225手目 外科的療法
端角が打たれた。
橘先輩は、静かにチェスクロを押す。
三和先輩も雑談をやめて、じっくりと考え始めた。
うーん、どうなんだろう、この手。
私は太宰くんに、
「どう思う?」
とたずねた。
太宰くんはのんきな調子で、
「そうだね、橘先輩の雑用力には定評があるから」
と答えた。
そういう話じゃない。
もっとも、橘先輩の雑用力は異常で、10秒将棋でも雑用ができるのだ。
駒の音でそれをみたときは、びっくりしてしまった。
メイド将棋指しの鑑?
まあ、そういうことはおいといて、局面の評価を知りたい。
ちょっとくらいはじぶんで考えますか。この手は、4三歩成の空き王手を狙っている。3七歩成は間に合わない。7二玉と寄るのは、3五歩で銀が死ぬ。先手は桂馬が生きているうちに、暴れるつもりだろう。
三和先輩はうなずいて、持ち駒の角を手にした。
「これしかないか。3五角」
そうそう、これしかないと思う。
3五の地点を封鎖しつつ、4三歩成の王手を回避。
橘先輩は3五同角、同銀、2四歩、同歩を入れてから、1七角と打ちなおした。
意外と手が続く。後手は空中分解しそうだ。
しかも現状、銀を助ける手はひとつしかない。
「5五飛」
三和先輩は飛車を走った。
綱渡りになる。
橘先輩は、4七金で飛車にプレッシャーをかけた。
3七歩成、4三歩成、同金、4六金、5三飛、3五金。
こ、これは……穴熊の暴力?
やりすぎに見える。
のこり時間は、先手の橘先輩が5分、三和先輩が8分。
三和先輩もここで手をとめた。
それもそのはずで、2八と、4四歩みたいな攻め合いが見えるからだ。
後手玉は、あいかわらず角筋にいる。守り駒もないに等しい。
太宰くんは、
「派手な将棋だなあ」
と、観戦者目線。
私の予想では、2八とと入るはず。
そのあと、3、4筋をどこまで支えきれるか。
戦線が崩壊したら後手の負け。維持したら勝ち。
けっきょく、三和先輩はのこり5分まで考えて、2八とと取った。
橘先輩はノータイムで4四歩と打つ。
「4二金」
「3四歩です」
三和先輩のゆびは自陣をとおりすぎて、2八のと金にそえられた。
「外科的に治療しようか。2七と」
おっと、これは強い。
自陣の脅威になっている角を、根元から切除する方針だ。
橘先輩はこれを予期していなかったらしい。とぼしいのこり時間を消費した。
「……3三歩成」
「同桂」
橘先輩は4三銀と打ち込んだ。
4一歩、3一銀のひっかけ。
三和先輩はここで1七と。
太宰くんはこれをみて、
「駒割りは、先手の銀銀に対して後手が飛車角桂。実質的に先手の角桂損かな」
と冷静に評価した。
4二銀不成、同歩、同銀不成。
三和先輩は飛車を走りなおす。
「5五飛」
橘先輩は、かるくくちびるを噛んだ。
飛車を捕獲しないと、さすがに後手玉は寄らない。
ピッ……ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
橘先輩は4六金と打った。
「むりやり殺してきたか……じゃあ、切る」
三和先輩は、3五飛と切った。
華麗なメスさばきで、先手の攻撃は切り刻まれてしまった。
同金、4八飛。
橘先輩はここで3二飛と打った。
三和先輩、最後の長考。
ピッ……ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
パシリ
見切った?
後手玉は寄らないという意思表示だ。
橘先輩は59秒ぎりぎりまで考えて、3三銀不成と王手した。
「4二歩」
軽快な合駒。
同飛成は5二金と弾かれて、あとが続かない。
橘先輩は4二銀不成で、かたちをもどした。
三和先輩は盤面をするどくにらむ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
パシリ
……………………
……………………
…………………
………………うまいッ!
同歩は5五角で寄る。例えば6五同歩、5五角、4三歩成なら、8八銀成、同玉(同銀は同角成と切って詰み)、7九角、同玉、6八金、同銀、8八金、6九玉に、5七桂、同銀、7八飛成、5九玉、3七角成、4八合駒、5八銀の全軍躍動で詰み。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
橘先輩は5四歩と垂らした。
同金、5八歩で受けにまわる。
7七桂成、同銀、6七角、7八桂。
「6九銀」
これはもう……どうしようもないっぽい。
後手玉にせまる方法がなかった。
橘先輩は背筋をのばす。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「負けました」
橘先輩は頭をさげた。
「ありがとうございました」
三和先輩も一礼して、チェスクロを止める。
しばらく沈黙が続いた。
作法どおり、橘先輩のコメントから感想戦。
「6五桂が、見事すぎました」
「ここ数局で会心だったかな。ただ、とちゅうは先手がよかったんじゃない?」
「正確に指せばそうかもしれませんが、攻めが細すぎたように思います」
そういうの、あるわよね。
ソフト的には優勢でも、攻めが細すぎて、人力だとムリってパターン。
今回は難所で橘先輩に時間がなかった。
序盤の千日手のおさそいが、なんだかんだで効いていた。
三和先輩は局面をもどしながら、
「個人的には、4四歩のところで4四銀とゴリ押しされたほうが困ったかな」
とコメントした。
【検討図】
「これは相手できないから、4八飛、4三銀成、同飛寄と読んでた」
「それは3四金の開き王手がありませんか?」
「私の読みだと、3四金、5二玉、4三金、同玉は、入玉含みになるから悪くない」
三和先輩と橘先輩の感想戦を聴きながら、私はふむふむとうなずいていた。
やっぱり勉強になる。大局観も、実践的な指し方も。
そのうち、氷室vs児玉戦も終わった、
どうやら氷室くんが勝ったらしい。
私は和室の結果が気になった。
あんまり持ち場(?)を離れないほうがいいかしら。
そんなことを思っていると、入江会長が顔をのぞかせた。
「傍目くん、こっちはどうだい?」
記録をとっていた八千代先輩は、
「終わりました。三和さんと氷室くんが残っています」
「了解。このまま決勝戦と3位決定戦に入ろう」
入江会長は、決勝戦をこの会議室、3位決定戦を和室でやると告げた。
八千代先輩は、選手に相談がなかったのを気にしたのか、
「いちおう、確認をとったほうがよろしいのでは?」
とたずねた。
「氷室くんの健康管理があるから、決勝はこっちだよ。それに、和室を希望した土御門くんと大谷さんは、ふたりとも3位決定戦だ」
「あ、失礼いたしました。では、そのように手配します」
「再開は15時からでよろしく」
んー、大谷さん、負けちゃったのか。
私は壁の時計をみた。14時25分。
まだだいぶ時間があるわね。
とりあえず、大谷さんのようすをみるため、会議室を出た。
フロアには他校の生徒がたむろしていた。
大谷さんもいた。私は話しかける。
「おつかれさま、どうだった?」
「負けてしまいました。ところで、そちらはどうでしたか?」
大谷さんが訊いているのは、対局結果だけじゃないように感じられた。
でも、とりあえずは対局結果を答える。
「三和先輩と氷室くんの勝ち」
「ということは、三和vs速水、風切vs氷室ですか」
その組み合わせを聞いて、私はふとと思い当たることがあった。
「そっか……風切先輩、ついに公式戦で氷室くんと再戦するのね」
「さきほどのようすだと、メンタル面では問題ないようです」
そう願いたい。
「して、ほかになにかありましたか?」
「うーん……私が気づいたことは、とくに……あッ」
私は、太宰くんもおなじ目的で来ているらしいことを伝えた。
「太宰くんがですか……熱海以来、彼はこの件にご執心のようですね」
「もっとまえから調べてるっぽくない?」
「たしかに……」
そのときだった。
風切先輩が和室から出てきた。
私たちは会話をやめて、勝利をねぎらった。
「先輩、おつかれさまです。決勝進出おめでとうございます」
「サンキュ、で、俺のあいては?」
「氷室くんです」
私の心配は杞憂だった。
風切先輩は真顔になって、
「よーし、今回こそ決着をつけてやる」
と、意気込みをみせてくれた。
ところが、ここで横槍がはいった。
観戦に来ていた大河内くんが、急に話しかけてきたのだ。
「もうしわけありません。氷室くんが、風切先輩を呼んでいます」
「ん? 俺を? なんの用事だ?」
大河内くんはメガネをクイッとさせながら、
「それはうかがっていません」
と答えた。
なんだかよくわからない雰囲気。
風切先輩は不審がりつつも、会議室に入った。私たちもあとに続く。
氷室くんはすでに着席していた。
風切先輩は、
「15時から再開だろ?」
と確認した。
氷室くんは椅子に座ったまま、返事をする。
「風切先輩、お願いがあります」
「なんだ? 会場変更か?」
「ひとつ賭けてもらいたいことがあります」
室内が騒然とした。
その場にいたメンツは、おたがいに顔を見合わせる。
風切先輩からは、喜怒哀楽の表情が消えた。じっと氷室くんをみすえる。
「……なにをだ?」
「もし僕が勝ったら、先輩は会長になるのをあきらめる……そう約束してください」