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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第4章 2016年度春季個人戦1日目(2016年4月17日日曜)
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22手目 懇親会

 私はハンカチを取り出し、洗面台で手を洗う。

 遠くでは学生たちのざわめきが、だんだんと小さくなっていた。

「おーい、このあと飲むか?」

「バカ、明日から授業だろ。1限語学だ」

 数人の男子が、女子トイレのまえを通り過ぎた。松平まつだいらたちが待っているだろうな、と思って、手を拭きかけた瞬間、奇妙な声が聞こえた。

「はい……終わりました……」

 私は、びっくりして身構えた。室内から聞こえたからだ。しかも、男子の声。

 拡声器を通したような響き。痴漢? 盗撮?

「ええ……そこは大丈夫です……」

 声は、頭上から聞こえた。見上げると、換気口が見えた。外の声が、換気口から漏れていたのだ。おどかさないで欲しい。くもりガラスの窓から見える風景は、裏庭のようだ。人気ひとけのない場所を選んだつもりが、女子トイレに聞こえてるなんて、うっかりさん。

 私は聞き耳を立てる趣味もないから、そのままトイレを出ようとした。

「そうです……都ノみやこのは5人でした……」

 ん? ウチの話? ……気になる。私は、もとの位置へ戻った。

「はい……はい……その可能性はあります……私たちもそうですから……7人いると考えたほうが……2日目ですか? だれも残っていません……都ノは2人です……」

 やっぱり、うちの名前が出てる。だれ? 声がくぐもっていて、よく分からない。

 それに、声音こわねがひとつしかなかった。電話のようだ。

「私ですか? ……負けましたよ……ええ……わざと? ……どう受けとってもらっても結構です……言ったでしょう……個人戦には興味ないです……あなたがまとめろと言ったからまとめたまでで……ええ、2日目も来ます……あなたは? ……3日目だけ?」

裏見うらみさん」

 私は飛び上がった。ふりかえると、大谷おおたにさんが立っていた。

「やはりこちらでしたか……気分でも、悪いのですか?」

「ちょっと、髪型を直そうかな、と……」

 私は、こっそりと換気口を見上げた――声はやんでいた。

「ごきぶりでも出たのですか?」

「うぅん、なんでもない。行きましょ」

 

  ○

   。

    .


 1時間後、私たちは立川たちかわの居酒屋で、懇親会をひらいていた。中央線から立川駅に降りたのは、入試のとき以来かしら。ずいぶんと華やかな町で、モノレール沿いから少し離れたところは、飲屋街になっていた。そのなかでも、日センが行きつけだという居酒屋に、私たちは案内された。2階の奥座敷で、大学ごとにまとまって座る。

「それでは、風切かざぎり隼人はやと殿の復帰を祝して、乾杯、なのじゃッ!」

 土御門つちみかど先輩の音頭で、全員乾杯した。

 私はオレンジジュースをかかげて、都ノのメンバーとねぎらい合う。

「乾杯、お疲れさまでした」

 グラスの重なる音。私は最初のひと口を飲んで、ひと息ついた。疲れた。

 三宅みやけ先輩は、ビールのジョッキをかたむけて、プハーッと爽快な顔をした。

「いやあ、将棋のあとのビールは美味いな」

「三宅も、お疲れさん。データはそろったか?」

 風切先輩もビールを飲みながら、そう尋ねた。

「まあまあ、ってとこだな。団体戦を念頭においたから、上位校はスルーした」

 あら、そうなんだ。っていうか、2年生陣は全員飲んでるけど、みんな誕生日が4月なのかしら――深く考えないようにしましょう。

「で、聖ソフィアは、どうだった?」

「聖ソフィアは初日で消えた」

 三宅先輩の回答に、風切先輩は眉毛を持ち上げた。

「……噂は、ガセだったのか」

 私は、もじもじした。さっきのトイレの会話――あれ、明石あかしくんだったんじゃない?

 会話の内容的に、そんな気がした。でも、証拠がなかった。声を特定できなかったし、それに、あの会話だと、まるでワザと負けたような……私が言い出せないうちに、料理が運ばれてきた。焼き鳥の盛り合わせ、海鮮サラダ、茄子なすとキュウリの浅漬け、どれも、三宅先輩が選んでくれた。

「こういうところは、料理もうまいぞ。酒が飲めなくても、十分に楽しめる」

「いただきます」

 私は浅漬けをかじってから、焼き鳥に箸を伸ばした。つくね、いただき。

「あ、こら、2個しかないんだぞ」

「松平も1個食べればいいでしょ」

 食卓は戦場なのよ。私は生卵をまぶして、口に運んだ。熱々。

「ハハハ、将棋指しは、そうでなくっちゃな。今年の1年は元気がいい」

 風切先輩は足を崩して笑った。それから、大谷さんのほうを見て、

「おまえも、食べていいんだぞ」

 と言った。大谷さんは両手を合わせて、

「拙僧、肉は口にしないことにしております」

 と答えた。そう、ベジタリアンなのよね。

 風切先輩は、肩をすくめた。

「元気がいいだけじゃなくて、今年の1年は変わってるな」

 私の場合、H島にいたときのほうが、もっと変なひとがいっぱいいた。

 自称宇宙人とか、猫耳怪盗とか、忍者とか。

 今の環境は、なんだかとても大学生している感じがする。

「将棋界が変わってるのは、いつものことでしょ」

 ふと顔をあげると、スーツ姿の速水はやみ先輩が立っていた。

 グラスを片手に、決めのポーズ。かっこいい。

「ま、それもそうだな。もこっちは、なに飲んでるんだ?」

八海山はっかいさん

「いきなり日本酒か。さすがA田出身だな」

「そういう銘柄選びはしてないわ。越乃寒梅こしのかんばいのほうが好きだし」

「ま、座れよ」

 風切先輩は、速水先輩をとなりに座らせた。

「今年のうちの女子、どう思う?」

 唐突な質問にもかかわらず、速水先輩は表情を崩さなかった。爪楊枝でキュウリの浅漬けをつまみながら、少しばかり間をおいた。

「強いんじゃない」

「個人戦で、どれくらい行くと思う?」

 ちょっとちょっと、風切先輩、お酒が入ってるからって、単刀直入過ぎ。

「それを、私に訊くの?」

「もこっちは、秋の個人戦で優勝したろ?」

 うわ……そんなレベルなんだ……関東ベスト7なら、女子の部は優勝か、最低でも準優勝してないと無理よね。納得。と同時に、ハードルが高くなったとも感じた。

「ふたりとも、いいところまで行くんじゃないかしら」

「ベスト4?」

「それは難しいわね」

 ばっさりと切られてしまった。私はともかく、大谷さんでも難しいとは。

 がっかりしているのも癪なので、焼き鳥をもうひとつ。もも肉ゲット。

「裏見さんは、H島出身なのよね?」

 速水先輩から、急に質問が飛んできた。私は、ハイと答えた。

「今の関東勢には、H島出身の子が多いわ。慶長けいちょう三和みわさん、晩稲田おくてだ筒井つついさんは、それぞれレギュラー、準レギュラーだし、裏方だと治明おさまるめい傍目はためさんが有名。あと、晩稲田には冴島さえじまっていう子もいたわね。日セン前主将のつじ先輩も、H島」

「あ、冴島先輩をご存知ですか?」

「ええ、応援団に入ってる子よね? 知り合い?」

 高校の先輩だと、私は伝えた。速水先輩は、興味深そうにうなずいた。

「前も言ったけど、将棋界は広いようで狭いのね」

 それから私たちは、地元の話に花を咲かせた。速水先輩はA田出身で、瀬戸内方面に旅行したことはないらしい。私は私で、東北には旅行したことがなかった。

「H島って、100万都市なんでしょ?」

「私は、H島市じゃないです。もっと西の駒桜こまざくら市で……」

「あら、辻先輩と同じじゃない」

「はい。高校が違っただけです。私が入ったときは、もう大学生でしたけど」

 速水先輩は、日本酒を飲みながら、

「あのひとの酒癖には、参ったわ。酔うと手がつけられないのよね」

 と言った。え……そうなんだ。聞いてはいけないことを聞いてしまった気がする。

 なんと答えたものか迷っていると、扇子を閉じる音がした。

「しんみりしとるのぉ。もっと楽しくやろうぞ」

 八ツ橋やつはしの席から抜け出した、土御門先輩だった。土御門先輩は、許可も取らずに、速水先輩の左隣に座った。パタパタと扇子であおぎながら、枝豆をつまんだ。

「して、なんの話じゃ?」

「辻先輩の酒癖が悪かった話」

 土御門先輩はニヤニヤしながら、扇子で口もとを隠した。

「そうじゃったのぉ。特に、あの事件などは、むふふ」

 なんですか。気になるじゃないですか。聞き耳を立てていると、寝息が聞こえた。

 見ると、風切先輩が壁に頭をつけて、寝ていた。

「ん、もう酔ったのか?」

 三宅先輩が起こそうとしたところで、速水先輩は、

「疲れてるんでしょ。プレッシャーもあったから」

 と止めた。

 私は、何のプレッシャーかと尋ねた。

「復帰戦で格下に負けると、舐められるってことよ。風切くんの試合、ずいぶんからい指し方をしてたわ。2局とも完勝だったもの。神経を使ったでしょうね」

 私は、風切先輩の寝顔を盗み見た。なんだか可愛らしい。一歩引いた感じのひとだな、と思っていたけど、今日の大会で、すこし印象が変わった。

 三宅先輩は頭を掻いて、

「寝るのはいいんだが、このままだと俺が運ぶハメになるな」

 と愚痴ぐちった。どうやら、家が同じ方向のようだ。

「そのうち起きるじゃろ。酒に弱いというわけでもあるまい」

「でも、ビールジョッキが3ついてますよ?」

 松平の指摘に、他のメンバーも顔を見合わせた。

「困ったわね。普段は気取ってるくせに、こういうところは子供なんだから」

 と、速水先輩。三宅先輩は納得したような顔で、

「そういや、彼女とか、いないのか? 女の話がちらりとも出ないんだが」

 と言った。その瞬間、土御門先輩と速水先輩は、スッと真顔になった。

 緊迫した空気が流れる。触れてはいけないところに触れた、そんな雰囲気。

 三宅先輩も、なにかマズいと悟ったのか、口をもごもごさせた。

「いや、ちょっと疑問に思っただけで……」

「いないぞ」

 私たちは、一斉に風切先輩のほうを見た。

 先輩は目を閉じたまま、悲しそうに微笑んでいた。

「俺に彼女はいない……フリーだ」

 そう言って、先輩はふたたび寝てしまった。寝言?

 そのあと、私たちは、この話題に二度と触れなかった。食べたり飲んだり、土御門先輩が奇妙な踊りを披露してくれたり、それから、他大の1年生とも交流した。特に、奥山おくやまくんと松平は、あいかわらず意気投合して、将棋を指していた。将棋バカね。

 とはいえ、私も速水先輩にリベンジを挑んだ。先輩は酔ってるはずなのに、10秒将棋で負けてしまった。うーん、ショック。でも、このひとを目指して行けば、女流優勝。ひとつの目標ができた気がした。

 そして、いよいよお会計。速水先輩と土御門先輩が相談する。ひそひそ話。

公人きみひと、1年生は、どうするの?」

「ふぅむ……こりゃ、えらく食べたな……1年生が2000円で、スライドか?」

「1年生が2000円、2年生が3000円……それでギリギリね」

 うわーん、やっぱりお金取られるんだ。新歓無料じゃないなんて、ひどい。

 しぶしぶおさつを出していると、受け取りに来た土御門先輩が、

「どうした? 金欠か?」

 と尋ねてきた。顔に出てしまったらしい。私は、事情を説明した。

「ほほぉ、部費の埋め合わせをしたのか、それは大変じゃったな」

「今月から、バイトしようと思います」

 それを聞いた途端、土御門先輩は、パチリと扇子を閉じた。

「それなら、よいバイト先を紹介するぞ」

「え? ほんとですか?」

多摩たまモノレール沿いに、高幡不動たかはたふどうという駅があるじゃろ? そこに、将棋道場がある。先月末に、大学生のバイトが辞めてしもうてな。ふたりほど募集中じゃ」

 ナイス。適材適所。ツテって重要。

 私は、住所と電話番号を教えてもらった。

土御門つちみかど公人きみひとから話を聞いた、と言えばよいぞ。内緒の募集じゃからな」

「ありがとうございます」

 私は気持ちよく2000円払って、お店をあとにした――のはいいけど、風切先輩は、結局起きなかった。三宅先輩と松平で担いで、駅まで連れて行った。中央線の改札で、土御門先輩と別れる。速水先輩と奥山くん、それに都ノ勢は、モノレールだった。

 私たちは、多摩センター方面へのモノレールに乗り込んだ。

「裏見、さっきはなに話してたんだ?」

 右肩に風切先輩を担いだまま、松平は尋ねた。

「さっきって?」

「土御門先輩と、なにか相談してなかったか?」

「ああ、あれね。バイトの話よ」

 私は、将棋道場のスタッフに募集するつもりだと教えた。

「2名らしいから、松平も応募する? 金欠なんでしょ?」

「すまん、バイト先は、もう決めてある。研究室の手伝いだ」

 3年次に希望する所属研究室の様子を見ておきたいと、松平は言った。

「将来のこと、ちゃんと考えてるのね」

 感心、感心。松平はニヤリとした。

「家庭を持つのは、たいへんだからな」

「そうね。家庭を持つのはたいへ……ん?」

 モノレールのなかでそういうこと言うな、バカ//////

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