208手目 棋譜の終止線
棒銀の端攻め……銀香交換のパターンだ。
同歩、同銀、同香、同香、9七歩に9八歩まではほぼ確定。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
以下、8八銀、9七香成が見える。
9七香成に同銀は、9九歩成、7七桂、9八とと引かれて困る。
と金は遅いようで速い、の典型。
じゃあ……9七香成に同桂、9九歩成、同銀、9六歩、9八歩で収める?
これはアリかな。
ただ、9七香成、同桂、9九歩成、同銀、9六歩、9八歩、9七歩成、同歩のあと、7六歩と取り込まれたかたちが、ちょっと攻められてる印象。
……………………
……………………
…………………
………………こうしますか。
私は9五歩と取り返して、同銀、同香、同香、9七歩、9八歩まで進めた。
それから持ち駒に指を伸ばす
パシリ
私はチェスクロを押した。
脇くんはこの手をみて、うっすらと口の端をゆがめ、
「とても重厚だね」
とつぶやいた。
なんか表現が意味不明だけど、言いたいことはわかる。
単に8八銀とできるところに、銀をもう一枚投入しているから重い、と。
だけどここは、受け止め切ることが大切。
そうすれば、自然と私に攻撃のターンがまわってくる。後手陣はスキが多い。
脇くんはこの手をあまり読んでいなかったらしく、長考した。
残り時間は、私が22分、脇くんが18分。ちょっと差がついてきた。
「……7六歩」
はい、そっちね。これは読みどおり。
同銀右、9一香。
私はこの瞬間を狙って、4六角と打った。
ずっと急所になっていた飛車のこびんを狙う。
脇くんはスッと6四角。
しなやかな動きだった。
同角、同歩、7四歩。
後手に動きを催促する。
「演奏をリードされるっていうのも、心地がいいよね」
マゾですか?
脇くんはまた30秒ほど考えて、6三金とあがった。
んー……いかにも受け身な……。
脇くんはセリフ回しが独特なだけで、口三味線をしているわけではないらしい。
先手が主導権をにぎっているのは事実だ。
脇くんは、もたれかかる方針なのだろう。
だったら、左右で揺さぶりをかけましょう。
「1七桂」
脇くんはこの手に対しても消極的だった。4二銀と引く。
わざわざ2五桂としなくてもよくなった。
4四歩、同歩、同飛。
「9九歩成」
「!」
唐突な攻め。
私は10秒ほど考えて、同銀とした。
9七香不成、同桂、同香成。
これは……? 9六歩は8五桂〜7三桂成だから、選択しなかったのはわかる。
だけど、攻め駒を渡すと後手不利なのでは?
私はしばらく悩んだ。
なにか罠があるんじゃないかと思ったからだ。
でも、後手から攻める手はないはず。
「……4八飛」
「4三歩」
やっぱりそうだ。時間を使わせる作戦だったのかしら。
微妙にハマってしまった。5分ほどあった時間差が、だいぶ縮んでしまった。
残り時間は、私が15分、脇くんが13分。
とはいえ、無駄にダラダラ考えていたわけじゃない。
「9八歩」
敵の打ちたいところに打て。後手からの9八歩を防止。
9六成香、8八銀上、7四金、7五歩、7三金、9七歩、9五成香。
「7四香ッ!」
攻勢ッ!
7五歩のところで6三角も考えたけど、それは攻め合いになると読んだ。
本譜は完封を狙う。
6三金、7一香成。
次に7二角とできればパーフェクト。
「9四角」
さすがに押さえてきたか……いずれにせよ、挟撃可能なかたち。
私は2五桂と跳ねて、争点を右へ移した。
脇くんはこれをみてから、一枚の駒を手にした。
「それは変調だよ、裏見さん……8四桂」
私のこの手をみた瞬間、イヤな予感が走った。
道ばたで、ふいに声をかけられたような――
あるいは、放課後の校舎に突然はじけた、吹奏楽の音色。
……………………
……………………
…………………
………………手がない。
いつの間にか、盤面の主導権は脇くんにうつっていた。
私は口もとに手をあて、やや猫背気味に考え込む。
……………………
……………………
…………………
………………ほんとうに手がない。
しまった。これなら7五歩のところで6三角と打って、攻め合いにするんだった。
もしかして、ソフト的に1000近い差なんじゃないの。
「負けました」
ひだりどなりの席で、大谷さんのあいてが投了した。
貴重な1勝。私は気をとりなおして、背筋をのばす。
なんとなく大谷さんの視線を感じる。観戦者もちらほら増えていた。
これ……どうすればいいのかわからない。
受ける? 攻める? 受けるなら6七金右として、上部を厚くするしかない。以下、7六桂……いや、ちがう。脇くんレベルなら2四歩としてくるはずだ。7六の銀はもう動けない。桂馬を先に殺されてしまう。それなら1五歩で攻めたほうがマシ……でもないか。1五歩、7六桂、同銀、8六歩が痛い。同歩、同成香は潰れに近いと感じる。
持ち時間がどんどん減る。勝負どころで減るパターンじゃなくて、そもそもなにをしていいのか分からないまま減るパターンだ。最悪の流れになった。
私は散々迷ったあげく、残り5分を切ったところで、5五角の強硬策を選択した。
脇くんは、この手の狙いがよくわからなかったらしい。
「長考後に角の単打ち……?」
脇くんは30秒ほど時間を使った。7六桂と跳ねて、同銀に4四銀と殺しにくる。
しめた。罠にかかった。
私はノータイムで飛車を走った。
「!」
男性用のメイクをした顔に、ハッとする表情が浮かんだ。
はじめてみせた彼の一面。
それから脇くんは、ひたいを押さえて笑った。
「ハハハ、しまった、飛車切りがあったんだね」
脇くんはいつもの冷笑的な表情にもどった。
「やっぱり、セッションはこうじゃなくっちゃね」
セッションだかテンションだか知らないけど、ひとまず盛り返したわよ。
同歩、同角のあと、後手は3筋を支える手段がない。押し潰す。
脇くんも長考をはじめた。
よしよし、いくら気取っても、時間の使い方には素が出るのよ。
けっきょく、脇くんも残り5分を切るまで考えた。
「……同歩」
同角、8六歩、1一角成、7六角、4四桂。
よし、喰らいつけた。寄せの段階に突入。
脇くんはここで1分使って、4九飛と下ろす。
私は4八香で攻防に利かせた。
「4七歩」
4七同……6七銀と一回受ける?
1分将棋で、攻めと受けの両方は読みきれない。
私は9筋方面が広いことを頼りに、攻めを読んだ。
5二銀と打ち込むのが詰めろだ。だとすると銀は手放せない。
あ、でも、今打つと質駒になって、5八角成から寄るおそれが。
ピッ
ぐッ、ここで1分将棋。もうちょっと時間が欲しい。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同香ッ!」
いったん保険。
脇くんも残り時間を全投入する。
さっきまでの雰囲気とうってかわって、真剣そのものだった。
ピッ…………ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
私はノータイムで同玉。脇くんは、どうみても詰みをさがしていた。
時間攻めにする。
4八金、6七玉、5八銀、5六玉、4七銀不成、6七玉。
根元の香車を抜かれてしまった。
6九飛成、6八金、同龍、同玉、5八金。
上は9五に成香がいて、脱出経路がない。
「7九玉ッ!」
下段に活路を見出す。
いつのまにか脇くんから、終盤特有の圧は消えていた。
1分将棋だというのに、リップクリームを塗りなおしている。
「……綺麗な棋譜になった。7七香」
ノータイムで同銀。
脇くんは7八歩と打つ。
「終止線は8九飛成だよ」
……………………
……………………
…………………
………………詰みだ。8九玉、7九金、9九玉、9八歩、同玉、8七歩成、9九玉、9八と、同玉、8九飛成まで。
投了するとき、一瞬、声がかすれて出なかった。
「……負けました」
○
。
.
30分の休憩時間。
私たちは人気のないフロアまで移動して、ミーティングという名の放心状態。
半円形のソファーがならぶ、学生用のフリースペースだった。
チームは3−4負け。気まずい空気が流れる。
風切先輩は自販機でスポーツドリンクを買い、キャップを開けた。
「おーい、まだ自力だぞ。次勝てば昇級だ」
そう、そうなんだけど――流れが悪い。
これまで上昇気流だったのが、一気にとまってしまった。
風切先輩は大きく息をついて、ペットボトルを3分の1ほど飲み干した。
口もとをぬぐう。
「三宅、聖ソフィアは今日2連勝してるんだな?」
「ああ、修身と房総は昇級争いから脱落。都ノと聖ソフィアのマッチレースだ」
だれも反応しない。
風切先輩はキャップを閉め、意を決したように口をひらいた。
「赤学にはチームの熱で負けてた。これは主将である俺の責任だ」
三宅先輩はなにかフォローしようとした。
けど、風切先輩はこれを左手でことわった。
「チームの盛りあがりで負けてたのは事実だ……けどな、俺は先週言ったことを撤回する気はない。負け惜しみに聞こえるかもしれないが……将棋は個人競技だ。盤上にチームメイトはいないし、対局相手以外の敵もいない。勝ちはそいつが勝ったからだし、負けはそいつが負けたからだ。それ以上でもそれ以下でもない。だから……」
そこでセリフはとぎれた。
私は風切先輩をみやる。
先輩は、自販機のそばにある窓から、東京の街並みをにらんでいた。
「だから俺は、みんなの『将棋に勝ちたい』気持ちに賭ける……以上だ」
私たちがもどったとき、会場の雰囲気はすこし変わっていた。
昇級枠が絞られたからだろうか。テーブルによっては歓談しているところもあった。
だけど、それとはうらはらに、私たちのテーブルは野次馬でごったがえしていた。
待ってましたとばかりに、火村さんが明石くんの背後からとびだす。
「さあさあ、地獄の底から這いあがってきたわよ〜」
爪をたてて威嚇してくる火村さん。
明石くんは冷静に彼女をどかせて、席についた。
三宅先輩も腰をおろす。
「都ノから、どうぞ」
「わかった……1番席、副将、穂積八花」
「1番席、大将、大友義明」
「2番席、三将、松平剣之介」
「2番席、副将、畠山正」
「3番席、四将、星野翔」
「3番席、四将、カミーユ・ホムラ」
「4番席、五将、風切隼人」
「4番席、五将、細川多一郎」
「5番席、六将、南ララ」
「5番席、六将、明石嘉門」
「6番席、七将、大谷雛」
「6番席、七将、小林朗」
「7番席、八将、裏見香子」
「7番席、九将、有馬勇一」
予想どおりの布陣。
聖ソフィアもこの読みだったらしく、すぐに持ち場へ散会した。
私は最後尾の席へ移動しかける。
すると、三宅先輩が私を引きとめた。
先輩は小声で、
「こういうのは事前に言わないほうがいいのかもしれないが……裏見のところは山だ」
とささやいた。
「あたりがよくないですか?」
「いや、いい悪い以前に、これしかない。それは聖ソフィアもおなじだ。1番席から4番席までで2勝、5番席から7番席までで2勝……これが現実的に可能なラインだと思う」
「上は風切先輩+もうひとり、下は大谷さんと私、ですね?」
三宅先輩は首をたてにふった。
「俺じゃ有馬には勝てない……あとは頼んだ」
私はうなずき返した。
7番席にむかう。
金色のネックレスをしたマッシュウルフの男子が座っていた。
「きみと話すのは、春にうちのキャンパスでナンパして以来かな……よろしく」
私は黙って席につき、駒をならべる。
穂積さんの振り駒で、都ノの偶数先になった。
幹事の八千代先輩が時計をはかる。
「……それでは、対局を開始してください」
「よろしくお願いしますッ!」
C級秋季大会、最終戦の幕が切って落とされた。
場所:2016年度 秋季団体戦3日目 8回戦
先手:裏見 香子
後手:脇 聖司
戦型:角換わり力戦形
▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △8五歩 ▲7七角 △3四歩
▲8八銀 △3二金 ▲7八金 △7七角成 ▲同 銀 △2二銀
▲4八銀 △6二銀 ▲4六歩 △4二玉 ▲4七銀 △7四歩
▲5六銀 △3三銀 ▲9六歩 △7三銀 ▲6六歩 △8四銀
▲5八金 △7五歩 ▲6七銀 △9四歩 ▲6八玉 △5二金
▲1六歩 △1四歩 ▲4五歩 △3一玉 ▲4八飛 △9五歩
▲同 歩 △同 銀 ▲同 香 △同 香 ▲9七歩 △9八歩
▲8八銀打 △7六歩 ▲同銀右 △9一香 ▲4六角 △6四角
▲同 角 △同 歩 ▲7四歩 △6三金 ▲1七桂 △4二銀
▲4四歩 △同 歩 ▲同 飛 △9九歩成 ▲同 銀 △9七香不成
▲同 桂 △同香成 ▲4八飛 △4三歩 ▲9八歩 △9六成香
▲8八銀上 △7四金 ▲7五歩 △7三金 ▲9七歩 △9五成香
▲7四香 △6三金 ▲7一香成 △9四角 ▲2五桂 △8四桂
▲5五角 △7六桂 ▲同 銀 △4四銀 ▲同 飛 △同 歩
▲同 角 △8六歩 ▲1一角成 △7六角 ▲4四桂 △4九飛
▲4八香 △4七歩 ▲同 香 △5八角成 ▲同 玉 △4八金
▲6七玉 △5八銀 ▲5六玉 △4七銀不成▲6七玉 △6九飛成
▲6八金 △同 龍 ▲同 玉 △5八金 ▲7九玉 △7七香
▲同 銀 △7八歩
まで110手で脇の勝ち




