221手目 賭けられた会長職
「よろしくお願いします」
風切先輩と朽木先輩は一礼して、対局開始。
なんだか重々しい雰囲気のなか、7六歩が指された。
朽木先輩は10秒ほど考えて、8四歩。
以下、6六歩、3四歩、7八銀、6二銀、6七銀、5四歩と進んだ。
私はこの手を見て、
「飛車の位置をすぐに決めないのね」
とつぶやいた。
大谷さんが反応する。
「大一番ではありますが、それにしても雰囲気が妙です」
そうなのよね──なんか賭けてる?
そんなわけないか。このふたりは、どっちもそういう性格じゃないと思う。
まあ、単純に優勝候補同士だからかな。
そうこうしているうちに、局面は進んだ。
1六歩、1四歩、6八飛、4二玉、3八銀、5二金右、4六歩。
先手は藤井システムっぽい。
でも、後手は端を突き返してるのよね。
おそらくは急戦。
朽木先輩の将棋を観るのは、新宿の将棋大会以来だ。
本気モードがどういうものか、お手並み拝見──ん? 松平は?
私は、松平がいつのまにかいなくなっていることに気づいた。
「大谷さん、松平は?」
「さきほど、磐くんといっしょに出て行きました」
首都工の磐くんと?
……………………
……………………
…………………
………………あやすぃ。
私もこっそりと、会場を抜け出した。
廊下に出る。まっしろな壁とグレーの絨毯。機能美を追求した空間。中央の吹き抜けからは、1階を見下ろすことができた。エレベーターはガラス張り。私は、松平たちが乗っていないことを確認した。まだおなじ階にいるわね。磐くんはローラーブレードを履いているから、音で分かるはず。
耳を澄ませると、奥の廊下から、車輪の音がした。
私はそちらのほうへ向かう。節電されていて、すこし薄暗かった。
突き当たりには、左へ曲がる廊下がみえた。
壁には【←給湯室】のパネル。
その曲がり角のむこうから、松平たちの話し声が聞こえた。
いきなりのぞきこむとマズい。私は一歩手前で耳を澄ませた。
「磐、それってほんとなのか?」
松平の声。
磐くんの返事も聞こえる。
「ああ、まちがいないぜ。でなきゃあんな空気にならないだろ」
「いや、でも……将棋で会長職を賭けたりするか?」
……………………
……………………
…………………
………………なぬ?
賭け将棋? しかも会長の座を賭けて?
いやいや、意味がわからない。私は混乱した。
磐くんの声が聞こえる。
「松平も、そろそろ腹をくくったほうがいいんじゃないか?」
「なんのだ?」
「風切先輩が勝てば、次の次の会長は、松平だろ」
「あのな……太宰の口車に乗せられるなよ」
「太宰のアレは本気だって」
「どうだろうな……そもそも、速水先輩をさしおいて、会長は決められないはずだ」
待った待ったーッ!
私は曲がり角から飛び出した。
びっくりするふたりを指差す。
「その話、くわしく聞かせなさいッ! ふたりとも正座ァ!」
*** 男子大学生2名、正座中 ***
松平たちから話を聞き終えて、私は驚愕した。
「会長えらびでモメてる? 来年度と再来年度の?」
ろうかに正座した松平は、私を見上げるようなかっこうで、
「モメてるというか、一部が騒いでるというか……俺もよくわからん」
と答えた。
私はあきれかえる。
「なーんか裏でこそこそやってると思ったら、そういうことだったのね」
「いや、こそこそやるつもりはなくてだな……」
ここで磐くんが割り込む。
「そうそう、太宰がぜんぶ悪い」
んー、どこまで信用したものか。
今のふたりの話だと、太宰くんが首謀者みたいな感じだった。
けど、又聞きなわけだから、証拠はない。
と、それよりも確認しないといけないことがある。
「で、さっきの賭け将棋の話は、ほんとなの?」
松平と磐くんは、おたがいに顔を見合わせた。
どっちもあまり自信がなさそう。
「テキトウに言ってたわけ?」
松平は後頭部をかいて、
「まあ、その……そういう噂を耳にした」
と答えた。
「どこで?」
「……磐から」
私は磐くんへ視線を移す。
「磐くんは、どこから聞いたの?」
「えー、記憶にございません」
あのさぁ……とはいえ、他校の学生だから、詰めるわけにもいかない。
「とにかく、変な憶測してないで、応援にもどりなさい」
私たちは対局会場にもどった。
さっきよりもひとが増えている。
同じ大学という特権を使って、ひとごみのなかへ。
こうなってるのか。
朽木先輩は、右銀急戦を選択していた。
4二金直が工夫かしら。
うーん、さっきの話を聞いたせいで、素直に対局を観れない。
首謀者らしき太宰くんは、ちょうど対面にいた。これも気になる。
えーい、裏見香子、観戦に集中。
気合いを入れたところで、朽木先輩が動いた。
パシリ
後手は単純な急戦ではないみたい。
工夫に工夫を重ねている。研究手順かしら。
風切先輩はこの手を見て、深く息をついた。
私はとなりの大谷さんにたずねる。
「後手はもたもたしてると、穴熊を捨てた意味がなくなりそうじゃない?」
「左様ですね……ところで、なにかありましたか?」
「なにかって?」
「もどられてから、そわそわなさっているようですが」
くぅ、見抜かれるか。
いくら小声でも、ここでつぶやく内容じゃないしなぁ。
「あとで相談するわ」
「承知しました」
5六歩、7三桂、5七金、3三角、3六歩、4四歩、2六歩、4三金右。
え、なにこれ?
さすがにギャラリーも微妙な反応をみせた。
とくに松平は、
「新型の囲いか?」
と、目を白黒させた。
すると、磐くんは、
「穴熊に組み替えるんだろ」
と予想した。
なるほど、かたち的には、対藤井システムと似た感じになってるのか。
ただ、予想した磐くん本人も、
「さすがに凝りすぎだと思うけどな」
と懐疑的だった。
たしかに……いや……そうとも言えない気がする。
風切先輩クラスの藤井システムに、定跡通り組むのは怖いはず。
アマチュアにすべての情報が公開されているわけじゃない。
プロとか奨励会では常識でも、私たちが知らない順はあるはず。
朽木先輩は、ひねった研究手順で、実力勝負に持ち込んでいるのだ。
このへんが元奨励会の圧なのよね。
とはいえ、実力勝負に持ち込める朽木先輩も、さすがだけど。
以下、2七銀、2二玉、3七桂、1二香と進んだ。
ほんとに穴熊なんだ。
ここで風切先輩は、はじめて口をひらいた。
「なるほど、ね……4七金」
朽木先輩は、黙って1一玉ともぐる。
風切先輩は長考に沈んだ。
普通なら3八金よね。銀冠へ移行。
でも、穴熊への組みなおしは、風切先輩には見えていたはず。
普通の手ならすぐに指すはずだ。
松平もそう考えたらしく、
「攻めそうだな」
とつぶやいた。
同意。風切先輩が読んでいるのは攻めっぽい。
一番可能性があるのは2五桂。ただ、そのあとが分からない。
私は松平に、
「2五桂って跳ねると思う?」
と尋ねた。
「俺もそれを考えてるんだが……一直線には潰せないんじゃないか」
んー、やっぱりそうか。
ギャラリーは固唾を飲んで見守る。
……パシリ
跳ねた。
朽木先輩はノータイムで2四角。
風切先輩は4五歩と突いた。
これは私も考えていた。けど、この先がよくわからないのよね。
元・振り飛車党の感覚としては、ソコかな、というだけ。
2二銀、4四歩、同金、3八金、5三銀、5九角。
風切先輩も駒組みを再開した。
一転して地味な展開になる。
ここで大谷さんが、
「端を入れても、潰しきれないように思います。なにかあるのでしょうか」
と疑問を呈した。
うーん、私たちの棋力では、このレベルの戦いを読みきれない。
かと言って、読めそうなメンツは対局中なのよね。
土御門先輩とか氷室くんとか──ん? 私と大谷さんのあいだに、女性が割り込んできた。速水先輩だった。
速水先輩は盤面をみて、
「あ、ふーん、こうなってるんだ」
と言った。
私は渡りに船とばかり、
「速水先輩、どうですか、この局面?」
とたずねた。
「爽太がずいぶんひねってるわね、っていう印象」
「そうですね……形勢的には?」
「五分なんじゃない?」
なるほど、速水先輩は五分だとみるのか。
これは信頼してもいいかな。
「ところで、香子ちゃん、負けちゃったの?」
「え……あ、はい」
私が答えると、速水先輩は大谷さんへ顔をむけた。
「ということは、大谷さんが勝ちか。来週はよろしく」
「……クジで当たれば」
うーん、速水先輩は速水先輩で、考えてることが読めないのよね。
対局を観に来たのか、それとも私たちと話しに来たのか。
どっちにせよ、わざわざここを選んだ理由はあるはず。
さっきの松平の話に、速水先輩の名前も出てたわよね。
もしかして、ほんとうに賭け将棋なの?
ありえないと思うんだけど──
3二金、7五歩、同歩、1五歩。
あ、仕掛けた。
私は速水先輩に、
「仕掛けましたね」
と、見たまんまのことを伝えてしまった。
速水先輩は盤面を見つめたまま、
「んー……これって、つながるのかしら」
と懐疑的。
風切先輩だから、採算はあるんじゃないですかね。
このへんの信頼は、都ノ将棋部のなかでは絶対的だった。
速水先輩クラスだと、ちがうのかもしれないけど。
じっさい、速水先輩は具体的に読みはじめた。
「1五同歩、4五歩で十字飛車を狙っても、4三金引でなにもないと思うのよね。歩切れでしょ。以下、7五飛と走るくらいかしら。7四歩、7八飛で後手のターンになるわ」
【参考図】
なるほど。
私が感心していると、局面はそのとおりに進んだ。
1五同歩、4五歩、4三金引、7五飛、7四歩、7八飛。
朽木先輩は、持ち駒の歩を手にする。
「できれば決勝で当たりたかったのだが……4六歩だ」