22手目 懇親会
私はハンカチを取り出し、洗面台で手を洗う。
遠くでは学生たちのざわめきが、だんだんと小さくなっていた。
「おーい、このあと飲むか?」
「バカ、明日から授業だろ。1限語学だ」
数人の男子が、女子トイレのまえを通り過ぎた。松平たちが待っているだろうな、と思って、手を拭きかけた瞬間、奇妙な声が聞こえた。
「はい……終わりました……」
私は、びっくりして身構えた。室内から聞こえたからだ。しかも、男子の声。
拡声器を通したような響き。痴漢? 盗撮?
「ええ……そこは大丈夫です……」
声は、頭上から聞こえた。見上げると、換気口が見えた。外の声が、換気口から漏れていたのだ。おどかさないで欲しい。くもりガラスの窓から見える風景は、裏庭のようだ。人気のない場所を選んだつもりが、女子トイレに聞こえてるなんて、うっかりさん。
私は聞き耳を立てる趣味もないから、そのままトイレを出ようとした。
「そうです……都ノは5人でした……」
ん? ウチの話? ……気になる。私は、もとの位置へ戻った。
「はい……はい……その可能性はあります……私たちもそうですから……7人いると考えたほうが……2日目ですか? だれも残っていません……都ノは2人です……」
やっぱり、うちの名前が出てる。だれ? 声がくぐもっていて、よく分からない。
それに、声音がひとつしかなかった。電話のようだ。
「私ですか? ……負けましたよ……ええ……わざと? ……どう受けとってもらっても結構です……言ったでしょう……個人戦には興味ないです……あなたがまとめろと言ったからまとめたまでで……ええ、2日目も来ます……あなたは? ……3日目だけ?」
「裏見さん」
私は飛び上がった。ふりかえると、大谷さんが立っていた。
「やはりこちらでしたか……気分でも、悪いのですか?」
「ちょっと、髪型を直そうかな、と……」
私は、こっそりと換気口を見上げた――声はやんでいた。
「ごきぶりでも出たのですか?」
「うぅん、なんでもない。行きましょ」
○
。
.
1時間後、私たちは立川の居酒屋で、懇親会をひらいていた。中央線から立川駅に降りたのは、入試のとき以来かしら。ずいぶんと華やかな町で、モノレール沿いから少し離れたところは、飲屋街になっていた。そのなかでも、日センが行きつけだという居酒屋に、私たちは案内された。2階の奥座敷で、大学ごとにまとまって座る。
「それでは、風切隼人殿の復帰を祝して、乾杯、なのじゃッ!」
土御門先輩の音頭で、全員乾杯した。
私はオレンジジュースをかかげて、都ノのメンバーとねぎらい合う。
「乾杯、お疲れさまでした」
グラスの重なる音。私は最初のひと口を飲んで、ひと息ついた。疲れた。
三宅先輩は、ビールのジョッキをかたむけて、プハーッと爽快な顔をした。
「いやあ、将棋のあとのビールは美味いな」
「三宅も、お疲れさん。データはそろったか?」
風切先輩もビールを飲みながら、そう尋ねた。
「まあまあ、ってとこだな。団体戦を念頭においたから、上位校はスルーした」
あら、そうなんだ。っていうか、2年生陣は全員飲んでるけど、みんな誕生日が4月なのかしら――深く考えないようにしましょう。
「で、聖ソフィアは、どうだった?」
「聖ソフィアは初日で消えた」
三宅先輩の回答に、風切先輩は眉毛を持ち上げた。
「……噂は、ガセだったのか」
私は、もじもじした。さっきのトイレの会話――あれ、明石くんだったんじゃない?
会話の内容的に、そんな気がした。でも、証拠がなかった。声を特定できなかったし、それに、あの会話だと、まるでワザと負けたような……私が言い出せないうちに、料理が運ばれてきた。焼き鳥の盛り合わせ、海鮮サラダ、茄子とキュウリの浅漬け、どれも、三宅先輩が選んでくれた。
「こういうところは、料理もうまいぞ。酒が飲めなくても、十分に楽しめる」
「いただきます」
私は浅漬けを齧ってから、焼き鳥に箸を伸ばした。つくね、いただき。
「あ、こら、2個しかないんだぞ」
「松平も1個食べればいいでしょ」
食卓は戦場なのよ。私は生卵をまぶして、口に運んだ。熱々。
「ハハハ、将棋指しは、そうでなくっちゃな。今年の1年は元気がいい」
風切先輩は足を崩して笑った。それから、大谷さんのほうを見て、
「おまえも、食べていいんだぞ」
と言った。大谷さんは両手を合わせて、
「拙僧、肉は口にしないことにしております」
と答えた。そう、ベジタリアンなのよね。
風切先輩は、肩をすくめた。
「元気がいいだけじゃなくて、今年の1年は変わってるな」
私の場合、H島にいたときのほうが、もっと変なひとがいっぱいいた。
自称宇宙人とか、猫耳怪盗とか、忍者とか。
今の環境は、なんだかとても大学生している感じがする。
「将棋界が変わってるのは、いつものことでしょ」
ふと顔をあげると、スーツ姿の速水先輩が立っていた。
グラスを片手に、決めのポーズ。かっこいい。
「ま、それもそうだな。もこっちは、なに飲んでるんだ?」
「八海山」
「いきなり日本酒か。さすがA田出身だな」
「そういう銘柄選びはしてないわ。越乃寒梅のほうが好きだし」
「ま、座れよ」
風切先輩は、速水先輩をとなりに座らせた。
「今年のうちの女子、どう思う?」
唐突な質問にもかかわらず、速水先輩は表情を崩さなかった。爪楊枝でキュウリの浅漬けをつまみながら、少しばかり間をおいた。
「強いんじゃない」
「個人戦で、どれくらい行くと思う?」
ちょっとちょっと、風切先輩、お酒が入ってるからって、単刀直入過ぎ。
「それを、私に訊くの?」
「もこっちは、秋の個人戦で優勝したろ?」
うわ……そんなレベルなんだ……関東ベスト7なら、女子の部は優勝か、最低でも準優勝してないと無理よね。納得。と同時に、ハードルが高くなったとも感じた。
「ふたりとも、いいところまで行くんじゃないかしら」
「ベスト4?」
「それは難しいわね」
ばっさりと切られてしまった。私はともかく、大谷さんでも難しいとは。
がっかりしているのも癪なので、焼き鳥をもうひとつ。もも肉ゲット。
「裏見さんは、H島出身なのよね?」
速水先輩から、急に質問が飛んできた。私は、ハイと答えた。
「今の関東勢には、H島出身の子が多いわ。慶長の三和さん、晩稲田の筒井さんは、それぞれレギュラー、準レギュラーだし、裏方だと治明の傍目さんが有名。あと、晩稲田には冴島っていう子もいたわね。日セン前主将の辻先輩も、H島」
「あ、冴島先輩をご存知ですか?」
「ええ、応援団に入ってる子よね? 知り合い?」
高校の先輩だと、私は伝えた。速水先輩は、興味深そうにうなずいた。
「前も言ったけど、将棋界は広いようで狭いのね」
それから私たちは、地元の話に花を咲かせた。速水先輩はA田出身で、瀬戸内方面に旅行したことはないらしい。私は私で、東北には旅行したことがなかった。
「H島って、100万都市なんでしょ?」
「私は、H島市じゃないです。もっと西の駒桜市で……」
「あら、辻先輩と同じじゃない」
「はい。高校が違っただけです。私が入ったときは、もう大学生でしたけど」
速水先輩は、日本酒を飲みながら、
「あのひとの酒癖には、参ったわ。酔うと手がつけられないのよね」
と言った。え……そうなんだ。聞いてはいけないことを聞いてしまった気がする。
なんと答えたものか迷っていると、扇子を閉じる音がした。
「しんみりしとるのぉ。もっと楽しくやろうぞ」
八ツ橋の席から抜け出した、土御門先輩だった。土御門先輩は、許可も取らずに、速水先輩の左隣に座った。パタパタと扇子で扇ぎながら、枝豆をつまんだ。
「して、なんの話じゃ?」
「辻先輩の酒癖が悪かった話」
土御門先輩はニヤニヤしながら、扇子で口もとを隠した。
「そうじゃったのぉ。特に、あの事件などは、むふふ」
なんですか。気になるじゃないですか。聞き耳を立てていると、寝息が聞こえた。
見ると、風切先輩が壁に頭をつけて、寝ていた。
「ん、もう酔ったのか?」
三宅先輩が起こそうとしたところで、速水先輩は、
「疲れてるんでしょ。プレッシャーもあったから」
と止めた。
私は、何のプレッシャーかと尋ねた。
「復帰戦で格下に負けると、舐められるってことよ。風切くんの試合、ずいぶん辛い指し方をしてたわ。2局とも完勝だったもの。神経を使ったでしょうね」
私は、風切先輩の寝顔を盗み見た。なんだか可愛らしい。一歩引いた感じのひとだな、と思っていたけど、今日の大会で、すこし印象が変わった。
三宅先輩は頭を掻いて、
「寝るのはいいんだが、このままだと俺が運ぶハメになるな」
と愚痴った。どうやら、家が同じ方向のようだ。
「そのうち起きるじゃろ。酒に弱いというわけでもあるまい」
「でも、ビールジョッキが3つ空いてますよ?」
松平の指摘に、他のメンバーも顔を見合わせた。
「困ったわね。普段は気取ってるくせに、こういうところは子供なんだから」
と、速水先輩。三宅先輩は納得したような顔で、
「そういや、彼女とか、いないのか? 女の話がちらりとも出ないんだが」
と言った。その瞬間、土御門先輩と速水先輩は、スッと真顔になった。
緊迫した空気が流れる。触れてはいけないところに触れた、そんな雰囲気。
三宅先輩も、なにかマズいと悟ったのか、口をもごもごさせた。
「いや、ちょっと疑問に思っただけで……」
「いないぞ」
私たちは、一斉に風切先輩のほうを見た。
先輩は目を閉じたまま、悲しそうに微笑んでいた。
「俺に彼女はいない……フリーだ」
そう言って、先輩はふたたび寝てしまった。寝言?
そのあと、私たちは、この話題に二度と触れなかった。食べたり飲んだり、土御門先輩が奇妙な踊りを披露してくれたり、それから、他大の1年生とも交流した。特に、奥山くんと松平は、あいかわらず意気投合して、将棋を指していた。将棋バカね。
とはいえ、私も速水先輩にリベンジを挑んだ。先輩は酔ってるはずなのに、10秒将棋で負けてしまった。うーん、ショック。でも、このひとを目指して行けば、女流優勝。ひとつの目標ができた気がした。
そして、いよいよお会計。速水先輩と土御門先輩が相談する。ひそひそ話。
「公人、1年生は、どうするの?」
「ふぅむ……こりゃ、えらく食べたな……1年生が2000円で、スライドか?」
「1年生が2000円、2年生が3000円……それでギリギリね」
うわーん、やっぱりお金取られるんだ。新歓無料じゃないなんて、ひどい。
しぶしぶお札を出していると、受け取りに来た土御門先輩が、
「どうした? 金欠か?」
と尋ねてきた。顔に出てしまったらしい。私は、事情を説明した。
「ほほぉ、部費の埋め合わせをしたのか、それは大変じゃったな」
「今月から、バイトしようと思います」
それを聞いた途端、土御門先輩は、パチリと扇子を閉じた。
「それなら、よいバイト先を紹介するぞ」
「え? ほんとですか?」
「多摩モノレール沿いに、高幡不動という駅があるじゃろ? そこに、将棋道場がある。先月末に、大学生のバイトが辞めてしもうてな。ふたりほど募集中じゃ」
ナイス。適材適所。ツテって重要。
私は、住所と電話番号を教えてもらった。
「土御門公人から話を聞いた、と言えばよいぞ。内緒の募集じゃからな」
「ありがとうございます」
私は気持ちよく2000円払って、お店をあとにした――のはいいけど、風切先輩は、結局起きなかった。三宅先輩と松平で担いで、駅まで連れて行った。中央線の改札で、土御門先輩と別れる。速水先輩と奥山くん、それに都ノ勢は、モノレールだった。
私たちは、多摩センター方面へのモノレールに乗り込んだ。
「裏見、さっきはなに話してたんだ?」
右肩に風切先輩を担いだまま、松平は尋ねた。
「さっきって?」
「土御門先輩と、なにか相談してなかったか?」
「ああ、あれね。バイトの話よ」
私は、将棋道場のスタッフに募集するつもりだと教えた。
「2名らしいから、松平も応募する? 金欠なんでしょ?」
「すまん、バイト先は、もう決めてある。研究室の手伝いだ」
3年次に希望する所属研究室の様子を見ておきたいと、松平は言った。
「将来のこと、ちゃんと考えてるのね」
感心、感心。松平はニヤリとした。
「家庭を持つのは、たいへんだからな」
「そうね。家庭を持つのはたいへ……ん?」
モノレールのなかでそういうこと言うな、バカ//////