211手目 おとなの勧誘
水曜日の将棋道場。
小学生たちがわいわいやっているなか、私はコップを洗っていた。
団体戦の余韻もつかのま、1年生の後学期も本格的になってきた。
前期で慣れたところもあるし、慣れていないところもある。そろそろなにかテーマを決めて勉強しようかな、なんて考えていると、となりでお茶を入れていた橘さんが、
「都ノの昇級、おめでとうございます」
と、唐突にお祝いのことばを述べてくれた。
私は恐縮して、
「ありがとうございます……晩稲田も、優勝おめでとうございます」
とかえした。
A級優勝校は晩稲田なのよね。2位が帝大。
私は王座戦のことも気になってたから、
「晩稲田は、王座戦出場確定なんですよね?」
とたずねた。
橘さんは急須にお湯を入れながら、
「はい、ことしはぼっちゃまが主将ですから、たいせつな年になります」
と答えた。
いや、それはめちゃくちゃ個人的な理由だと思う。
チームが活躍したときの主将って、案外おぼえてないんじゃないかなぁ。
とはいえ、橘さんの個人的感情につっこむのもナンセンス。黙っておく。
「王座戦って、どういう大会なんですか?」
「大学将棋の最高峰を決める戦い……というのがタテマエです」
「タテマエ?」
「正直なところ、なにを考えて出場するかは、ひとそれぞれな気がします。給料をもらっているわけではないので、チームに貢献する義務はありません。その証拠に、私用で来ないひともたまにいます。単に全勝賞をめざすひともいます。もちろん、団体戦として熱くなるかたもいます。ほんとうに、ひとそれぞれです」
そういうのは関東の団体戦でも、なんとなく感じた。
全チームが一丸となって云々、が全体の総意じゃないっぽい。
昇級や降級にあんまり関心のなさそうなひともいた。
私はちょっと興味が出て、
「橘さんは、どのタイプですか?」
と質問してみた。
すると即答で、
「ぼっちゃまのお考え次第です」
とかえってきた。
訊いた私が悪ぅございました。
もうちょっと主体性を持ったほうがいいんじゃないかなぁ。
私はそれから洗いものを済ませて、小学生のあいて。
みんなやたらはりきってるな、と思ったら、そのなかのひとりが、
「こんどおっきな大会があるんだよ」
と教えてくれた。
「ふーん、そうなんだ」
私はパシリと飛車を成る。
はい、寄り。
小学生の男の子はのけぞって、
「裏見お姉ちゃん、もうちょっと手加減してよ」
と言った。
「大会では手加減してもらえないでしょ。あと、投了するならちゃんと投了」
「はい、負けました」
感想戦をする間もなく、次の子が乱入してくる。
ああ、もう、これじゃあ個人戦の練習にならないでしょ。
バイト中にすることじゃないかもしれないけど。
「姉ちゃん、はやく指そ」
「これから休憩。15分待ってね」
「えーッ」
ちょっとくらい休ませてくださいな。
疲れ果てているところへ、スマホが振動した。
これさいわいとばかりに、画面も見ずに離席する。
「あッ、裏見姉ちゃん、対局中はスマホ禁止ッ!」
「休憩中でーす」
「さてはカレシだなぁ」
こら、なに勝手な憶測してるんですか、まったく。
画面を確認。
松平剣之介
……………………
……………………
…………………
………………マ?
私は席主の宗像さんにことわって、道場を出た。
すこし離れた空き地に移動する。
「もしもし?」
《お、裏見、よかった、話す時間あるか?》
「ちょっとくらいなら……バイトの休憩タイムなの」
《じゃあ、単刀直入にいう。来週のオープンキャンパスに出てくれないか?》
私はなんのことか、一瞬わからなかった。
でも、大学の掲示板に貼られていたポスターを思い出した。
「もしかして、高校生に大学を紹介するイベントのこと?」
《そうだ》
「待って、私まだ1年生なんだけど……そもそもなんで松平が関わってるの?」
《折口が模擬授業の担当らしいんだ。手伝えって言われた》
あのさぁ、それで私を巻き込みますかね。
しかも、私はあることに気づいた。
「っていうか、オープンキャンパスは日曜日でしょ? 個人戦は?」
松平はスマホ越しにごにゃごにゃと言いわけをはじめる。
《いや、うん、折口に言われたのが前期で、その、まあ……》
「ようするに、忘れててオッケーしちゃったの?」
《すまん、おなじ学科の連中に声はかけたんだが、みんな折口が怖いらしい》
で、私に頼んだ、と。
まったく、もうちょっとスケジュール管理はちゃんとしてくださいな。
《裏見がムリなら、もちろんほかをあたるぞ》
ムリってわけじゃない。
女子は対局がないから、来週は自由参加になっていた。バイトも入れていない。
だから時間はあるんだけど、うーん、なんか癪というか――
「とりあえず、タダ働きはダメ。折口先生が調子にのるといけないから」
《そこはだいじょうぶだ。東京都の最低賃金が出る》
最低賃金かい。
私はしぶしぶ承諾した。
道場にもどると、橘さんが代わりに対局していた。
橘さんはちょっと雰囲気がアレだから、小学生もおとなしく指している。
上級生とはいえ、私も貫禄をつけないとダメかしら。
こんな調子で高校生あいてにだいじょうぶかしら。とほほ。
○
。
.
工学部棟のひときわキレイな教室。
制服を着た高校生たちが、マジメにスライドをみていた。
スクリーンの横に立つ、白衣の折口先生。
ピンマイクをつけ、みどりのレーザーポインタでスライドのグラフを照らす。
「というわけで、ナノマシンを使ったがん組織への集中的投薬は、従来の放射線治療よりも効率的にがん細胞を死滅させることができる。将来的には、抗がん剤の集中的投薬にも期待できるかもしれない」
ふむ……いつもとちがう雰囲気の授業で、なんか新鮮。
しかもけっこう最先端の話で、おもしろかった。
授業後は質疑応答の時間。けっこう活発なやりとり。
私はマイク持ちで、たいへん。
ぜんぶ終わって高校生が退場したところで、私はひと息ついた。
機材があるかどうか確認して、リストにチェック――
「あれ? 新宿将棋大会のお姉さん?」
ちょっとボーイッシュな声。
私がふりかえると、グレーのチェック柄のスカートに、半袖の白いシャツを着た少女が立っていた。胸もとには赤いリボン。顔立ちは中性的で、黒ぶちのメガネをかけていた。眉毛がギザギザ。その顔に、どこかみおぼえがある。
「……あッ、新宿将棋大会*で指した子?」
「ですです、っていうか、ここの大学のひとだったんですね。何年生ですか?」
「1年生」
「あ、じゃあ1コ差ですか。リケジョだったのはうれしいです」
「ううん、私は経済学部」
少女はけげんそうな顔をした。
「経済学部のひとが、なんで折口先生の授業に?」
うーん、あんまり説明していいことでもないのよね。
スタッフだから学部は関係ないとかなんとか、てきとうにごまかした。
めんどくさいので話題を変える。
「ところで、名前は?」
「平賀です。先輩は……」
ヒラガさんは、私のネームプレートを読み上げた。
「ウラミさんですか。変わった名前ですね。恨むって書くんですか?」
ちがいますぅ。
もう、この子、将棋大会のときも思ったけど、ちょっと変わってるわね。
とりあえずオープンキャンパスらしい話をする。
「ヒラガさんは、工学部を目指してるの?」
進路の話になって、ヒラガさんは急にマジメになった。
「すっごく悩んでます。ウラミさんは第一志望一本でしたか?」
「ううん、ほかの私立とも比較したわ」
「ボクは私立だと電電しか選択肢がないんです。他は1浪するほうがマシかな、と」
「どうして?」
「理工系はやっぱり国立ですよ。国からの予算がちがいますし」
んー、なるほど、理系は理系でけっこうこだわりがあるのか。
「ウラミ先輩は、どういう理由で都ノが第一志望になったんですか?」
「私の偏差値で行ける範囲だと、八ツ橋か都ノだったの。八ツ橋の経済学部は、ちょっと思想寄りって聞いてて、オープンキャンパスでも、経済思想史みたいな話だったのよね。都ノは計量経済学がメインで、私はこっちのほうが好みだったから」
ヒラガさんは感心して、
「へぇ、ウラミ先輩、すごく考えてたんですね」
と褒めてくれた。
でしょ? じつは入学したあとに整理してて気づいたんだけど。
と言っても、いまだに正解だったのかよくわからない。
計算していけば経済がわかる、って単純な話でもない気がしてきている。
たとえば「効用ってなに?」みたいな問いはテツガクに近い。
「ヒラガさんは、ほかの国公立を考えてないの?」
「ボクは実家が東京なんで、東京から出る気はないんです」
「そのなかで、とくに都ノを考えてる理由は?」
「正直、大学だけで考えると、首都工業大学のほうが魅力的かなぁ、と」
まあそうでしょうね。
あっちは国立で、しかも純理系の大学だ。
「じゃあ、ヒラガさんにとって、都ノで迷うメリットは?」
「ずばり折口先生です」
……………………
……………………
…………………
………………え?
「お、折口先生が、どうかしたの?」
「どうかしたの、じゃないです。めちゃくちゃ有名な先生じゃないですか。科学雑誌にもよく出てますし、若手の賞ももらってますし、リケジョの鑑ですよ」
え? 部室にタダ菓子とタダジュースをもらいにくるアラサー女性じゃないの?
夜中に男子大学生と変なフィギュアをつくってる職権乱用おばさんでは?
私が困惑していると、折口先生がスッとあらわれた。
メガネをなおして、いつもとちがう雰囲気を出している。
「ふむ、きみは科学に興味があるのかね?」
ヒラガさんは、好きな推しに声をかけられたかのように、
「ありますッ!」
と元気よく答えた。
「なるほど、私のゼミは、アットホームでありながら、常に新しいメカを開発する意欲と好奇心に満ちあふれている。大学生活をサポートしてくれる先輩もいるし、就職実績もいいぞ。大手企業や国立研究所の研究員も、夢ではない」
すごい、おとなのウソを目の当たりにしている。
折口ゼミは人気がなくてひとがいないはず。
アットホームがいかにも地雷ワードっぽいし。
ところが、ヒラガさんはそれを真に受けているらしく、目をかがやかせていた。
「すごいです。折口先生のゼミって、何年生から入れるんですか?」
「3年生からだが、1年生の参加も許可している。単位はあげられないけれども、2年間の下積みは、将来リケジョになるためにかならず役に立つ」
報酬なき労働者をつのる先生。
けっきょく、折口先生は松平から聞いた話とほとんど逆のことを説明していた。
私が横であきれていると、ふとあることに気づいた。
ヒラガさん、将棋が指せるのよね。しかもけっこう強かった。
折口先生の説明が終わったところで、私はススーッとわりこむ。
「……ヒラガさーん」
「はい?」
「都ノ大学将棋部は、アットホームでありながら学生将棋界の頂点をめざす、意欲と向上心に満ちあふれたステキな部なの。大学生活をサポートしてくれる先輩もいるし、理系の優等生が在籍していて、ヒラガさんにぴったりだと思うんだけど、どうかしら?」
ヒラガさんは、なんとなくうたがわしげなまなざしで、
「ウラミさん、急にどうしたんですか?」
とたずね返してきた。
むむむ、折口先生とおなじ誘い文句なのに。
……………………
……………………
…………………
………………ひらめいた。
「そうそう、折口先生って、将棋部の顧問なのよ」
「えッ……ほんとですか?」
「だからぁ、都ノ大学に入ると、将棋でも折口先生の指導を受けられて一石二鳥」
ヒラガさんは、グッとガッツポーズして、
「わかりました、考えてみます」
と言い、カバンを持って教室をあとにした。
……………………
……………………
…………………
………………あとは本人次第か。
私はひと息つく。
すると、首筋にひんやりとしたものが当たった。
私が悲鳴をあげてふりかえると、折口先生が缶コーヒーを手にしていた。
「おつかれさん。どうだ、飲むか?」
「あ、はい……ありがとうございます」
「ちょっと休憩にしよう。話したいことがある」
*106手目 ロープの向こうがわ
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