19手目 急転直下の終盤
パシリ
静かな教室に、駒音が響き渡る。
昼食からもどって来た私たちは、それぞれの役割を果たすため、会場に散った。2回戦に進出した3人のうち、松平と三宅先輩は対局へ、シードの風切先輩は、私と一緒に、戦型をチェックすることになった。大谷さんは、午前と同じく荷物番。
1回戦で半数が敗れた計算になるから、会場はずいぶんとすっきりしていた。その代わりに、観戦者がグッと増えて、通路の移動にひと苦労。注目局の周りには、序盤から何人もの人だかりができていた。
「裏見、そっちは、どうだ?」
「ちょうど終わりました」
風切先輩と分担したおかげで、ペースはだいぶ速くなった。邪魔にならないように、一旦廊下へ出て、お互いのノートを確認し合う。風切先輩にも、メモを取ってもらった。あとでまとめないといけないから、記憶しているだけじゃダメなのだ。このことに気づいたのは、昼食から帰って来たあとで、あいかわらずグダグダな展開。
「聖ソフィアは、2席残ってますね。先輩から見て、どんな感じでしたか?」
風切先輩は、ボールペンの底で額を掻きながら、
「ちょっと、気になることがあるな……」
と答えた。
「わ、私のチェック、間違ってました?」
「いや、そうじゃない……ただ、312の教室にいるやつは、棋力が高いように見えた」
312――細目の子だ。私は、容姿と服装を伝えた。
「ああ、そいつだ」
「先輩視点で、何段くらいありそうですか?」
私の見立てだと、道場初段くらいかな、と思っていた。
先輩は、難しい顔をする。
「具体的に何段、ってわけじゃないんだが……雰囲気は、高段者に見える」
「雰囲気……?」
私は、首をかしげた。ちょっとオカルトじゃないかしら……いや、そうでもないかも。私だって、手つき、指すときの姿勢、間合いで、なんとなく分かることがある。風切先輩クラスなら、もっと正確に分かるのかもしれない。
でも、高段者が、1回戦のあの詰みを見逃すかしら。馬を出るだけなのに。
「俺の勘違いかもしれない。そいつが2日目に進出したら、考えよう」
たしかに、それが一番っぽい。
「戦型チェックは終わったな。三宅は、他になにか頼んでたか?」
「いいえ、自由にしていいって言われました」
休憩でもいいらしい。でも、休憩するほど疲れなかった。
「そっか……俺は、3回戦の相手を観てくる」
「了解です。私は、ほかのメンバーを応援します」
こうして私たちは、二手に分かれた。まずは、松平の応援を――と思った矢先、ふと足が止まる。312のプレート。私は、風切先輩の話を思い出した。
……………………
……………………
…………………
………………
気になるわね。評価ミスだと困るから、もういちど確認することにした。
教室へ入る。教壇の幹事が、ちらりとこちらを見て、また顔をもどした。私は、黒板で名前を確認した。
明石(聖ソ1)
1年生だったのね。落ち着き払っていたから、てっきり上級生かと。1回戦のときは、大学名の下にある数字の意味が分かっていなかった。私は、通路にたむろしている男子をやり過ごして、例のテーブルへと向かった。観戦者は、いないようだ。盤面を覗き込む。
これは……原形が分からない。5八玉、5二玉なところを見ると、横歩?
んー、困った。形勢判断ができない。私は居飛車党だけど、横歩だけは指さないと決めている。親のカタキってわけじゃなくて、単純に苦手なのよね。
ここからどう指すのかも、全然見当がつかなかった。とりあえず、観戦を続ける。
1分ほど考えて、先手の明石くんは6六角とぶつけた。
「いやあ、参ったな」
相手の眼鏡の子は、背筋を伸ばして、額をこぶしで叩いた。
その顔に、見覚えがある。日センとの交流会で、速水先輩と指したあと、声をかけて来た子だった。今田くんという名前で、黒板のトーナメント表にも、そう書いてあった。私とは午後の部で当たって、私が勝った。そのときの印象だと、彼も道場初段くらいだったように記憶している。明石くんの腕前を見るには、もってこいの組み合わせ。
「取るしかないか。同角」
明石くんの同飛に、今田くんは8七桂と打った。
これは、どうかなあ。横歩は分からないけど、いい手ではないと思う。
9九桂成ってことよね。桂馬をわざわざ打って、香車を拾いに行くのは損だ。
「どうやら、後手が苦戦してるみたいね」
女性の声――ふりかえると、速水先輩が立っていた。
「こ、こんにちは」
私は、小声で挨拶する。
「うちの今田を偵察に来たの?」
「はぁ……まあ……」
私は、言葉を濁す。気になる選手が聖ソフィアにいるから、とは言いにくい。
とはいえ、態度でバレてしまったようだ。速水先輩は、黒板を確認したあと、
「ああ、そういうこと……聖ソフィアの偵察に来たのね」
と、見抜いてきた。仕方がないから、そうです、と答えた。
「速水先輩も、戦型チェックですか?」
「私は応援」
日センみたいに部員の多いところは、人海戦術で人手が足りているようだ。
うらやましい。
そんなことを思っているあいだにも、局面は進んでいた。
7八金、9九桂成、8二歩、6五歩、同飛、6二香、3五飛、3四歩、2五飛。
ん、これって、王手飛車じゃない?
4六桂、同歩に、1四角でも3六角でも王手飛車だ。
以下、4七角、2五角、同角で、単なる飛車角交換にみえるけど、7五飛がある。これが角金両取りだから、後手の駒得。この筋を、私は速水先輩にたずねてみた。
「なかなか鋭いわね。ただ、7五飛に7七角と受けて、2五飛、1一角成、2八飛成、2九歩、1九龍、2一馬の展開は、先手もそこまで悪くないと思う」
【参考図】
「先手の駒損ですよね?」
「駒損と言っても香損だし、8一歩成が入れば、一気に解消されるわ」
あ、そっか、8一歩成があるのか。8二同金は、飛車の打ち場所ができてしまう。
パシリ
駒音――4六桂が指されていた。
同歩、1四角、4七角、2五角、同角と進む。
「7五飛、と」
今田くんの手つきは、自信ありげ。
明石くんの7七角にも、すぐに2五飛とスライドさせた。
「1一角成です」
「2八飛成」
以下、2九歩、1九龍、2一馬で、速水先輩の読み筋通りになった。さすが。今田くんと明石くんは、ここまでの進行に5分近く使ったけど、先輩は一瞬だったから。
「金を守らないといけないな……1四角」
今田くんは、角を打ち直した。王手で金を守っている。
ただ、ちょっと危険な守り方にも見えた。
「これ、あとで3二馬と切る手がありませんか?」
「そうね。3二馬、同角に4五桂と打ってみたいわ」
「今の局面から、4七香、1八龍、3二馬、同角、4五桂とか?」
「香車は残しておきたいから、3六歩で、どうかしら」
3六歩? 同角……4七銀と弾かれて、困るか。手堅く4七桂でも困りそう。
難所だと見抜いているのか、明石くんは、ここで時間を使った。
「……3六歩です」
ほほぉ、またまた速水先輩の当たり。
ただ、逆に言えば、明石くんが速水先輩の手について来てるってことなのよね。
もしかして、棋力判定が間違ってたのかしら……不安になる。
「それは、これがキツいんじゃないかな? 1八龍だよ」
今田くんは、龍を引いた。次に3七香を見せている。
「3二馬です」
馬切りを予想していなかったようで、今田くんはちょっぴりあせった。
「え、寄って……ないよな。同角」
明石くんは、4五桂と打ち下ろした。
ふぅむ……速水先輩が言っていた、打ちたい桂馬だ。
これ、詰めろだったりする? 5三桂成、同玉、4五桂と打ち直して、王様を引くのは簡単に詰みそう……ん、そうでもないのか。5二玉は5三銀、6一玉、5一飛、同玉、5二金までだからいいとして、4二玉が難しい。3三銀、5二玉(5一玉は4二金、6一玉に5一飛と打って詰み)、5三金、6一玉……詰まない。4二玉に5三金かしら? 3一玉、4二銀、2一玉……あ、これは、3一飛、1二玉、3二飛成、2二合駒、2三角、1一玉、1二香までね。2一玉のところで2二玉と逃げるのは、3三桂成、1一玉(1二玉も2一玉も2二飛、1一玉、1二香まで)、1二香、同玉、2二飛、1一玉……ん、詰まない?
私は、3三桂成、1一玉に3一飛の順も考えた。2一歩合、1二香、同玉、3二飛成、2二桂……ん? やっぱり詰まない?
「4五桂って、詰めろじゃないですよね?」
私は念のため、速水先輩に確認をとった。自分の読み筋を伝える。
「歩合だと、詰むわよ。1二香、同玉、3二飛成、2二桂に2三龍と王手して、1一玉、2二成桂、同歩、1三龍、1二合駒、2三桂、2一玉、3一銀成までね」
【参考図】
むむむ、そんな詰みが。
「でも、2二桂合のところで2二角合なら、詰まなくないですか?」
「それは2三角、1一玉、2一龍、同玉、3二角成、1一玉、2二馬までよ」
おっとっと、別の詰み筋があるのか。うっかり。
っていうか、2二桂合も、その順で詰んでるじゃない。
わざと難しいほうを答えたわね。ツンデレもこちゃん。
「だから、2一歩合じゃなくて、銀合でがっちり受けたほうがいいわ」
「つまり……4五桂は、詰めろじゃないんですね」
「詰めろじゃなくても、はっきりと後手負けよね。1一に閉じ込められた時点で、詰めろを逃れる術がないもの。2一銀合に3二成桂で先手勝ち」
「それも、そうですか……ってことは、4五桂の打ち直しに6三玉?」
速水先輩はあごに手を当てて、しばらく考えた。
「……そっちも、かなり危ないわね。4五桂、6三玉に6六香と打って、これを7四玉と逃れるのは、7五歩が痛打。8四玉は9五銀、7五玉、8六金、7四玉、7五飛までで、8五玉も9五飛、8六玉、8七金打の即詰み。というわけで、7五同玉と取るしかないけど、そこで9五飛と打たれて、8五合駒、7六歩、同玉、8七銀、7五玉、7六金、7四玉、8五金まで」
「6六香に5二玉は当然詰みですから、6四歩ですか?」
「そこで、同香、同玉、5三銀がないかしら? 一見、7四玉で詰まないようにみえて、7五歩、同玉、7六歩、同玉、7七銀以下、詰むと思う」
パシリ
ようやく駒音が聞こえた。
あ、攻めた。
今田くんは、5三桂成以下が詰まないという読みのようだ。
明石くんは、ここで考え込む。考え込むと言っても、あいかわらず飄々とした表情で、感想戦みたいな印象を受けた。対して、今田くんのほうは、ああでもない、こうでもないと、頭を抱えていた。
私は、と言うと、先手勝ちの予感がしていた。速水先輩のアドバイスのおかげだ。同玉のあと、1筋方面に逃げるのは、追いつめられて寄りだし、9九へトライするのも、阻止されそうだったから。
「……5三桂成」
行った。
同玉、4五桂、6三玉、6六香、6四歩、同香、同玉、5三銀、7四玉、7五歩。
指し手が速い。パタパタと進む。
今田くんが同玉と取ったところで、明石くんは、私たちのほうをチラリと見た。
「……9五飛」
ん? 飛車打ち? 7六歩のほうが、確実だと思った。
まあ、これでも詰むのかな。
8五桂、7六歩、同玉、8七金打、7五玉、7六歩、7四玉。
……あれ? 詰まなかった?
となりで観ていた速水先輩は、タメ息をついた。
「詰ませ損なったのね。8五桂、7六歩、同玉に、おとなしく7七歩で詰んでいたわ。8六玉、8七金打、7五玉、7六金、7四玉、8五金、6五玉、8六金、7四玉、7五金、6三玉、6四金まで。途中、7七歩に6五玉と逃げるのは、8五飛、7五合駒を入れてから6六金で詰み」
先輩は、スラスラと詰み筋を並べた。
明石くんは、8六金と詰めろを継続させた。
今田くんは念入りに確認してから、8四銀と打ち返した。
継続手がない。
明石くんは8一歩成としたけど、今田くんに3八香成とされて、頭を下げた。
「負けました」
「ありがとうございました」
今田くんは、嬉しそうに息をついた。
「最後、詰んでましたか?」
明石くんは、とぼけたような感じで、そうたずねた。
「詰んでたと思うよ。7五玉のとき、9五飛じゃなくて、7六歩、同玉、7七銀で詰んでたと思うし、9五飛、8五桂、7六歩、同玉、7七歩でも、詰んでたんじゃないかな」
「右へ逃げる順しか読んでいなかったので、面食らいました」
明石くんは、淡々とそう答えた。もうちょっと悔しそうでも、いいんじゃない?
これって、勝勢からの急転直下なんだし。
今田くんも、相手の読みが浅かったことに、意表を突かれたようだ。
「あ、そういう……まあ、右へ逃げたほうが安全に見えるけど、逆転がないからね。一か八かで、こっちに逃げたんだけど……時間を使われたら、イヤだったかな」
そうそう、今田くんの言う通り。
明石くんは、まだ3分ほど残していた。秒読みまで粘っても、良かったと思う。
ふたりが感想戦を進めるなか、私はメモを取った。
「明石くんって子、段位はどのくらいだと思いますか? ……ん?」
速水先輩は、いつの間にか、いなくなっていた。
この対局の感想戦を観ても、しょうがないってことか。
私はメモ帳に、《初段未満かも》と追記して、松平の応援へと向かった。
場所:2016年度 春季個人戦1日目 2回戦
先手:明石 嘉門
後手:今田 義規
戦型:横歩取り8五飛型
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩
▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲3四飛 △3三角 ▲5八玉 △8五飛
▲7七桂 △2五飛 ▲2八歩 △7二金 ▲3六歩 △5二玉
▲3七桂 △5五飛 ▲9六歩 △6二銀 ▲8四飛 △8三歩
▲8六飛 △3五歩 ▲7五歩 △同 飛 ▲5六飛 △4二銀
▲3八銀 △4四角 ▲6八銀 △3三銀 ▲9七角 △7四飛
▲3五歩 △同 角 ▲7九金 △4四角 ▲4五桂 △4二銀
▲6五桂 △6四歩 ▲5三桂左成△同銀右 ▲同桂成 △同 銀
▲7五銀 △同 飛 ▲同 角 △5四歩 ▲6六角 △同 角
▲同 飛 △8七桂 ▲7八金 △9九桂成 ▲8二歩 △6五歩
▲同 飛 △6二香 ▲3五飛 △3四歩 ▲2五飛 △4六桂
▲同 歩 △1四角 ▲4七角 △2五角 ▲同 角 △7五飛
▲7七角 △2五飛 ▲1一角成 △2八飛成 ▲2九歩 △1九龍
▲2一馬 △1四角 ▲3六歩 △1八龍 ▲3二馬 △同 角
▲4五桂 △3七香 ▲5三桂成 △同 玉 ▲4五桂 △6三玉
▲6六香 △6四歩 ▲同 香 △同 玉 ▲5三銀 △7四玉
▲7五歩 △同 玉 ▲9五飛 △8五桂 ▲7六歩 △同 玉
▲8七金打 △7五玉 ▲7六歩 △7四玉 ▲8六金 △8四銀
▲8一歩成 △3八香成
まで116手で今田の勝ち