179手目 ひとの縁
「ふぅ……すごい人混みだったわね」
清水寺からの帰り道、私は大きく息をついた。
もうすぐ夜をむかえる東の空に、淡い月が昇る。
交通整理が必要なほどのにぎわいが、ようやく途切れた。
「大谷さん、ひとの多い場所ばかりまわっちゃったけど、大丈夫?」
私が尋ねると、大谷さんは手を合わせて、
「雑踏は寺社のたたずまいを損ねるものではありません。雑踏のなかに隠れた静謐を見出すことこそ、心の安らぎと言えましょう」
と答えた。し、心頭滅却系女子。
とはいえ、人が多いだけでK都はK都なのよね。
歴史の重みのある街だと、あらためて思った。
時刻は夜の7時。そろそろお腹が空いてきた。
「姫野先輩、夕食は出ますか? それともなにか買って帰ったほうがいいですか?」
「お時間があれば、祇園でお食事などいかがでしょうか」
「え、いいんですか?」
「もちろんです」
外食したいから付き合って欲しい、って感じなのかしら。
でも、乗るっきゃないでしょ。大谷さんも同意した。
姫野先輩はスマホをさわり始めた。
「満席でないか確認いたします。しばらくお待ちください」
○
。
.
30分後――うおぉおお……なんか場違いな料亭に連れ込まれた……。
古民家を改築した建物。濡れ石を渡って、古びた玄関から中へ。土間には古木の彫り物があった。壁には季節の花の掛け軸と生花。気品のある、中年の女将さんが登場。
「おこしやす。ようこそ、姫野のお嬢はん」
「当日の予約になってしまい、失礼いたしました」
「いいえ、お嬢はんでしたら、かましまへん」
女将さんは、にこやかに私たちのほうをチラ見した。
今めっちゃ値踏みされた気がする。
すぐに中へ通された。かなり奥まったところへ案内される。襖をあけると、黒い着物を着た少女が、三つ指をついてお座敷にすわっていた。そして、ゆっくりと頭をさげた。
「よろしゅうおたのもうします」
「市松さん、顔をおあげください。今日は将棋の集まりです」
顔をあげた少女に、どこか見覚えが……あ、フレッシュ戦で会った子だ。
たしか、市松菊さん。
市松さんも私のことをおぼえていたらしく、
「こんばんは、裏見さん、おひさしぶりです」
と、急に標準語であいさつした。
「あ、こんばんは……おひさしぶり」
「将棋仲間とうかがっていましたが、裏見さんと大谷さんだったのですね……どうぞ」
お座敷の中央に、テーブルがひとつ。
姫野先輩はお品書きを示しながら、
「夏場ですが、ぜひ湯豆腐をめしあがっていただきたいと思いました」
と言った。湯豆腐ですか……なんか夏っぽくない。
姫野先輩と市松さんを上座にして、私たちはそれぞれ着席した。
しばらくして、前菜が出てきた……これもお豆腐だ。粗いお塩がついている。
「先付のお豆腐どす。雪塩をかけておあがりやす」
室内の作り、器、料理の格……値段がとんでもない店に来てしまったのでは。
と、とりあえず、いただきます……うん、美味しいッ!
蕩ける舌ざわり。塩が豆腐の甘みを後押ししている。
見かけに劣らぬ味わい。こうして、私のお豆腐堪能タイムが始まった。
○
。
.
ふぅ、食べた食べた。
最後のデザート、豆乳でできたお餅とお茶が出て、私は満足感にひたっていた。
姫野先輩はデザートに手をつけず、鞄を持って席を立った。
おトイレかな、と思ったところで、私は財布の中身が気になった。
「これって、5000円とかで大丈夫……じゃないわよね?」
すると、市松さんが、
「本日は姫野お姉さまのおごりです」
と言った。
「え? ほんと?」
「はい、この店で姫野お姉さまとご一緒するときは、いつもお姉さま持ちです」
……今、なにかあやしい情報を聞いてしまったのでは。
私の顔色を読んだのか、市松さんはすこしばかり付け加えた。
「姫野お姉さまは、私の後援者なのです。私は日本舞踊の家元の生まれです」
げ、藝術のパトロン。すごい。もはやべつの世界になっていてワケがわからない。
「ところで、申命館の将棋部を訪問されたとおっしゃいましたね」
「え、ええ……みんなで将棋を指したの」
「於保さんもいらっしゃいましたか?」
私は「いた」と答えた。
「オボさんに送ってもらったのよ。ちょうど姫野先輩の家まで」
「お姉さまの家まで……もしや、鉢合わせになったのでは?」
私は「そうだ」と答えた。そして、気になったので思わず訊いてしまった。
「オボさんと姫野先輩とのあいだに、なにかあったの?」
市松さんは、お餅を食べるための楊枝を置いた。
「はい……姫野お姉さまと於保さんのあいだには、すこしばかり確執があります」
正直に告白されてしまった。どうしよう。
私のほうが困惑してしまう。一方、市松さんは平然と先を続けた。
「於保さんは、副会長に選ばれなかったことが不満なのです」
「副会長……?」
「関西大学将棋連合の副会長です」
あ、そういうことか。
たしか、藤堂さんが会長で、姫野先輩が副会長なのよね。
「でも、姫野先輩が横取りしたわけじゃないんでしょ?」
「もちろん違います。そもそも、姫野お姉さまは立候補すらしていません。東がどのような風習になっているかは存じませんが、西では先代の役員の話し合いで決まります」
それは関東も同じだと思う。次期会長で揉めてるとか言ってたわりに、選挙がありそうな気配がまったくないもの。とはいえ、憶測でしゃべらないほうがいいから、すこしばかり黙っておく。
「昨年度の秋頃は、おなじ申命館の於保さんが次期副会長なのではないか、という憶測が飛び交っていました。於保さんもその気だったように思います」
ああ、それはマズいパターン……内定してないのになったつもりで振舞ってると、あとでこじれるやつだ。
「だけど、副会長ってそんなにやりたい?」
「西の副会長は2年生から選ばれ、そのまま会長になるのが通例です。この点について東は異なるようですね。今の入江会長は昨年度の副会長ではなく会計だったとか」
「そのへんはあんまり詳しくないけど……会長でもそんなにやりたくなくない?」
市松さんは日本人形のような表情をたもったまま、
「裏見さんは、地位よりも実利、という感じがいたします」
と答えた。それじゃあ私がガメつい女みたいじゃないですか。
いや、まあ、地位とお金って言われたらお金を取りたいけど。
「ようするに、於保さんは会長にめちゃくちゃなりたかったわけね」
「そのようです。加えて、於保さん自身に事務処理能力があるのはたしかです。高校時代は地元の高校将棋連合の幹事長をしていました。また、申命館の次期部長は於保さんではないかと他大も予想しています」
なるほど……うーん……でもなぁ、そういう役持ちになりたいひとの気持ちがイマイチよくわからない。だからコメントのしようがない。
と、そこまで話し終えたところで、廊下からかすかな足音が聞こえた。
いかんいかん。私たちは居住まいを正す。
襖が開いて、姫野先輩が顔を出した。
「もうしわけございませんが、そろそろ家にもどらなければなりません……裏見さん、大谷さん、おふたりが別行動というのであれば、わたくしは先に失礼します」
「あ、いえ、私たちも帰ります……で、いいわよね、大谷さん?」
「はい、夜遊びをする予定はありませんので」
というわけで、私たちもデザートを食べ終えて、退店することになった。
門を出ると、質素に着飾ったおばあさんが待ち構えていた。
おばあさんは市松さんに声をかけた。どうやらお迎えらしい。
市松さんは私たちに頭をさげて、
「それでは、今後とも御贔屓に」
と言い、おばあさんと一緒に闇のなかへ消えた。
それを見送った姫野先輩は、腕時計を確認した。
「タクシーの手配時間からして、そろそろのはずなのですが……」
そのとき、姫野先輩のスマホが鳴った。先輩はすぐに電話に出た。
「はい、姫野です……渋滞? 分かりました。どのくらいかかりそうでしょうか?」
姫野先輩はそう言いながら、店のほうへもどった。このあたりの気遣いというか、お客様に裏方を見せない工夫とか、徹底してる気がする。
そして、姫野先輩と入れ替わるように、ふたり組の男性客が出て来た。高級なスーツを身にまとっていて、一見すると大手のサラリーマン。でも、雰囲気が全然ちがった。ひとりは20代の青年で、茶色いラインの入ったウルフカット。もうひとりはきっちりとうしろに流したグレーのメンズツーブロックで、すごくダンディなおじさま。パッと見、夜の業界のひとだと察しがついた。
「纐纈さん、ごちそうさまでした」
青年のほうが陽気にお礼を言った。
「出世払いだぞ。貸し借りはご法度だ」
「あ、はい……っと、かわい子ちゃん発見」
青年はいかにもなスマイルを作って、私たちに話しかけてきた。
「女の子ふたりでどうしたの? なんなら送って……」
「タクミ、そういうのはご法度だって研修のときに言っただろう」
「はい……すみません」
「まえの店のマナーは忘れろ。祇園で一番高級な遊びを提供する自覚を持て」
!?
闇夜のなかに緊張が走った。固まってしまった私をよそに、大谷さんが口をひらく。
「つかぬことをお伺いしますが、いわゆるホストの方々ですか?」
いきなり話しかけられて、青年とおじさんは異なる反応をみせた。
青年は営業スマイルに、おじさんは無表情に。
そして、おじさんのほうが返事をした。
「お嬢さん、すれちがい同士の客として、すこしばかり無作法ではないかな」
「失礼いたしました。じつは、【ふみや】という名前の、将棋が強いホストをご存じないかと思いまして、お声掛けをしました」
ストレートな物言い。
青年のほうは「?」みたいな表情。一方、おじさんはあいかわらず無表情だった。
「……さあな、祇園もこの業界も広い」
「左様ですか……あなたならご存知かと思いましたが……」
「お嬢さんたち、西日本の出身で、東京の大学に通っているね。1回生か」
!?
ななななな、なんで? あっちは私たちのこと知ってるってこと?
激しく動揺する。
「簡単な推理だよ。お嬢さんたちの話し方には、西日本訛りがある……が、東京の言葉に影響されつつあるように感じた。ここ数ヶ月は東京で過ごしている、と読んだだけだ。ポニーテールのお嬢さんはH島かな。個性的な衣装のきみはT島だね」
「……ずいぶんと観察力がおありなのですね」
「そうでなければこの業界ではやっていけない……っと、迎えが来た」
一台の黒い車が、お店の前に停まった。左ハンドルの外車で、窓がひらく。
これまたホストっぽい若い男性が顔をのぞかせた。
「纐纈さん、すみません、遅くなりました。途中で事故ってて大渋滞で……」
「かまわんよ。いいヒマつぶしができた」
コウケツと呼ばれたおじさんは、そのまま後部座席に乗った。
茶髪の青年は助手席へ。
運転手が窓を閉めかけたところで、おじさんはひとこと、
「お嬢さん、縁というのは不思議なもので、会えないときはなにをしても会えない。会えるときはいつか必ず会える……もしきみたちが誰かに人探しを頼まれたのなら、依頼人の女性にそう伝えておいてくれ」
私と大谷さんは、お互いに顔を見合わせた。
エンジンがかかる。車はそのまま出発した。その背後からタクシーが滑り込む。
中年の運転手がドアを開けた。
「すみません、道が混んでたもので……えーと、ヒメノさんでよろしいですか?」
「あ、はい……ちょっと待ってください」
私たちが姫野先輩を呼びに行こうとすると、先輩は店から出て来た。
女将さんと一緒だった。
「ありがとうございました。今度はもうすこしゆっくりさせていただきます」
「いつでもおこしやす」
姫野先輩は私たちをみて、すこし怪訝そうなまなざしを送ってきた。
「どうかなさいましたか?」
「あ、いえ……なんでもありません」
タクシーに乗る。ゆっくりとタイヤが回った。
窓のそとには、華やかな祇園の街並み。
人の縁というものが、これほど不気味に感じたことはない。
私は今回の帰郷に、一抹の不安をおぼえた。