207手目 Prestissimo
観葉植物で仕切られた、おしゃれなレストラン。
すこしばかり値が張るけど、そのぶん知り合いの顔はなかった。
私の目のまえには、ほうれんそうとキノコのピザが一枚。
ドリンクのオレンジジュースは、しぼりたての果肉入り。
ナイフとフォーク、それにピザ生地のさくさくという音。
あまりにも静かな昼食。
息がつまりそうな空気に、風切先輩はタメ息をついた。
「おいおい、お通夜じゃないんだから、もうちょっとなんか話そうぜ」
そう言われましてもですね。
7回戦の東海道戦は、5−2で勝利。
いよいよ次は赤学との全勝対決だ。
これで緊張するなっていうほうが無理だと思う。
ここでララさんが手をあげて、
「次はララ出るの?」
とたずねた。三宅先輩は、
「迷ってる」
と答えた。
ララさんはベーコンピザをほおばりながら、
「あんまり直前だと、心の準備ができないよ〜」
と言った。
そうなのよねぇ。私も6番席か7番席かが決まっていない。
しかも、決まってないだけならともかく――脇くんと当たる可能性があるのだ。
脇くんは春に、下の端のほうで出ていた。だから真ん中より上、というのが三宅先輩たちの読みだったんだけど、これは外れてしまった。赤学は春と似たオーダーを採用している。つまり、うちとおなじでC級の癖を見抜いたわけだ。
脇くんを風切先輩が仕留めるのはムリになっていた。
私はジュースを飲んで、ひとこと、
「私が6番席ならララさんが抜けで、7番席なら三宅先輩が抜けですよね?」
と確認した。
三宅先輩はうなずいた。
「その予定だ」
ここで星野くんがコメントした。
「すみません、先週3連敗してるので、僕アウトのララさんインでもいいような……」
これにはララさんが、
「ダメダメ、部室の成績で決めなきゃ。翔のほうがいいよ」
と言った。
なぁんか押し付け合いみたいな感じになってるのよねぇ。
三宅先輩もこれはよくないと思ったらしく、
「オーダーの責任は俺がとる。もうすこし待ってくれ」
と答えた。
そのあとは、東海道戦をすこしふり返って、ランチは終わった。
会計を済ませてレストランを出る。
他校を警戒して遠目の場所を選んだから、ちょっと歩かないといけなかった。
歩道がせまい。3、4人のグループに分散した。
私は、大谷さん、ララさん、松平で、ナイトクラブのメンバーになっていた。
松平は低めの声で、
「このまえの脇との会話、先輩たちには伝えてないけど、いいんだよな?」
と言った。私はうなずいて、
「4人で話し合ったとき、そういう結論になったでしょ」
と小声で答えた。
ところが、ララさんはまだ納得していないらしく、
「でもさぁ、あのワッキーの台詞、ブラフじゃないと思うんだよねぇ」
と言いながら、両腕を後頭部に回して、体を左右にゆらした。
私はちょっと声を落とすように催促してから、
「確証がないわ。なにか誤った印象を植えつけようとしたのかもしれないでしょ」
と指摘した。
「そうかなぁ……ひよこは、どう思う?」
「それについては先日お話ししたとおりです。脇くんの発言がブラフだと、拙僧は思っていません。しかし、先輩たちにお伝えする内容でもなかったと考えています」
そうそう、わざわざ伝えるようなエピソードでもない。
私たちはその話題を、それっきりにした。
○
。
.
C級の対局テーブルは、満員御礼だった。
他大の偵察がわんさか駆けつけていた。私たちは人混みをかきわけて進む。
というか、オーダー交換前くらいは自重してくださいな。
とりあえず三宅先輩のあとに続く。
私たちが1番テーブルに到着したとき、向かいの席にはひとが座っていた。
脇くんだった。
三宅先輩は、
「っと、遅れて悪い」
と形式的に謝った。脇くんは肩をすくめて、
「まだセッションまで時間があります」
と答えた。
三宅先輩は眉をひそめる。
「セッション?」
「……いえ、なんでもありません」
ふたりはオーダー表をひらいた。
私たちは直前で、じぶんたちの順を教えてもらっていた。
あとは赤学がどう出てくるか、だけ。
「都ノからどうぞ」
「ああ、わかった……そのまえにちょっと確認していいか?」
三宅先輩の問いかけに、脇くんは「はい」とだけ答えた。
「そっちは部長と主将が来てないみたいだが、代理の許可は取ってあるんだよな?」
この質問には、事情を知っている私のほうがドキリとした。
一方、脇くんは眉ひとつ動かさなかった。
「はい」
「そっか、ならいい……都ノ、1番席、副将、穂積八花」
「赤山学園、1番席、副将、増田皓平」
「2番席、三将、松平剣之介」
「2番席、三将、藤原健士」
「3番席、四将、星野翔」
「3番席、五将、岩井綾斗」
「4番席、五将、風切隼人」
「4番席、六将、宮内慶也」
「5番席、七将、大谷雛」
「5番席、八将、川名侑」
「6番席、八将、裏見香子」
このとき、脇くんは一瞬だけ微笑んだようにみえた。
「6番席、十将、脇聖司」
ぐぅ、当たった。
「……7番席、九将、三宅純」
「7番席、十一将、西河哲郎」
まわりの偵察組はササッとメモをとって退散した。
都ノと赤学のメンバーも、それぞれの席に散った。
私と脇くんは6番席にむかう。
椅子を引いたところで、脇くんは、
「裏見さん、セッションの話はほかの部員にしなかったんだね」
とつぶやいた。
私はドキリとする。でも、罪悪感をおぼえるようなことでもないと考えた。
「あれは先輩たちに伝えることじゃないと思ったから」
「なるほどね……」
脇くんは着席して、駒をならべはじめた。
会場のざわつきが消えていく。
今回の幹事は八千代先輩だった。
「1番席は振り駒をお願いします」
穂積さんが振り駒。
「都ノ、偶数先ッ!」
よし、先手をとれた。
ほんとうは関係ないけど、気分が少しまえむきになる。
気持ちに積極性を持たせるいいきっかけだ。
会場内は静まりかえり、対局開始の合図を待つ。
「……それでは、始めてください」
「よろしくお願いしますッ!」
私たちは一礼する。
脇くんがチェスクロを押した。
私は気持ちを落ち着けて、力強く7六歩と開けた。
脇くんはすぐには指さず、純白のタンブラーの位置を調整した。
「……今回は裏見さんの音に乗っていこうか。8四歩」
そういう盤外戦術は禁止。これは将棋。
2六歩、8五歩、7七角、3四歩、8八銀、3二金、7八金、7七角成。
角換わりだ。
同銀、2二銀、4八銀、6二銀、4六歩、4二玉、4七銀、7四歩。
王様の移動が早い。3三銀も5二金も入れずに、居玉を先に避けてきた。
これは速攻態勢とみました。
私は5六銀と出て、3四と7四の歩にプレッシャーをかけた。
3三銀、9六歩、7三銀、6六歩、8四銀、5八金。
「prestissimo……7五歩」
ッ!! 超速攻の棒銀ッ!?
しまった、これは予想してなかった……って、顔に出しちゃダメ。
とはいえ、手なりで対応できる状況でもなかった。
私はじぶんを落ち着かせる。
脇くんは澄まし顔で、タンブラーのコーヒーを飲んでいた。
さすがに研究手でしょ……ただ、かたちは棒銀。それ以外のなにものでもない。
だったら棒銀に対応していけばいい。2二に角の援護はいない。
「……6七銀」
上部を厚くする。雁木のかまえ。
脇くんも即潰れはないと判断したらしく、9四歩と伸ばした。
これもそんなに脅威じゃないのよね。
ふつうの棒銀は2二に角がいるから、端攻めがけっこう強烈。
今はおたがいに手持ち。さすがに4四角の打ちなおしとかはないし。
「6八玉」
居玉は回避する。
5二金、1六歩、1四歩、4五歩、3一玉。
……動きようがなくなった気がする。
7九玉としてみる? ……いや、それよりもこっちがいいか。
「4八飛」
私はチェスクロを押した。
この手はすぐに仕掛けるんじゃなくて、ちょっと手待ちの方針。
そもそも、飛車以外はもうほとんど動けない。7九玉も危険だ。
脇くんはコーヒーを飲みながら、静かに盤を見すえた。
私は2二玉、2八飛のもどりを本命に読む。
2分ほど経って、脇くんはタンブラーをおいた。
「裏見さんは、率先して音を引っ張っていくタイプじゃないのかな」
私は思考を乱されて、すこしばかりとまどった。
「なんの話?」
「じゃあ僕の音に乗ってきてよ……9五歩」