは両手をふとももに乗せ、じっと盤をみつめた。

 ここまでで、先手ののこり時間は18分、後手は20分。

 7五歩の攻めを長考したところが差かしら。

 氷室くんはさらに1分使って、5五歩と突いた。


挿絵(By みてみん)


 同歩、1七角、5六歩、3五角。

 後手の角を消しにいく。

 風切先輩はノータイムで、角にゆびをそえた。

「悪いが、交換はしないぜ。5五角だ」

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