224手目 医者の不養生
8四歩、2六歩、3二金、7八金。
三和先輩は8五歩と突いた。
角換りに誘導。
このレベルの対局、純粋に興味があるのよね。
偵察がてら、勉強させてもらいましょう。
7七角、3四歩、6八銀、7七角成、同銀。
この手が指された瞬間、火村さんが横合いからのぞきこんできた。
「んー、居飛車かぁ」
火村さん的には、おもしろくない展開かしら。
とはいえ、三和先輩も橘先輩も居飛車党だから、しょうがないわよね。
火村さんは盤面をみつつ、
「ひよこが和室で指したがったのは、なんでなの?」
とたずねてきた。
「さあ」
とぼけておく。火村さんは「ふぅん」とだけ答えて、となりの対局へ移動した。
そのあいだも、局面は進んだ。
2二銀、3八銀、6二銀、4六歩、6四歩、4七銀。
ふつうの腰掛け銀になりそう。
6三銀、3六歩、7四歩、3七桂、3三銀。
橘先輩は2九飛と引いた。
7三桂、4八金、6二金、6八玉、8一飛。
三和先輩は、流れに身を任せてる感じ。
あんまり準備してるふんいきではなかった。
と、そこで急にひとの気配を感じた。
また火村さんかな、と思って左をみると、太宰くんが立っていた。
ちょっとびっくりしてしまう。
太宰くんはそれに気づいて、
「あ、おどろかせてごめん」
と、形式的に謝った。
観戦してるだけだし、おどろいたこっちも悪かったかしら。
なんて思っていると、ななめうえのセリフがつづいた。
「ところで、今日は聖生が来るのかな?」
……………………
……………………
…………………
………………絶句。
「なななな、なに言って……」
「いや、べつにひとりごとだよ」
いやいやいや、ぜったいにわざとでしょ。
私はすごく警戒した。けど、太宰くんはそれ以上、なにも言わなかった。
どういうこと? 太宰くんはなにか情報を入手してるの? それとも勘?
私は居心地が悪くなった。
局面だけが進んでいく。
9六歩、9四歩、1六歩、1四歩、6六歩、5四銀、5六銀。
んー? 後手は居玉のまま?
これは右玉の可能性も……ないか。
それだと5四銀が変よね。
案の定、三和先輩は4二玉とあがった。
橘先輩も、後手の動きを気にしていたらしい。
ようやく7九玉と入った。
三和先輩は、もういちど王様に手をかけた。
「まあ囲いあってもいいんだけど……5二玉ね」
ん、まさかほんとに右玉?
橘先輩はこれをみて、
「準決勝でフェイクとは、学業がおいそがしいようで」
と皮肉った。
三和先輩はとくに顔色を変えず、
「医学部がいそがしいのは事実だけど、これはフェイクじゃないよ」
と答えた。
「では、研究手順ということですか?」
「それは見てのお楽しみかな」
「……2五歩で」
橘先輩は飛車先をのばした。
三和先輩は4四歩と突く。
うーん、右玉じゃないのかしら。
ここで橘先輩は長考に入った。
私も観戦者の立場で考える。すると、太宰くんが、
「先手は4五歩としたいけど、そこで4一飛がある、ってことか」
とつぶやいた。
【参考図】
……なるほど、三和先輩の狙いは飛車回りか。
私は思わず、
「そんな強引な受け、成立する?」
とたずねた。
「僕なら、やらない。その先の駒組みがむずかしいから」
そうよね。私もこれはやらないと思う。
とりあえず、三和先輩のお手並み拝見といきましょう。
橘先輩は2分ほど使って、4五歩と仕掛けた。
「4一飛」
4四歩、同飛、4七歩。
橘先輩、ちょっと消極的じゃないかしら。
三和先輩もつっぱらずに、4一飛と下がった。
8八玉、6三金、3八金、6二玉、4六歩、4三銀。
後手は右玉へ移行した。囲いがすごく薄い。
とはいえ、スキがあるわけでもない。
先手も駒組みをしなおす。
4八金、8一飛、2七飛、5四歩、2八飛。
三和先輩は7二玉と寄りながら、
「このまま千日手かな?」
とつぶやいた。
千日手になると、さっき考えた2分が痛いのよね、橘先輩は。
三和先輩の狙いは、時間攻めだった?
2九飛、6二玉、6七銀、4一飛(後手は本気で千日手狙い)、5六歩、8一飛。
橘先輩は、千日手を打開しようとしている。
その証拠に、小刻みに時間を使っていた。
三和先輩にあわせるなら、ノータイムで同手順にするはず。
「9八香とさせていただきます」
穴熊だ。
これなら千日手にはならない。
最後は固めてポンとすればいい。
三和先輩も、千日手は受けてもらえないことを理解したようだ。
ショートヘアの前髪をととのえつつ、
「ここから穴熊崩しもできないし、組み上がるまで待とうか」
と言って、王様の往復運動を始めた。
7二玉、9九玉、6二玉、8八金(そっち?)、7二玉、7八銀。
どんどん組み上がる。
6二玉、2八飛、7二玉、5八金。
これ、後手から動かないと、4枚穴熊になってしまうのでは。
4枚穴熊vs右玉は、さすがにちょっと──三和先輩も動いた。
「5一飛」
飛車を中央に展開する。
橘先輩は4七金で、4枚穴熊を放棄した。
「ここから千日手でもいいよ。6二玉」
うーん、また千日手っぽくなるのか。
先手は、どこから動くのかしら。
固めてポンでいいかな、とさっきは予想していた。でも、糸口がない。
後手はバランスがいいのだ。
橘先輩はさらに1分使って、4八金と引いた。
私はこれをみて、
「橘先輩、ここから千日手? 損じゃない?」
と首をかしげた。
すると太宰くんが、
「いや、これは誘いのスキだね。5五歩を誘ってる」
と教えてくれた。
なるほど、三和先輩のほうから崩してください、と。
太宰くんも晩稲田だし、橘先輩の棋風を熟知してるっぽい。
問題は三和先輩の対応か。
三和先輩って、見た目も言動もクール系なんだけど、意外と情熱家なのよね。
同郷で何度か話したことがあるから、なんとなくわかる。
この挑発は受けるかもしれない。
三和先輩はここではじめて長考した。
私はこの部屋のスパイということもあって、このスキに視線を走らせる。
局面が動かないからヒマ、というポーズで、となりも観戦した。
【先手:氷室京介(帝大1) 後手:児玉一朗(慶長2)】
こうなってるのか。
児玉先輩の将棋は、有縁坂で見たことがある。
あのときはララさんがボコボコにされていた。
さすがは慶長のレギュラー。氷室くんも一筋縄とはいかないかな。
私はその場の観戦メンバーも記憶しておいた。
まだ中盤だからか、私もふくめて7人しかいなかった。太宰くん、火村さん、幹事の傍目先輩、治明の大河内くん。あとは知らない男子学生。A級校ばかりな気がする。B以下なのは、私と火村さんだけじゃないかしら。それともうひとつ、朽木先輩が来ていないのは気になった。
アルバイト中? ありうるけど、なんか橘先輩も不憫。
いや、でも、同棲してるのよね、このふたり。
家に帰ればふたりきりなわけだし……っていうか、どういう生活スタイルなの?
20歳で同棲、しかも主従関係。ぜんぜん想像がつかない。
パシリ
おっと、三和先輩が指したもよう。
私は視線をもどした。
あ、開戦してる。
太宰くんはうんうんうなずきながら、
「これは面白くなった」
と、ひとりで将棋を楽しんでいた。
橘先輩はすぐに3五歩と仕掛けた。
4四歩、4五歩、5六歩、3四歩、同銀右、4四歩。
歩が乱舞する。
先に弱点ができたのは、橘先輩のほうだった。
三和先輩は3六の地点に歩を打ち込む。
これは痛打だ。
先手の桂馬が死んだ。
私は太宰くんに形勢判断をたずねた。
「形勢? ……いい勝負じゃない?」
「先手の桂馬、取られるのが確定してない?」
「穴熊だから、桂馬を取るだけじゃ差がつかないと思うよ。後手も傷ができたし、4三歩成が入る展開なら、むしろ先手がよさそう」
とはいえ、具体的に動く順は、指摘してもらえなかった。
橘先輩が無策でつっこんでいるとは、思えない。
バイト先の駒の音で何局も指してるし、そのあたりは信用があるのだ。
三和先輩は、ペットボトルの炭酸飲料を飲んだ。
橘先輩は顔をあげずに、
「医者の不養生ですか」
と、なんだか怖いことをつぶやいた。
三和先輩はキャップを閉めて、
「たしかに、糖質なんて、そんなに取るもんじゃないよ。でも、美味しいのは事実だ。橘さんは飲まないの?」
と、たずね返した。
「わたくしは、ぼっちゃまが飲まないものは飲みません」
えぇ……それはそれでどうなの。
食べたいもの、飲みたいものくらい、主体性があってもいいのでは。
それとも、お金がないから食材をそろえるために我慢?
三和先輩はさすがに冷静で、表情を変えなかった。
「ま、ひとそれぞれだよね。私は医者の不養生、と言いたいところだけど、外科志望だしなあ。外科医も食生活に気をつけないといけないのかな。ところで、橘さん、こんな話題で時間をつぶしてていいの?」
橘先輩は、持ち駒にゆびをそえた。
「わたくしは雑用をしながらでも指せます。1七角」