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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第32章 夏合宿ゲーム(2016年8月27日土曜)
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196手目 伝説の相場師

「伝説の相場師? ……高村こうむらさんが冗談をいうなんて、めずらしいですね」

「冗談か……ふつうはそう思うよな」

 高村さんはタバコの火を消して、ソファーに座った。

 うしろに流したシルバーのメンズツーブロック。落ち着きがあって、時代と場所がちがえば【貴公子】という言葉がぴったりだった

 高村さんはそばにあったクッションを腰にあてる。

「俺ももう年だ。できればさっさと引退したい」

「まだ30代でしょう」

「アラフォーだよ。おまえだって、この仕事で一生食っていくつもりはないんだろ?」

 図星だった。あたりまえではある。この世界に定年はない。それはいつまでも続けられるという意味ではなく、引退が早いということだ。スポーツ選手みたいなものだ。言い方は悪いが、競争に脱落した者から消えていく世界だ。

「高村さん、俺をこの業界に誘っといて、ネガな発言をするんですね」

「かりに琵琶湖の工場で20年近く働いたとして、今ほど貯金があると思うか?」

 僕はペットボトルの水をコップにそそいだ。どう答えればいいかわからなかった。

 高村さんはそのコップを受け取らなかった。淡々と先をつづける。

「なあ、ふみや、株ってやったことあるか? FXでもいいんだが」

「ないですね。どうやればいいかわかんないですし」

「最近、アーリーリタイアっていうのが流行ってるだろ」

 それは知っていると答えた。この業界は、マジメに勉強しなけりゃ生き残れない。芸能ゴシップだけ見ているようじゃダメなんだ。政治も経済もわかっていないといけない。もちろん、ノリだけでやっている店やホストも多い。けど、それは長続きしない。

 僕は水をひとくち飲んで、

「若いときにめいいっぱい稼いで、あとは株式配当や不動産収入で暮らす生き方ですね」

 と答えた。

「へたな新聞記者よりもわかりやすい解説だな。そっちでも食えるんじゃないか」

「ダメですよ。ひとに話を聞いて回るのが好きじゃないんで」

「ろくに取材してない記事も多いと思うがね」

「高村さん、僕の人生設計にアドバイスしに来たわけじゃないんでしょう」

 高村さんはじぶんのことを語り始めた。金は貯まっている。問題はいつ引退するかだ。ホスト業が長いから、べつの仕事をするのは無理だろう。安全にリタイアしたい。そのために、低リスクな投資方法をさがしている。要約すればそんな感じだった。

 高村さんは2本目のタバコに火をつけた。

「酒とタバコで健康診断の結果も悪い。癌にでもなったら貯金は減る。退職金もない」

「失礼な質問ですけど……高村さん、考え方がホストっぽくないですよね」

「それは偏見だな。風俗嬢でも、散財するタイプとしっかり貯金するタイプがいる。性格の問題だ。俺はこうみえても心配性なんだよ」

「心配性のひとがホストですか?」

 危ない質問をしてしまったことに気づいた。じぶんらしくないと思った。女性客に対するあしらいは、じぶんでいうのもなんだけどほとんどパーフェクトだったからね。どうも気が緩んでしまったらしい。高村さんに対しては、なんというか……父親と接するような感情があったんだろうな。僕は母子家庭なんだよ。実の父とはほとんど会っていない。

 高村さんは答えた。

「心配性だからこそ、この業界を選んだ。俺はサラリーマンに向いてない。かと言ってスポーツや芸能でいく才能もなかった」

「高村さんなら人気番組の司会でも張れそうですけどね」

「ダメだな。俺はお世辞をいうのは得意だが、頭をさげるのは苦手なんだよ。じつは大学を卒業して1年ほどは、サラリーマンをやってた。証券会社の営業だ」

 今まで一度も聞かされていなかった話だ。僕は黙って耳を傾けた。

「証券会社の営業ってのは、客をハメ込んででも売るのが仕事なんだ。こんな商品が儲かるわけないだろって思っても、上司が売れと言ったら売るしかない。妙な外貨建てとか、客が理解できないほど複雑に組み合わせた商品とか、そういうやつだ。そこからのマージンがじぶんの営業成績に入る。だからむやみに売り買いさせて手数料もとる」

「……怖い世界ですね」

「客も悪いんだがな。濡れ手であわなんて、世の中に転がってるわけがない。最後はじぶんで勉強しないやつはダメなんだ」

「なるほど、そこで伝説の相場師とつながるわけですか。コツを勉強したい、と」

 高村さんは黙った。

 その沈黙が急に重苦しいものに感じられた。

「どうしました? もしかして法律的にヤバいやつなんですか?」

「なあ、ふみや、業界の裏話ってあるよな」

 唐突な質問に、僕はすぐには答えられなかった。

「まあ、いろいろと……」

「あるよな。どこどこのだれだれは誕生日パーティーで1000万貢がせたとか、そういう伝説級のやつがな。俺は1年しかその会社にいなかったが、たまたまひとりのじいさんに気に入られていた。そのひとはバブル時代からの生き残りで、もうすぐ定年っていう歳だったが、うだつがあがらなくてね。ようするに向いてなかったんだな。だけど昔は終身雇用があたりまえだったから、転職の機会も逃して、べつの部署で窓際族をしていた。なぜか俺をやたら可愛がってくれていたんだが、いよいよ退職ってときに、なぜか俺と飲みたいと言ってきた。個人的な送別会のつもりだったんだろう」

 高村さんはそこで一服つけた。

 紫煙しえんが天井に立ちのぼる。

「その先輩はめずらしく酔って、ふとこんなことを言い始めた。ジョゼフ・ケネディを知ってるか、って。俺は知ってると答えた。ふみやはどうだ? アメリカの大統領じゃないぜ?」

「アメリカの大統領の父親、ですね」

「そう、ジョゼフ・ケネディはジョン・F・ケネディの父親だ。彼は金融業者で、ハーバード大学を卒業してから順調に儲けていた。どうやって儲けたか知っているか?」

「たしか、靴磨きの少年に『なんの株を買えばいいですか?』って訊かれたとき、市場が完全に飽和したと読んで売りに転じた、じゃなかったですか」

「よく知ってるな……だが、それは都市伝説だ」

 僕はおどろいた。

 テレビ番組ですらそういう解説をしていたからだ。

「その靴磨きの少年の話は、ジョゼフ・ケネディの作り話なんだ。真相はちがう」

「じゃあ、その真相ってなんなんです?」

「インサイダー取引だよ。ジョゼフ・ケネディは自社で入手した顧客情報を利用して、インサイダー取引をしていた」

 これには驚いた。インサイダー取引なんて違法じゃないか。だけど、よくよく考えてみれば戦前の話なんだ。インサイダー取引を規制する法律なんて整備されていないし、仮に整備されていても調べようがないだろう。メールや通話記録が残るわけじゃないんだからね。

「ふみやは、この話からなにを読み取る? アメリカ大統領の父親はインサイダー取引で巨万の富を築いた悪党? そういうのは俺はどうでもいい。俺がこの話を聞いて気づいたのは、漫画みたいな天才のひらめきなんて実際にはないってことだ。成功の裏には用意周到な調査と分析がある」

 僕は納得した。さっきの靴磨きの少年の話だって、それがほんとうかどうかは調べていなかった。天才的ひらめきが人生に成功をもたらす――たしかに魅力的な仮説だ。だけど、じっさいには入念な下調べと準備が必要。これも魅力的な仮説だと思った。

「伝説の相場師っていうのは、ジョゼフ・ケネディのことなんですか?」

 高村さんは「ちがう」と答えた。

 そして、ある平成初期の相場師について語り始めた。

 大筋を聴き終えた僕は、あぜんとした。

「バブル崩壊を予言した……?」

「それは正確じゃない。予測した、だ。ジョゼフ・ケネディみたいにな」

 僕はそれまでの話のつながりを理解した。ようするに、世界恐慌が一部の人間にはわかっていたのとおなじで、バブル崩壊も一部の人間には予想がついたんじゃないかってことだ。

「となると、やっぱりインサイダー取引ですか?」

「俺はそう考えている」

「インサイダー取引って90年代でも認められていたんですか?」

「日本でインサイダー取引に関する罰則が設けられたのは1988年だ」

「……ギリギリアウト?」

 高村さんはタバコを持った手で、僕を指差した。

「ところがな、当時の罰則はに刺されたよりも軽いんだ。50万円以下の罰金」

風営法ふうえいほうのほうが厳しいじゃないですか」

「そのとおり。証券取引等監視委員会が設置されたのは1992年。バブル崩壊後だ。そもそも当時は金融庁すらなかった。金融庁の前身である金融監督庁が設立されたのは1998年。バブル崩壊のときは、まだザルだったと考えていい。内部情報を取得したやつが暴落を見込んで大儲けしていても、おかしくはない」

「暴落を予想できる情報ってなんですか?」

「1990年3月27日の大蔵省銀行局長の通達だ」

 僕はそのときの話の半分も理解できなかった。けど、要点ははっきりわかった。国の介入が長期的に金融が混乱させたこと、そして、そのことに気づいたひとは当時ほとんどいなかったことだ。

 高村さんは、もうひとつ大事なことをつけくわえた。

「この通達が危険なのは、一部の政府関係者にはわかっていた」

「わかっていた……? じゃあなんで出したんですか?」

「国民がそれを望んだんだよ。当時の世論は、土地バブルをこっぴどく批判していた。『俺がマイホームを持てない』という感情論だ。マスコミも土地価格を下げるように要求する論調ばかりだった。価格が下がれば土地を担保に金を貸してる連中も借りてる連中も危ない、というところまで考えが及ばなかったんだな」

 僕はそこでピンときた。

「まさかその伝説の相場師は、政府関係者ですか?」

「その可能性はある……と俺は読んでいる」

「だったら僕に頼むのはムリです。政治家や官僚の知り合いなんてひとりもいません」

「その相場師は将棋が強いと聞いているんだ」

 だからどうしたんだ、と僕は思った。将棋が強いひとなんていくらでもいる。高村さんは将棋をぜんぜん指さないのだろうな、という気がした。だいたい、どこから流れてきたのかもわからない風の噂だ。ネット将棋で初段という可能性だってある。仮にそうなら、万単位でいてもおかしくはない。

 それを説明しても、高村さんは承知しなかった。

「その相場師がK都に来ているという噂なんだ。将棋道場というのがあるんだろう? そこに出入りするかもしれない。調べてくれないか。手間賃は出す」

 高村さんが提示した額は、けっこうなものだった。僕は「期待しないでくださいよ」とことわったうえで、将棋道場めぐりを引き受けることになった。

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