222手目 詰めろ逃れの詰めろ
「4六歩だ」
朽木先輩は拠点を作った。
ただ、これもすぐにどうこうなるわけじゃない。
3七金寄、4二銀と、慎重な手が続く。
ここで風切先輩は2度目の長考。
私の右どなりにいる松平は、
「先手から動きそうだな」
とつぶやいた。
私はこれに反応して、
「動くところある?」
とたずねた。松平は考え込む。
「……ダメだな、わからん。速水先輩はどう思います?」
あ、こら、格上に逃げるな。
速水先輩は表情を変えずに、
「隼人のお手並み拝見、ってところね」
と、はぐらかしたような回答だった。
うーん、速水先輩に解説してもらうのが一番なんだけど──っと、動いた。
パシリ
これは……攻めを誘った手だ。
放置なら銀を盛り上がっていける。
朽木先輩は「そうか」と言って、かるく息をついた。
「……8六歩」
同歩、5五歩、9七桂、6五桂。
風切先輩は、駒音高く出た。
盤面が一気にうごく。
6六銀、5六歩、5八歩、6四歩、8五歩。
朽木先輩は8一飛と引いた。
7四飛、5一飛。
……微妙じゃない?
飛車の成り合いは、先手不利のような。
風切先輩は、さらにまえへ出た。4四歩。
同金に6五銀と食いちぎる。
手の意味はわかる。同歩は4四飛のスライドがあるからできない、というわけだ。
でも、取らなければいいだけで、朽木先輩は5七歩成と成り込んだ。
同歩、同飛成、4八角。
朽木先輩はこの手にひるまなかった。
「龍を逃げれば6五の銀が助かる、という寸法か。なら切るまでだ。同龍」
同金、6五歩、4九歩。
この手をみた大谷さんは、
「先手は端攻めに賭けていますね。ただ、拙僧としては先手を持ちたくありません」
と言った。
うーん、端攻め一本じゃムリなのでは。
いずれにせよ、後手のほうが手は簡単になったと思う。
私がそのことを告げると、大谷さんは、
「後手も手が悩ましいように思います。さしあたり5五角かと思いますが……自陣に馬を紐づけるか、それとも4七歩成からそのまま攻め込むか、2通り考えられます。受けるか攻めるかの判断が、むずかしい局面になりました」
んー、私だったら攻めるかも。
朽木先輩はどうかしら。あまり棋風がわからない。
のこり時間は、おたがいに10分ほど。
朽木先輩はおちついて考えていた。有利を意識しているわけではなさそう。
「……5五角」
風切先輩は5六歩と催促した。
9九角成なら受け、4七歩成なら攻め。
どちらにも大きな穴は見つからない。
朽木先輩は手を伸ばす。ゆびさきが乗ったのは、4六の歩だった。
「4七歩成」
駒がひっくりかえされる。
風切先輩は、すこしまえのめりになった。
9九角成をメインに考えていたのかしら。
いずれにせよ、このと金は取れないわよね。5六歩の意味がなくなる。
案の定、風切先輩は5五歩で角を取った。
3七と、同玉、4五金、2八玉。
朽木先輩は4七歩とたたく。
3八金、5七角成。
速水先輩は、この手をみて、
「あ、そうするんだ……」
とつぶやいた。
私はこれを聞き逃さなかった。
「速水先輩、なにか問題でも?」
「いえ、べつに」
ほんとぉ?
ただ、私もちょっと気になるのよね。
5四角と打てば、金の両取りでしょ。
朽木先輩がそこを見落としているとは思えない。
無視して1六歩とするつもりかしら。
【参考図】
5七の馬で左右挟撃。
3二角成とするヒマも4五角とするヒマも、あんまりないっぽい。
そうなると、5七角成はなかなかきびしい手だ。
風切先輩は5四角と打った。
1六歩、1三歩(やっぱり金は取れない)、1七銀。
端攻めに賭けていたはずの先手が、逆に端攻めを受ける展開。
同香、同歩成、同玉、1四香、1六銀打。
先手もギリギリになってきた。
同香、同銀、1三桂。
朽木先輩は手をもどした──いや、攻め駒の追加か。
でも危なくない? 3二角成がいきなり詰めろになるわよ?
……………………
……………………
…………………
………………あ、もしかして2五桂から詰む?
【参考図】
1八玉は1六香以下、2八玉は3七銀以下で詰むわよね。
でも、単純に2五同歩で詰まないっぽい。
ということは、3二角成としてもだいじょうぶ?
私があれこれ考えていると、風切先輩は1三同桂成と取った。
同香、1五歩。
朽木先輩はここで、2五桂のタダ捨てをはなった。
同銀、2九銀──風切先輩は、スッと金をスライドさせる。
え?
これにはギャラリーが反応した。
ダメダメ、中立性。
けど、3九馬の詰めろで終わりでは?
3九馬、3二角成は、1五香、1六合駒、2八馬から詰んでしまう。
3二角成に1四歩と伸ばしても、1五歩が再度詰めろだ。
私は大谷さんに話しかけた。
「これ、3九馬で負けじゃない?」
「……そう見えます」
まさか風切先輩──会長になりたくなくて試合放棄?
いや、先輩にかぎって、それはないはず。
そもそも会長職が賭けられてるって話は、絶対にウソだ。
当事者のメンツが、それっぽくないもの。
なにか異常なことが起きている。それはまちがいない。でも賭け将棋じゃない。
対局テーブルのまわりには、人だかりができていた。
速水先輩は、腕組みをしたまま無表情。
私はダメもとで訊いてみる。
「速水先輩なら、どう指されますか? 3九馬とか?」
「3九馬でいいなら、爽太はとっくに指してるわよね」
またそういう韜晦を──ん? そういえば、ずいぶん考えてるわね。
朽木先輩をみやる。
右手を椅子につき、左手を口もとにあてて長考していた。
もしかして3九馬じゃない? それとも、そのあとを読んでるだけ?
私たちは次の手を見守った。
……………………
……………………
…………………
………………あ、指す。
パシリ
さ、3九馬じゃなかった。
私は大谷さんに、
「3九馬じゃなかったわね。こっちのほうが厳しいのかしら?」
とささやいた。
大谷さんは、
「もしや、3九馬は後手負けだったのでは?」
と答えた。
「でも詰めろでしょ?」
「7一飛成〜1四桂で、詰めろ逃れの詰めろになるかと」
【参考図】
……ん、そうか、香車を走れなくすれば、3九馬は詰めろじゃなくなる。
しかもこれは、2二桂成、同玉、3二角成以下の詰めろにみえる。
複雑だけど、たぶん詰んでいるはず。まず、3二角成に同銀なら、3一銀、3三玉、3四銀、同玉、2五金、3三玉(4四玉は5四飛、3三玉、3四金まで、4三玉は4二飛、5三玉、7三龍、6三合駒、5四香まで)、6三龍、4三合駒、3四飛まで。詰む。
もし3二角成に同玉なら、3三香と放り込んで、同玉、3一龍、3二合駒、4二銀、4四玉、5四金まで。香車を取らずに4三玉と逃げても助からない。
そうか、詰めろ逃れの詰めろがあるんだ。
大谷さんは冷静に、
「朽木先輩も、指されたあとで気づいたのではないでしょうか」
たぶんそうだと思う。でないと、ここでの長考は説明がつかない。
しかも、これって──手をほとんど変えられないんじゃない?
風切先輩はペットボトルを開けた。
ギャラリーのなかにも、だんだんと気づき始めたひとがいる。
太宰くんは、そっかぁという顔をしているし、磐くんも感心したような表情だった。
とくにそわそわし始めたのが、対面の橘さんだった。
一方、風切先輩は、どっしりとかまえて読んでいた。
のこり3分を切ったところで、1六香と合駒する。
朽木先輩はふたたび長考。
4分あった持ち時間が、3分、2分と減っていく。
そのまま1分将棋に突入した。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
パシリ!
同玉、1三香、1五歩、3一金。
朽木先輩が手をもどした。
風切先輩は2九金として、銀のタダ取り。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
朽木先輩は4四金と逃げた。
6三角成、1五香、2七玉、4六馬。
風切先輩は持ち駒の飛車を手にした。
「1四飛」
朽木先輩は、すこし強めに口を閉じた。
けど、すぐにいつもの上品な表情になった。
「これで飛車損以上か……僕の負けだな。投了する」
ギャラリーがざわついた。
入江会長から注意が入る。
それからしばらくのあいだ、だれも口をきかなくなった。
朽木先輩は腕組みをして、ジッと盤面をみつめている。
「……3九馬と入ったほうがよかったか?」
感想戦が始まった。
局面がもどされる。
朽木先輩は3九馬と入りながら、
「7一飛成、3一銀右、1四桂、同香も考えた」
と告げた。
【検討図】
風切先輩は後ろ髪をさわりつつ、
「俺はこっちを読んでた。あと、3一銀左はなかったか?」
「3一銀左には1四香、同香、同歩、1五歩、1二香、同玉、1三歩成、同玉、1四飛がイヤだった。が、本譜よりはマシだったかもしれない」
感想戦は淡々と進んだ。
後手は攻めたのが微妙で、9九角成のほうがよかった、という結論になった。
まだベスト4ということもあって、閉会式はなし。
控え室にもどると、ララさんもいた。
ララさんはスマホから顔をあげて、
「あ、どうだった?」
とたずねてきた。
私は、
「風切先輩が3日目進出よ」
と答えた。
「Oh, parabéns」
ララさんは、座っていたテーブルからおりた。
「あれ? 隼人はあんまりうれしそうじゃないねぇ?」
こらこら、そこは触れない。
とはいえ、風切先輩もじぶんの態度を気にしていたらしく、
「ああ、悪い、どうも疲れちまってな」
とだけ答えた。
ララさんは事情を知らないから、すなおにそれを信じた。
「そっか、じゃあ今日はこれで解散だね。Vejo você amanhã!」
○
。
.
翌日、午前中の講義を終えた私は、部室に寄ることにした。
盤駒とチェスクロを返さないとね。
ドアを開けると、風切先輩と松平がいた。
ふたりは私の姿をみると、急に会話をやめた。
……………………
……………………
…………………
………………あやしい。
「秘密の話でした?」
私がカマをかけると、松平はなにかいいわけをしようとした。
ところが、風切先輩がこれを制した。
「裏見、松平から例の件を聞いたって、ほんとうか?」
「例の件?」
私は首をかしげた。けど、すぐに思い当たることがあった。
「もしかして、来年度の会長の件ですか?」
「そうか、知ってるのか……どこまで知ってる?」
私は松平に視線をむけた。
松平は「言ってもいい」という雰囲気で、アイコンタクトしてきた。
私は風切先輩に向きなおる。じぶんが知っている情報を話した。
風切先輩はそれを聞き終えると、タメ息をついた。
「話に尾ひれがついてるな。昨日の4回戦で、ギャラリーが変だと思ったんだ」
「じゃあ、会長職の話はウソなんですね?」
風切先輩は気まずそうに口ごもる
「いや、まあ、なんというか……ん?」
スマホの振動音。
風切先輩はポケットからスマホをとりだした。
そして目を見開く。
「朽木から電話……だと?」
場所:2016年度 秋季個人戦2日目 男子4回戦
先手:風切 隼人
後手:朽木 爽太
戦型:先手四間飛車vs後手居飛車穴熊
▲7六歩 △8四歩 ▲6六歩 △3四歩 ▲7八銀 △6二銀
▲6七銀 △5四歩 ▲1六歩 △1四歩 ▲6八飛 △4二玉
▲3八銀 △5二金右 ▲4六歩 △5三銀 ▲4八玉 △3二玉
▲5八金左 △8五歩 ▲7七角 △7四歩 ▲3九玉 △6四銀
▲2八玉 △9四歩 ▲7八飛 △4二金上 ▲9六歩 △8四飛
▲5六歩 △7三桂 ▲5七金 △3三角 ▲3六歩 △4四歩
▲2六歩 △4三金右 ▲2七銀 △2二玉 ▲3七桂 △1二香
▲4七金 △1一玉 ▲2五桂 △2四角 ▲4五歩 △2二銀
▲4四歩 △同 金 ▲3八金 △5三銀 ▲5九角 △3二金
▲7五歩 △同 歩 ▲1五歩 △同 歩 ▲4五歩 △4三金引
▲7五飛 △7四歩 ▲7八飛 △4六歩 ▲3七金寄 △4二銀
▲6五歩 △8六歩 ▲同 歩 △5五歩 ▲9七桂 △6五桂
▲6六銀 △5六歩 ▲5八歩 △6四歩 ▲8五歩 △8一飛
▲7四飛 △5一飛 ▲4四歩 △同 金 ▲6五銀 △5七歩成
▲同 歩 △同飛成 ▲4八角 △同 龍 ▲同 金 △6五歩
▲4九歩 △5五角 ▲5六歩 △4七歩成 ▲5五歩 △3七と
▲同 玉 △4五金 ▲2八玉 △4七歩 ▲3八金 △5七角成
▲5四角 △1六歩 ▲1三歩 △1七銀 ▲同 香 △同歩成
▲同 玉 △1四香 ▲1六銀打 △同 香 ▲同 銀 △1三桂
▲同桂成 △同 香 ▲1五歩 △2五桂 ▲同 銀 △2九銀
▲2八金 △1五香 ▲1六香 △同 香 ▲同 玉 △1三香
▲1五歩 △3一金 ▲2九金 △4四金 ▲6三角成 △1五香
▲2七玉 △4六馬 ▲1四飛
まで135手で風切の勝ち